****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps123/A

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瞑想Ps123/A

  • 「あなたに向って、私は目を上げます。」(1節)「私たちの目は私たちの神、主に向けられ ています。」(2節)とあります。「目」はヘブル人においては存在全体を意味します。そのよう にして作者が神に祈り求めていることは、ただ一点。それは「主のあわれみ」です。
  • キリスト教の歴史の中で、「主よ、あわれみたまえ」はミサの通常文の祈りの歌でした。その歌の形式はラテン語で「キリエ・エレイゾン」(3回)「クリステ・エレイゾン」(3回)「キリエ・エレイ ゾン」(3回)と歌われます。「キリエ」とは「主」を意味し、「エレイゾン」は「あわれみたまえ」の意味です。「クリステ」はキリストです。こうした祈りがなぜミサの中で定着したのかは分かりませんが、その意味するところを瞑想することは、大きな益をもたらすと信じます。
  • ダビデが姦淫の罪を犯した後に祈った祈りは「神よ、あなたの豊かなあわれみによって、 私の背きの罪をぬぐい去ってください」でした。詩103篇では「主はあわれみ深く、情け深い。 怒るのにおそく、恵み豊かである。」(8節)「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を 恐れる者をあわれまれる。」(13節)とあります。
  • ルカの福音書のマリアの賛歌、ザカリヤの賛歌で強調されていることは、「主のあわれみ」です。同じくルカの18章でイエスが神殿で祈るパリサイ人と取税人のたとえ話をされとき、義とされたのは、なんと 「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人の方でした。このことはパリサイ人にとって青天の霹靂であったはずです。

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