****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps140/C

Ⅴ/A(107~150篇) | テキストPs140 | 原典テキストPs140 | 瞑想Ps140/A | 瞑想Ps140/B |

瞑想Ps140/C

  • 詩篇138篇~145篇までのひとつのまとまりの表題に「ダビデによる、ダビデの」といった名前がついております。それはダビデの霊性が色濃く出ている詩篇だとみなしてよいと考えます。それはイエス・キリストによって完成し、初代教会、とりわけ使徒パウロらに引き継がれていきます。
  • ではダビデの霊性とはいったい何か。
    詩篇138篇では、ダビデの信仰が常に神のゆるぎない恩寵によって支えられていること、そしてその神の恩寵に対するダビデの礼拝のあり方が非常に豊かであるということを見ました。
    詩篇140篇では、神に知られている(愛されている)自分の存在を認識しつつ、神と対峙する自分の心の中に、傷ついた心があるかどうかを見て、とこしえの道に導いてくださいと祈る姿を見ました。
  • 今回の140篇では、敵に対峙する姿を見ることができます。ダビデにしても、御子イエスにしても、油注ぎを受けたときからその生涯のすべてにおいて敵と対峙します。それゆえ敵と戦う術を身に着けなければなりませんでした。詩篇140篇では自分を「悩む者」(アーニー)、「貧しき者」(エヴィヨン)としています。この表現は神に頼らなければ生きていけない存在であることを自覚したものです。敵に対峙するにあたって、神に全面的に依存したのです。
  • 御子イエスが公生涯に入られてから、当時のユダヤ社会を宗教的に支配していたパリサイ人たちや律法学者たちと対峙することが余余儀なくされます。福音書を読んでいくと彼らと対峙するイエスの態度には力があります。イエスを陥れようとする敵の企てを見破り、議論で負けることは決してありませんでした。しかしそうした背後には、イエスがいつも一人になって隠れたいのりの生活がありました。その祈りは記されていませんが、当然、詩篇の祈りを祈っていたと考えられます。詩篇140篇は、「よこしまな人」、「暴虐の者たち」からの守りを祈っています。それだけでなく、彼らの企てが失敗するように祈っています。そして貧しい者に対して正しいさばきがなされることを確信しています。
  • 決して、自分の感情で動かされることなく、自分の力で敵に立ち向かうことなく、常に、神を信頼し、神の守りの中に自らを置きつつ、敵に立ち向かったことを心に留めたいと思います。

2011.7.22

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional