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瞑想Ps103/A

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瞑想Ps103/A

1. 自分自身に向かって呼びかけることの大切さ

  • 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちなるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」 この詩篇は自分に向かって呼びかけています。なぜ、自分のたましい、あるいは自分自身に向かって呼びかける必要があるのでしょうか。
  • 詩42篇の場合、「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」(3節)にあるように、自分の置かれている境遇で嘆きの涙を流し、神を待ち望むこともできずに、霊的なスランプに陥ってしまったからです。霊的スランプ、すなわち信仰生活における主にある幸福感の喪失の最大の原因は、ある意味において、私たちが、自分が思うこと、感じることをそのまま語るのを許してしまっていることにあります。ですから、時には、自分が語ることを許さず、自分自身に対して、叱責し、非難し、訓戒し、励まさなければならないのです。詩42篇の場合は、自分に向かって、「神を待ち望むように」「なおも神をほめたたえるように」と自分を励ます必要があったのです。そうしなければ、作者は「失望落胆の霊」に支配されて、うなだれるしかない状況に置かれていたのです。ですから、作者は、あらたな信仰の決断を自分自身に対してする必要があったのです。
  • 詩103篇の場合では、「主の良くしてくださったことを忘れてしまう」という危険があったからです。ですから、作者は「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と自分に向かって言う必要があったのです。

2. 主の恵みに対する感謝の心

  • 私たちはすぐに主の恵みを忘れてしまう者です。恨み、つらみ、人からされたひどい事はいつまでも忘れず覚えていても、神の祝福はすぐに忘れてしまう。 神の恵みに狎れてしまう者です。
  • 例:ルカ17章11~19節に、イエスによって癒された10人のツァラートのうち、主に感謝するために戻ってきたのは、なんとたった1人でした。 これは私たちの姿ではないかと思います。嫌な事は色々と思い起こしても、感謝な事は(それは当たり前)と思って直ぐに忘れてしまう者です。ですから、詩103篇の作者は、自分に向かって、「主の良くしてくださったことのゆえに、主をほめたたる。」-私のうちにあるすべてのものをもって、主をほめたたえる必要を感じたのです。主の恵みに私たちが狎れること、それは信仰の危機だと作者は感じたのだと思います。
  • 作者がここで「主の良くしてくださったこと」として、具体的に挙げていることをみてみましょう。

(1) 「すべての咎(罪)を赦してくださった」
ここでいう「咎」というのは、強情、ひねくれた心、ゆがんだ心の性質のことです。いつも心に不満がある。天気がいいと「暑い。暑い」と言い、雨が降ると「服が濡れる。うっとうしい」と文句を言い、人から心配されて声をかけられると、「うざい」と言うねじれた心。自分に与えられているものを感謝することなく、いつも人と自分を比べて、ないものねだりをする心。そんな私の咎を赦してくださった主の忍耐を覚えて感謝するのです。

(2) 「すべての病のいやしてくださった
病のいやしー昔は、病は死に直面するものであった。私は痛風持ちです。今は良い薬がありますが、そんな薬のない時代はさぞかし大変だったと思います。スポルジョンも痛風だったとか。虫歯になれば痛みが襲う。大男さえも涙と流す痛み。そんな痛みから解放されていることを感謝しなければならない。歯痛、頭痛、腰痛、関節痛、痛風、そして痛烈な痛みを伴う末期ガン。痛みを伴わない病はそれ以上に恐ろしい。現代の医療の恩恵にも感謝し、その背後におられるいやしの神に感謝するのです。

(3) 「いのちを穴からあがなってくださった
この箇所をLB訳では「地獄行きの身を身受けし」と訳しています。バビロンの捕囚を経験した神の民は、まさに、塩をふりかけられた青菜のようにしおれていました。しかし神は、捕囚の民のうめきを聞き、死に定められた者を解放してくださったのです。絶望に変えて、希望を与えてくださった神。生ける望みを与えて下った神の恵み。私も死からあがなわれた者、生ける望みを与えてくださったことを感謝するのです。

(4) 「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」
「冠」というのは、王の位に就くものに与えられるものです。あるいは勝利者に与えられるものです。「冠をかぶらせ」という表現は、あたかも神の目にはまるで私たちを王であるかのごとく見てくださっているということです。ある人は、「ここは神の母性愛が注がれていることを意味している」と言っています。なぜなら、母親にとって子は、まるで王子が扱われると同じように大切に扱われるからです。そうした特権にあずかっていることを感謝するのです。

(5) 「一生涯、良いもので満たしてくださる」
神は、私たちが礼拝しているときだけでなく、いつでも、どこでも、誰に対してでも、良きものをもって満たしてくださるということです。神は良いものしか与えることのできない方だからです。そのことのゆえに、神に感謝するのです。

(6) 「鷲のような若返りを与えてくださる」
主の大庭に植えられた者たちは「なつめやしの木」のように、多くの実を実らせるという約束がありますが、そのような人は「年老いても、なお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂って」いることができます。「みずみずしい生活」、いつも生き生きとした姿、若返りが約束されているのです。その約束のゆえに、主に感謝するのです。

3. 主を恐れること

  • この詩103篇では、先ず1~5節までは個人的な感謝を述べていますが、6節以降では、イスラエルの民全体に対する主のめぐみとあわれみが記されています。

    8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
    9 主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。(LB訳「いつまでも根に持ったりはなさいません。」)
    10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
    11 天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
    12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
    13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

  • 特に、10節のことばは大変なことばです。詩篇96、98篇などを読みますと、神の正しいさばきについて書かれています。「確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる」(96:13)  98:9でも「確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。」とあります。神の正しさによるさばきは、まことに的確であって、ほとんど「数学的正確さ」で結果が現われます。聖書の神は、神による公正なさばきという面を確かに持っています。しかし、それだけ聞くならば、聖書の神は結局、道徳の総元締め程度のものにすぎないのかと思われても致し方ありません。ところが、103篇を見ると、全く質の異なる内容が記されているわけです。情景が一変します。
  • 9 主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。 (LB訳「いつまでも根に持ったりはなさいません。」)
    10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
  • 神のさばきというのは、やはり怒りと結びつくのですが、ところが、そういう怒りからは、神はほど遠いのです。神の恵み、あわれみ、いつくしみというのは、人間の思いを超えている、それはちょうど、天が地を越えているように超えているというのです。
  • さて、ここで、大切な問いがあります。
    ① なぜ、主が私たちに対してこんなに良くしてくださるのか。
    ② なぜ、主は私たちに対してあわれみ深く、情け深いのか。
    ③ なぜ、主は私たちの罪に従って扱うことをせず、咎に従って報いることがないのか。

(1) 御父と御子のような愛の関係を回復するため

  • その答えの第一は、13節にあります。「父がその子をあわれむように」。 神と私たちの関係は、裁判官と被告人の関係ではなく、神が、父と子の関係を築きたいと真剣にそう思っておられるからです。そのような関係を回復したいと願っておられるからです。
  • 「父と子の関係」・・・・それは御父と御子との関係です。この関係は愛の関係です。御父と御子の存在を喜びとし、御子は御父のみこころに喜んで従う、という関係です。そこには一切の強制はありません。ゆるぎなき愛の関係です。ヨハネの福音書では、御子イエスはこういいました。「わたしを見た者は、父を見たのです」と。なぜ御子を見ることが御父を見ることとイコールなのでしょう。それは、「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分から何事も行なうことができません(自分には力がないからできないというのではなく、父へと信頼と愛のゆえに、自らおこなうことをしません、という意味)。父がなさることは何でも子も同様に行なうのです(秘密を分かち合う関係)。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」
    (5:19―20)

(2) 神は、私たちがちりのような、はかなく弱い存在であることを知っておられるゆえに

  • なぜ、という問いの答えの第二は、14節にあります。「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりに過ぎないことを心に留めておられる」ゆえにです。つまり、私たちの存在のはかなさ、弱さのゆえです。人が何者かになり、何かを得たとしても、その出発において、地のちりであることを知っておられる。人がどんなことをしてみたところで、人は神の息によってのみ生きるものとされたのです。この神の息、神のいのちを失ってしまったならば、無に等しいのです。そんな存在であることをご存知であるゆえに、あわれみを示しておられるのです。無に等しい私たちを愛し、そのために御自身の最も大切な御子を惜しまずに手渡された神の愛とあわれみ、そのことを知ることが、「主を恐れること」なのです。
  • ですから、この詩篇では「主を恐れる者」に対する神の恵みは大きいと語られているのです。

    11節 「天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい(高い)。」
    13節 「父がその子(ら)をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」
    17節 「しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある(伴う)。」

  • 私たちは神の良くしてくださったことを決して忘れることなく、神のあわれみと恵みの豊かさをより豊かに知ることのできるような、「主を恐れる者」となりたいものです。

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