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瞑想Ps50/A

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瞑想Ps50/A

  • 神は神の臨在の場である「麗しさの窮みシオンから、光を放たれます」(2節)。それは、天と地を証人として、ご自分の民に対して、あることで告発するために神の法廷に召喚させるためです。「光を放たれる」とは、そこに暗闇の状況が前提とされています。暗闇の中に、これからとても大切なことを語るため、私たちに警告を与え、戒めるために、神の光が放たれるのです。
  • ところで、神がこれから語られようとしている大切なこととはいったい何なのでしょうか。それは14節、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」ということです。礼拝において、いけにえがささげられていなかったわけではありません。きちんとささげられていました。8節には「全焼のいけにえ」がささげられていました。このいけにえは本来、いけにえの中でも自発的な最高のささげものです。しかし、民の心に大切なものが失われていました。それは感謝と賛美の心です。(旧約では感謝も賛美も同じ言葉が用いられます。英語ではpraiseです。)「感謝のいけにえ」こそ、神をあがめるにふさわしいものなのです。しかも、この「感謝のいけにえ」には、私たちが神にささげるすべてのいけにえを包含しているものと信じます。神への礼拝も、奉仕も、賛美も・・すべて感謝のわざとしてのものでなければなりません。感謝は神に対するすべてのわざの源泉です。その源泉が形骸化していることが神にとって問題とされているのです。
  • 私たちの礼拝が形式的なものになりうることは十分にあります。心を伴わない、形だけの礼拝は神の御名をあがめることにはなりません。むしろそれは神に対する冒涜です。神の豊かな恵み、変わることのない神の愛に対して、私たちができることはまず感謝することです。そのことだけを神は求めておられるのです。
  • 14節には、「感謝をささげる」ことと「誓い」がワンセットになっています。「感謝」と「誓い」にはどのような関係があるのでしょうか。感謝の真の価値は「自発性」にあります。また、誓いの真の価値は「自意性」にありますと考えます。誓いは、英語では I will で表されます。神の I will と人間の I will が交差するところに真の交わりが成り立ちます。神はこのようなかかわりを求めておられるです。ですから、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」と命じているのです。
  • 15節「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。 わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」とあります。私たちは往々にして「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、苦しい時に神に助けてもらった恩も、楽になれば忘れてしまうのが常です。なんと私たちは身勝手なものかと思います。イエスはある村で、重い皮膚病で悩む10人の人々に出会いました。彼らは声を張り上げて「イエスさま、どうぞあわれんでください。」と嘆願しました(ルカの福音書17章11~19節)。彼らは祭司に自分を見せるように言われて、そこに行く途中で皆いやされました。ところが、自分のいやされたことが分かって、引き返してイエスの足もとにひれ伏して感謝した人は、なんとサマリヤ人の一人だけでした。このことを考えても、何と人間は身勝手かと思わせられます。ですから、神は、神への感謝を忘れやすい私たちに対して、私たちを苦難の状況へと置かれます。私たちが神によって支えられていることを忘れず、感謝の心を絶やさせないためです。
  • 神への感謝は、神の御名をあがめることにつながります。23節では格言のように、「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。」と述べられています。すべての行為の源泉に神への感謝がある人は、神をあがめることになります。イエスが「主の祈り」の中で、「天にいます父よ、御名があがめられますように」と祈るように弟子たちに教えられましたが、どのようにして御名があがめられるかといえば、詩篇50篇で教えられているように、感謝の心を持つことです。ですから、礼拝のたびごとに、感謝と賛美を携え、主の御前に進み出ているかどうか、絶えず、自分の心を吟味する必要があります。その意味で、詩篇50篇はとても心探られる詩篇のひとつと言えます。

※〔追記〕

  • この詩50篇の表題は「アサフの賛歌」となっています。詩篇において、「アサフの詩篇」は73篇~83篇にまとめられていますが、50篇だけ孤立してここに入っているのは、いけにえのことを問題としている51篇との関わりによるものかもしれません。51篇16節、17節では「まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。

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