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瞑想Ps127/C

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瞑想Ps127/C

  • あるひとつの詩篇を瞑想するとき、瞑想の視点を変えることによって、それまでとは全く変わった味わいを見せることがあります。私も以前の瞑想Ps127/A、Ps127/Bでは気づかなかったことに目が開かれました。
  • 詩篇127篇は大きく二つの部分、前半(1~2節)、後半(3~4節) からなっています。前半では人のいかなる働きも神の助けなしには虚しいということが語られています。後半では「矢筒と矢」というたとえを通して、息子(矢)は父(矢筒)の誉れであることが語られています。しかもそれは、「賜物」であると同時に「報酬」であるとも記されています。さて、この前半と後半をつないでいる共通のテーマは何かという視点でこの詩篇を再度見てみると、そこにはゆるぎない「パートナーシップ」が見られるのです。
  • 神と人(神の民)とのかかわりにおいてこの「パートナーシップ」がなければすべてはむなしいのです。「むなしい」と訳されたヘブル語は「シャーヴァ」(שָׁוְא)です。聖書で最初に出てくるのが出エジプト記20:7です。そこには「主の御名をみだりに唱えてはならない」とありますが、「みだりに」という部分が「シャーヴァ」(שָׁוְא)です。無用、無益、無駄、無意味という意味です。つまり、詩127篇が意味することは、神と共に働くのでなければ、すべては無益であり、むなしいということを表明しています。イエスが弟子たちに「わたしが御父にとどまっているように、あなたがたもわたしにとどまりなさい」(ヨハネ15章)と言われました。それは「御父と御子のパートナーシップ」をモデルとして、あなたがたもわたしとゆるがないパートナーシップを結ぶようにとの教えです。
  • ペテロがイエスに従っていく前に、彼は夜通し働いたにもかかわらず、雑魚一匹も取れずにその働きは徒労に終わりました。しかしそのときイエスがペテロに沖へ漕ぎ出して網をおろしなさいと言われたときに、彼は「おことばどおり網をおろしてみましょう」と言って従ったのです。その結果、沖では取れるはずのない魚が大漁に取れました。そこからイエスとペテロのパートナーシップがはじまったと言えます。
  • 使徒パウロはコリントの教会の人々にこう言いました。「私たちは神の協力者です」(1コリント3:9)と。「協力者」訳されたギリシヤ語は「スネルゴス」συνεργόςで、「共に」συνと「働く」έργωの合成語です。「協働者」「同労者」「助け手」とも訳されます。「スネルゴス」συνεργόςはパウロの特愛用語です。共にパートナーシップを築いているかかわり、これが詩篇127篇を貫いている思想と言えます。
  • 神の働きの多くは人間とのパートナーシップを通してなされています。特に神の救いのご計画においてそのことが言えます。御父と御子とのパートナーシップ、アブラハムとイサクとのパートナーシップ(特に創世記22:6)、ダビデとソロモンのパートナーシップ(特に1歴代誌28:5~21)、パウロとその同労者とのパートナーシップ・・などです。こうしたパートナーの存在は神の賜物であると同時に、報酬でもあるのです。
  • 詩篇127篇は「神とその民」、「父とその息子」のたとえを通して、都上りの旅におけるパートナーシップの重要性を教えている詩篇と言えます。つまりこの詩篇には、御父と御子とのゆるぎない信頼としてのパートナーシップ、そしてそのパートナーシップの大切さを格言として教えている人称なき存在としての御霊が示唆されているように思えます。

2011.6.25

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