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瞑想Ps46/A

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瞑想Ps46/A

  • この詩篇は三つの段落からなっていることが分かります。もし、最初の段落の終わりに(3節の後に)、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」(7、13節)とあるならば、完璧な構造ですが、隠されていると考えても良いと思います。第一段落(1~3節)は自然において、第二段落の4~7節は歴史において、第三段落の8~11節は終末(この世の終わり)について、それぞれ神の臨在の確かさとそのみわざを歌っています。
      
  • 今回は、4~7節で歴史の中で現わされた神の臨在の力について瞑想したいと思います。特に4節、「川がある。その流れは神の都を喜ばせる。」という箇所に注目したい。「川がある」、正確には a river つまり「ひとつの川がある」ということです。神の都はエルサレムのことです。
  • エルサレムという町(神の都)は山の上にある要塞都市であって、川はありません。にもかかわらず、ここにはっきりと「川がある」と記されています。実は、「川があった」のです。しかも地下深くに。近年、考古学者によってそれが発見され、「ヒゼキヤの水路」と名づけられました。ヒゼキヤ王の治世に敵国アッシリアがこの町を包囲しました。しかもその軍勢は18万5千。敵は町に攻め入らなくても、やがて水に困って根をあげると考えていました。ところがなかなか根を上げる様子がない。それはエルサレムの地下を掘り抜いて水源を見つけ、その尽きることのない泉から絶えることなく水が流れ出ていたからです。そうしているうちに、敵の軍勢は夜明け前に神によって全滅したのです。これについてはイザヤ書37章~38章を参照。神が選ばれた都は神の臨在する場所です。「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない」とあるように、どんなに人間もその町をゆるがすことはできないのです。これは、歴史の中で神が実際に働かれたあかしなのです。
  • 「一つの川」、それは今もイエスを信じる者のうちに流れている川です。そこには神が臨在します。それゆえ、どんな危機が襲ったとしても、決して揺るがされることはないのです。なんという祝福でしょうか。神こそすべての問題の解決者であり、打開者なのです。
  • その「ひとつの川」は常に人の目には隠されたところにあります。大きな船も、大きな木も、その下には目に見える部分と同じくらい見えない部分が存在します。隠れたところにライフラインをもっている人は幸いです。見えない部分にこそ、本当の力の秘訣があるというわけです。それは信仰者に当てはめるならば、隠れた神との交わりの生活、祈りの生活といえます。
  • さらに、この「一つの川」は、豊かないのちの実を結ばせます。
    神の都、エルサレムの神殿の敷居の下から流れ出る水のヴィジョンは、エゼキエル47章1~12節、および、ヨハネの黙示録22章にあります。はじめはちょろちょろ流れている水が、次第にその水かさは増して、やがてはすべてを押し流していく流れとなります。そしてその水が流れ込むところにあるすべてのものは生きるようになります。そして多くの実を結ばせるのです。
  • 一つの川、いのちの水、それは神の霊、聖霊の象徴です。イエスが語ったことを思い起こしたい。「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる』」と(ヨハネ福音書7章37~38節)
  • 生ける水、その源泉がイエスにあることを信じ、それが尽きることなく流れ出る祝福が注がれていることを感謝したい。

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