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瞑想Ps128/A

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瞑想Ps128/A

Keyword;4節「見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」

  • 詩128篇は1節で「すべて主を恐れ、主の道を歩む者」(いずれも、単数)は幸いだとし、4節では「見よ。主を恐れる人(単数)は、確かに、このように祝福を受ける」と語られています。語っているのは人称なき存在です。
  • 「このように」と言うからには、どのようにという理由がその前に説明されています。その理由は家族の祝福です。妻は「豊かに実を結ぶぶどうの木」に例えられ、子ども(息子)たちは「オリーブの木を囲む若枝のようだ」と例えられています。そこには食卓を囲む家族のうるわしい姿があります。
  • 詩篇の中で「オリーブの木」が出てくるのはそう多くはありません。詩52篇8節、詩114篇12節参照。この木はどんな荒れ地にも耐えて良く生育する活力をもっていると言われます。また、この古木の周辺からは多くの若枝が出てくるそうです。この若枝を切って冠を作り、マラソンの勝利者に与えたことから勝利者のしるし、祝福のしるしとされました。まさに主を恐れる者の子どもたちは祝福のしるしであり、確かな祝福の継承が約束されています。
  • しかし、この麗しい一つの家族の祝福は、神の大家族としての祝福のたとえともなっているというのがこの詩篇の特徴です。エルサレム(シオン)はまさに神の家族を結ぶシンボルです。
  • 前篇の詩127篇で「主が家を建てるのでなければ、主が町を守るのでなければ・・・」とありますが、その家とは「主の家」であり、町とは「神の都エルサレム」です。そこに住む者たちは例外なく、「主を恐れる者(主を信じる者)」たちです。その者たちこそ幸いな存在です。
  • 日本語による「ヘブル語大辞典」を編纂した名尾耕作氏は「主を恐れる」ということについて、「旧約聖書名言集」(講談社、学術文庫)の中で次のように述べています。
    「これは、神を畏敬するということより、神を全身全霊をもって信ずることです。」(220頁)
    「人にはまったく不条理に思える真理を信じるということです。すなわち、神への全幅的信仰であります。これが、人生の『知識』『知恵』の初めであり、基本であるのです。」(244頁)と述べ、神を恐れた人物の例としてヨブやアブラハムの例をあげて説明しています。つまり、「主を恐れる」ことは、「主を信じる」ことと同義なのだということです。

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