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瞑想Ps131/C

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瞑想Ps131/C

  • 詩篇131篇2節にある同じ表現が2回使われています。おそらくそれがこの詩篇で強調したいことではないかと思います。その表現とは、「乳離れした子のように」(「ケガムール」כְּגָמֻלは、「~のように」を表わす前置詞の「ケ」כְּと動詞「ガーマル」גָּמַלの分詞形が結びついた語です。このたとえが意味することがこの詩篇を解く鍵かもしれません。
  • 「ガーマル」גָּמַלが聖書で最初に登場するのは創世記21:8です。アブラハムは自分の息子イサクが「乳離れした」日に、盛大な宴会を催したことを記しています。サムエルを産んだハンナは、サムエルが「乳離れした」ときに主にささげています(1サムエル1:24)。「ガーマル」גָּמַלは他にも「実を結ぶ」とか「熟す」といった意味があります。詩篇では「ガーマル」גָּמַלは10回使われていますが、「乳離れする」と訳されているのは131篇2節のみです。
  • 「乳飲み子」と「乳離れした子」との違いは何か。「乳飲み子」は母の乳、あいるは乳房を求めるのに対して、「乳離れした子」は母親自身を求めるということです。前者は神の賜物を求めるのに対し、後者は神ご自身を求める違いと言えます。キリスト者も最初は乳飲み子のように、神の賜物を求めますが、成長(成熟)すると神ご自身を慕い求めるようになるのです。これは大きな違いです。
  • この詩篇は表題に「ダビデによる」とあるように、ダビデの霊性を色濃くした詩篇と言えます。まさにダビデの生涯の目的は詩篇27篇4節にも告白されているように、何にもまさって「ただひとつのこと」、すなわち、主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見ることでした。ダビデはイスラエルの王として神に選ばれた人物であり、神の導きによって王となるにふさわしい訓練を与えられました。しかしダビデは王としての権威や立場に固執することはありませんでした。前の王であったサウル王が亡くなってからも、ダビデはすぐに王となったわけではありません。イスラエルの民の合意としてダビデに王となるよう要請するまでの7年間は、ヘブロンにおいてユダ族の王として治めていました。なにがなんでも自分が王として権威と立場に固執して、それを自分の力で得たり守ろうとしたりしたことはありませんでした。後に、自分の息子アブシャロムがクーデターを起こした際にダビデは都落ちしますが、そのときにもすべてを神にゆだねていました。
  • ダビデの唯一の願いであった神殿建設も、それを成し遂げるのはダビデの子ソロモンであるとの神の御旨を知ったとき、そのことを受け入れ、自分ができることとして神殿建設の材料を揃えることと、神殿礼拝ヴィションの設計図を作ることだけでした。それを実際に実現したのは子のソロモンですが、ここにダビデの謙遜と柔和さを見ることが出来ます。
  • しばしば教会の指導者は大きなヴィジョンを掲げて、多くの人々を用いて、あるいは犠牲を強いて、肉的な情熱で実現しようとすることがしばしばあります。その意味では、ダビデの謙遜と柔和さに学ぶところが大いにあります。そうでなければ、ヴィジョンをなんとか実現しようとするあまり、焦りと不安をかかえるようになります。また人と比較して自分を卑下したり、高慢になったりもするのです。自分の分を越えて大きな事をすることが信仰的なことではありません。ダビデは神を信頼して、魂のやわらぎと平静さの中に王として自分のすべきことを淡々とこなしていったた人物でした。ダビデの人生は多くの戦いを余儀なくされましたが、その勝利の秘訣は彼が「ただひとつのこと」として主の家に住み、主の臨在の中に身を置いたことの結果でした。そしてこのことはやがて来られる神の御子イエスの生き方と重なっています。
  • 3節の「イスラエルよ。主を待て。」との呼びかけは、神の時をひたすら「待つこと」、それはとりもなおさず、神への信頼がなければできないことです。神への自立した信頼こそ乳離れした子を特徴づけるものだと信じます。

2011.7.2

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