****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps14/A

Ⅰ/A(1~41篇) | テキストPs14 | 原典テキストPs14 | 瞑想Ps14/B | 礼拝用語Ps14 | 恩寵用語Ps14 | Ps14の修辞 |

瞑想Ps14/A

  • この詩篇はおそらくイスラエルの民がバビロンで捕囚となっていたときに作られたものだと思います。なぜなら、4節で「彼ら(バビロン)はパンを食らうように、わたしの民(イスラエル)を食らい」とあるからです。パンを食うように人を食い尽くしていくという現実の中で、神の助けを期待し、捕囚の身となった神の民が再度、回復するその時を待ち望んでいる姿が映ります(7節)。
  • 亡国と捕囚という憂き目を経験した神の民たちは、移された異教の地バビロンで、神の視点からものごとを考える経験をさせられたのではないかと思います。それを示唆する箇所が1節~3節にあります。一言でいうならば「善を行なう者はいない。ひとりもいない」という現実です。これが神の目に映った人間の姿だとこの作者は見ています。
  • 「善を行なう者」とは「神を尋ね求める者(TEV訳ではWho worship him)」であり、「悟りのある者」であり、「正しい者」です。ただ、神の民イスラエルが、異郷の人々と自分たちを同列な者だと見ていません。そうした者たちと自分たちは違う者だと見ています。確かに、捕囚の身となった神の民たちは、罪を悔い改め、神のみことばを唯一の権威として受け止め、みことばによって神の民としてのアイデンティティを確立していこうとしていました。しかし、やがて神のことばに携わる者たちが律法主義に陥り、自分の立場を守るためにイエスを死へと追いやったのです。自分たちも神のご覧になった「人の子ら」(2節)の中に含まれていると考えてはいなかったようです。そこが旧約の限界かもしれません。
  • この詩篇14篇1節~3節を、後に、パウロはローマ人への手紙3章10節~12節で聖霊によって解釈して引用しています。パウロがその箇所を引用したのは、ギリシャ人(ユダヤ人以外のすべての民の代表として)のみならず、神の民イスラエル(ユダヤ人)も含めたすべての人が罪の下にあると断罪するためでした。「義人はいない。ひとりもいない。・・すべての人が迷い出て、ともに無益な者となった」。「無益な者」とは腐ったものという意味です。腐ったものは投げ捨てられて当然です。これが神の視点からみた人間の状態です。これは神にとって見過ごすことのできない大問題ですが、自分たちの悲惨な状態に気づかないでいる人間も実は大問題なのです。
  • 「すべての人が迷い出て、ともに無益な者となった」という人間の現実は、神にとって痛くも痒くもないことではなく、腸が痛むような悲しみでした。なぜなら、すべての被造物にまさって「栄光と誉れの冠をかぶせられた」人間のすべてが「無益な者」となってしまったのですから。これは神の御名を汚す大問題です。神が黙っておられるはずがありません。ですから、この詩14篇のキーワードを、私は5節の冒頭にある「見よ」にしました。
  • しばしば聖書の中で「見よ」ということばに出会います。それは私たちの注意をあることに強く喚起させるためです。ここで「見よ」と訳しているのは新改訳だけで、口語訳では「その時」、新共同訳では「それゆえにこそ」、LB訳「そのうち」、尾山訳「しかし」、ATD訳「いつの日か」となっています。まとめると、「しかし、それゆえにこそ、いつの日か」神が立ち上がって、となります。「彼ら」とは「心の中で神はいない」と考えている愚かな人々のことでしょう。その彼からが大いに「恐れた」とあります。すでに過去形になっています。人間をその悲惨な状態から救ってくださる逆転の時が「やがて、そのうちに」来るとことをこの詩篇作者は確信しています。神の逆転劇は、必ずしも一発勝負で片をつけるものではなく、神のことばは「土の炉で七回もためされ」る(詩12篇6節)とあるように、多くの歴史を経、時間を経て、また不思議なプロセスを経ながら実現していくのです。新約時代に生きる私たちには、そのことが啓示されています。
  • 5節に「彼らが、いかに恐れたかを」と過去形になっていますが、それが実現するのはおそらくキリストの再臨の時でしょう。しかしあたかもそれがすでに実現したように語られています。やがて「彼ら」が神の逆転によっていかに大いに恐れることになったかが預言的に記されています。人間にとっても、神にとっても、大問題なことを神はやがて御子イエス・キリストを通して実現してくださいました。「迷い出て、ともに無益な者となった」すべての人間のために、イエス・キリストの十字架の死という腸の痛むような出来事を通して、神はすでに解決してくださったし、今もなお、完全な解決が実現されようとしているのです。「彼ら」がどんなに「正しい者」(主を待ち望む者)を辱しめようとしても、主がその者の「避け所」となってくださるのです。
  • 私たちは、日々、「主が彼の避け所」となってくださることを確信して、主を「見上げて」従って行く者でありたいと思います。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional