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瞑想Ps28/B

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瞑想Ps28/B

  • 今朝の詩篇28篇のキーバースを6節の「ほむべきかな、主。まことに、主は私の願いの声を聞かれた。」としたいと思います。ダビデが王となるまでの約10年間、サウルの嫉妬によって荒野での放浪生活を余儀なくされ、絶対絶命の危機をなんども通らされました。しかし、神はその都度、彼の助けとなり、とりでとなってくださいました。これはひとえにダビデの主に対する信頼の訓練でした。ですから、ダビデも「私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。」としています。この経験の繰り返しによって、信頼はテストされ、その絆は強められたと信じます。
  • 客観的な視点でみるなら、神に油注がれた者たち(キリストある者たち)は、だれでも、主の助けを必要する状況の中に置かれるようです。そしてそのたびに主からの「おりにかなった助け」を経験していくのだと信じます。詩篇4篇にも同様のテーマがありました。3節「知れ。主は、ご自分の聖徒たちを特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。」と。
  • 私もこれまでの伝道牧会において、その助けを何度も何度も与えられてきました。自分の犯した過ちさえも、主は何度もそれを覆って下さいました。まさに「主は、油注がれた者の力、救いのとりで」(8節、共同訳)となってくださいました。もしも、そうした助けがなかったとしたら、私はすでに神から離れていたかもしれません。
  • 主の「おりにかなった助け」を自分自身が経験することで、他の人たちに対しても、主の助けが必ずあることを確信をもって伝え、教えることができます。あるいは、人々のためにとりなして祈ることができます。このように、主の計らいは、単に個人だけの祝福にとどまることなく、共同体全体の益となっていくようです。
  • 最後に、「私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき」とあります。これはどういうことでしょうか。「聖所の奥」とは「至聖所」のことです。だれの目に見えない「隠れたところにおられる方」に向かって祈る祈り。これはマタイの福音書6章6節にある祈りと同じ祈りだと言えます。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書6章6節
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

  • これが至聖所に向かって手を上げて祈る祈りです。ただし、ここの祈りは、祈りを意味する「ユーコマイ」(εύχομαι)の前に「近くに、面して」を意味する前置詞の「プロス」(προς)のついた「プロシューコマイ」(προσεύχομαι)というより神との親密な祈りなのです。それは「隠れた所におられるあなたの父に祈る」という、人の前で祈る祈りとは異なる、よりレベルの高い(深い)祈りなのです。

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