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瞑想Ps114/A

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瞑想Ps114/A

  • 詩篇113~118篇は「エジプトのハレル」と呼ばれ一つのまとまりを持っています。ユダヤ人は過越の祭り、五旬節、仮庵の祭り、宮きよめの祭りの時に、これらの歌を歌ったと言われています。そうした彼らの祝祭日は、当然、自分たちの存在のルーツを神にあって再確認するためのものであったと考えられます。「エジプトのハレル」はそうした意図をもって編集されたのではないかと思われます。
  • まず、詩篇114篇ではイスラエルに対する神のなさった大いなる恵みのみわざが記されています。しかもそのみわざは自然界における神の奇蹟です。事実、イスラエルの歴史において、神の自然界における奇蹟的な介入なしには、今の自分たちは存在していないということだと思います。
    ①エジプトからの脱出時の紅海渡渉の経験(1、3節)
    ②約束の地に侵入するときのヨルダン渡河の経験(2節)
    ③シナイ山で神との契約を結び、神のみことばを賦与された経験(4節)
    ④荒野での水の賦与の経験(8節)
  • この詩篇のキー・ワードは7節の「地よ。主の御前におののけ」ということばだと思います。この呼びかけは、直接的には、自然界全体に対する呼びかけです。神はご自身の救いの計画の実現のためには、自然界において奇蹟的に介入される方であることを呼びかけています。
  • クリスチャンにおいても、なぜ神を礼拝するために集まるのかと考えるなら、それは神が私たちの救いのために、十字架と復活に集約される超自然的な奇蹟をなしてくださったからです。その神のみわざによって私たちは神の子どもとして招かれ、その祝福を受けることができるからです。このことを毎週、再確認する必要があるのです。イスラエルの民が神の超自然的な介入なしには神の民として存在しなかったように、新約の神の民クリスチャンも、同じく、神の超自然的な介入なしには存在し得ないのです。ここにイスラエルの民との共感があります。
  • この114篇の4~5節に気になることばがあります。それは「なぜ」ということばです。
    海よ。なぜ、おまえは逃げ去るのか。
    ヨルダン川よ。なぜ。さかさに流れるのか。
    山々よ。おまえはなぜ雄羊のようにはねるのか。
    丘よ。なぜ子羊のようにはねるのか。
  • 「なぜ、逃げ去るのでしょう。」「なぜ、さかさに流れるのでしょう。」・・・・それは、神がご自身の民を愛しておられるからです。神が共におられるからです。それゆえに、神はいつでも奇蹟的な介入をなされるのです。それは神の民に対する神の愛としか考えられません。ですから行き詰まりのように見える問題に出合っても、神の奇蹟的な介入があることを私たちは期待すべきです。そして、それは私たちをへりくだらせ、「主の前におののく」ようにさせるでしょう。
  • 私たちの人生における行き詰まり経験こそ神の出番です。神は奇蹟的に介入されます。夫婦の問題においても、経済の問題においても、さまざまな試練においても、ありとあらゆる問題においてもです。このことを信じるようにと、この詩篇の作者は私たちに「主の前におののけ」と呼びかけているのではないでしょうか。
  • 「主の祈り」の中に、「われらを試みにあわせず」という祈りがあります。神は私たちの信仰を成長させるために、さまざまな試験や訓練を与える方です。それは私たちに対する神の愛のムチと言えます。ここでいう「われらを試みにあわせず」という祈りの意味は、試練や誘惑に私たちが翻弄されたとしても、私たちを神から引き離し、破滅を引き起こすような試み(誘惑)にあわせないでください、という意味の祈りなのです。神の奇蹟的な介入によって、私たちは破滅から守られると信じます。そして、この神の奇蹟的な介入の恵みが、私たちをして、神への恐れ(畏敬)を起こさせると信じます。

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