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瞑想Ps139/A

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瞑想Ps139/A

  • 詩139篇のキーワードは「知る」です。このことばは単なる知識的に知ることではなく、愛を持ってかかわることを意味する人格的用語です。この詩篇の作者は、自分という存在が神によってすべて知られているという事実、神の前に隠れることができないという事実、どこにでも神は遍在し、私の行くところどこにでもおられるという事実、私がこの世に存在する前から神のみこころは存在して書き記されているという事実、このようにして神は私と深くかかわってくださるという事実に、作者は感動と驚きを表明しています。
  • 私たちは自分の内に相矛盾した二つの面を持っています。ひとつは、孤独のゆえに、「自分を知ってほしい」という面であり、もうひとつは、恐れのゆえに「人に自分のことを知られたくない」という面です。神は私たちのすべて(良い面も悪い面もすべて)知った上で、私たちとかかわってくださいます。それは、私たちが神とのかかわりなしに生きることはできない者だからです。
  • しかし、この詩篇の瞑想のポイントは19~22節に書かれている内容が、神に知られていることとどのようにかかわるのかという点です。その箇所には「私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます」とあります。「彼ら」とは「悪者」ですが、それは同胞の者たちです。なぜなら、「みだりに御名を口にする」とあるからです。その悪は、道徳的な悪ではなく、神の愛のかかわりにに対するものだと思います。神を信じると言っていても、心の中に虚しさ、孤独感、存在の無目的、無意味さ、無感動、不毛性、味気なさが支配しているとするならば、それは神のかかわりが希薄であることの結果です。それは人格的関係における危機と言えます。作者はそうした者たち、あるいは彼らの背後にある悪(罪)に対して、「憎しみの限りを尽くして、・・憎む」と告白しているのだと思います。この告白は、裏を返すと、神とのかかわりにおける感動を最も大切なこととしていることを意味します。その感動は「聖霊による内なる感動」であり、その感動が新しい創造的ないのちを生み出していきます。
  • 私の創造主が私を知っていてくださるという驚き、いつでも、どこでも、どのような状況でも、私とともにいてかかわってくださるという感動が、果たしていつも自分の中にあるかどうか、自分自身にも問いかけているのが23~24節です。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私のうちに傷ついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

  • この祈りは、神とのかかわりの中に潜む可能性、即ち、空虚感、孤独感、無意味さ、無感動、無目的、不毛、味気なさ・・・が自分の心の中に支配しないようにとの祈りです。神との親しいかかわりを求める者にとって、この詩篇は大切な知恵を与えてくれていると思います。

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