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異邦人の「癒やし」と「四千人の給食」

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67. 異邦人の「癒やし」と「四千人の給食」

【聖書箇所】マタイの福音書15章29~39節

ベレーシート

●前回取り上げた「カナン人の女」と、今回取り上げる「癒やし」と「四千人の給食」の奇蹟の文脈は、異邦人になされた神の恵みの出来事です。カナン人の女に向かってイェシュアは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」と言われました。確かに、イェシュアはイスラエルの民と結ばれた契約を成就するために来られました。これは事実であり、まずはユダヤ人なのです。使徒パウロも同様に「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」と言っているのは、そのことを踏まえてのことです。ですから、イェシュアの言った「子どもたち(ユダヤ人)のパンを取り上げて、小犬(異邦人)に投げてやるのは良くないことです」と言ったことは、理にかなっているのです。神の救いの計画は、イスラエルの父祖であるアブラハムに対して神が語られたように、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)とあるように、地のすべての異邦人がイスラエルを通して祝福されるというのは揺るがないのです。カナン人の女もこのことをきちんと踏まえていて、「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と言いました。その信仰がイェシュアを驚かせました。そして、そのパン屑をいただいたことが、その女の娘の癒やしにつながったのです。

●この「カナン人の女」に続く二つの出来事、すなわち「異邦人の癒やし」と「四千人の給食」の奇蹟も、同様に、主人の食卓から落ちるパン屑のおこぼれの話なのです。また、それらの出来事はガリラヤ伝道と異邦人伝道の締めくくりの出来事としても記されているのです。

1. 異邦人に対する癒やし

【新改訳2017】マタイの福音書15章29~31節
29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。
30 すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。
31 群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。

●29節に「それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた」とあります。「そこを去って」の「そこ」とは、シリヤ地方の「ツロ、シドン」のことです。イェシュアの一行はそこを去って「ガリラヤ湖のほとりに行かれた」とあります。マタイは具体的に記してはいませんが、マルコの並行記事によれば、「デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖」とあります。地図で見るならばガリラヤ湖の南東になります。「そして山に登り、そこに座っておられた」とあります。その山がどの山なのかは記されていませんが、イェシュアが「山に登り、そこに座っておられた」とあれば、マタイ5章1節でもそうであったように、天の御国の教えを弟子たちに話しておられたと考えて良いのです。

(1) 癒やしがなされた「山」

●するとそこに、「大勢の群集」がやって来たのです。「群衆」という語彙だけでも大勢のイメージであるのに、あえて「大勢の」と書き記してあります。原文では「オクロイ・ポッロイ」(ὄχλοι πολλοὶ)とあり、数々の群集がそれぞれいろいろなところから押し寄せたというイメージです。彼らは教えを聞くためではなく、足の不自由な者たち、耳が聞こえない者たち、身体の不自由な者たち、そしてほかの多くの人々を連れて、山にいるイェシュアのもとに連れて来て、イェシュアの足もとに置いたのです。「置いた」と訳されていますが、「横たえた」という意味です。足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たちを山にまで連れて来たということは、考えただけでも、大変な労力のいることです。

●ここで、なぜ「山」なのでしょうか。そこには隠されたメッセージがあります。異邦人にとってのユダヤ人の神は、「山の神」と信じられ受けとめられていました。それだけでなく、天の御国において「山」と言えば、「エルサレム」のことを指し、そこはメシアが統治されるところです。つまり、「山」は天の御国のセンターを表す象徴なのです。イェシュアが山上の説教の中で語られた「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません」(マタイ5:14)と言われた「山」も、エルサレムのことを指しています。以下のイザヤの預言は、諸国の民が主の山であるエルサレムに集められて、主の栄光を見ることが記されています。

【新改訳2017】イザヤ書2章2~3節
2 終わりの日に、【主】の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。

●上記の預言の中にある「すべての国々」「多くの民族」とは異邦人のことです。それゆえ、マタイの福音書15章30~31節は、異邦人に対する天の御国のデモンストレーションとして記されているのです。メシアの支配・統治される御国が到来する時には、必ずこのようなことが起こるというデモンストレーションなのです。おそらく、15章30~31節はイザヤ書29章18節、および、35章1~6節の預言を引用していると考えられます。

【新改訳2017】イザヤ書29章18節
その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。

●イザヤ書で「その日」という語彙が出て来る場合、それは終末的な出来事、つまりメシア王国(千年王国)において実現するのです。また、イザヤ書35章も見てみましょう。これは本来ユダヤ人たちに与えられている約束ですが、主を信じる異邦人にも同じ祝福が与えられるのです。

(2)「そのとき」

【新改訳2017】イザヤ書35章1~7節
1 荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。
2 盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、
彼らは【主】の栄光、私たちの神の威光を見る。
3 弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。
5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
6 そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。
7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。

●5節と6節にある「そのとき」と訳された「アーズ」(אָז)は、「その日」「終わりの日」「主の日」と同様、キリスト再臨によるメシア王国の到来のときを意味します。キリストの再臨によって御国が到来するとき、どのような世界になるのかがここに預言されています。私たちのからだだけでなく、呪われた地が回復し、「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる」のです。神が本来創造されたときのように、荒地、荒廃した地、あるいは砂漠が回復されて、ありとあらゆる花が咲き乱れるようになるのです。「盛んに花を咲かせ」とは、「花が咲く」という意味の「パーラハ」(פָּרַח)という語彙が二重に重ねられて強調されています。このようなことは、「天と地を創造した」神にしかできません。偶像の神には不可能です。神によってなされる新しい創造においては実に驚くべきことがなされるのです。雑魚一匹いない死海にも多くの魚が住むようになります。人のからだも同様です。「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる」だけでなく、「足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」ようになるのです。立ち上がる程度のことではなく、なんと「鹿のように飛び跳ねる」のです。一言も話せなかった者が神を喜び賛美する「舌」を持つようになるのです。これが神がなしてくださる新しい創造です。天の御国には不具者と言われる人はだれ一人いません。「老いるショック」に愕然とすることもありません。誕生から死に向かって行くではなく、死から新しい生が生まれるのです。これこそが聖書のいう創造であり、救いの法則です。ですから、「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ」と呼びかけています。

●この呼びかけは、新約聖書のヘブル人への手紙の12章12節にも引用されています。つまり今困難や試練の中にある者に対して、やがて想像し得ないような主のわざが現われることを想起させて励ましているのです。真の希望は終末論的な視点から語られる時に力を持ちます。ですから、神のマスタープランをしっかりと学ぶ必要があるのです。たとえ、今この世で、目や足が不自由であったとしても、それで終わることなく、必ずや神のわざが現わされる時が来ることを信じなければなりません。メシア王国において神のわざが現わされるために特別に「選ばれている者」がいるとすれば、それは今この世において何らかの「障がいを抱えている人」、あるいは多くの「試練」の中に据え置かれた人ではないでしょうか。

●イザヤ書35章で預言されている内容は、メシア王国(千年王国)がいかなるものかを示す、いわば要(かなめ)の章と言えます。マタイの福音書15章の異邦人になされた癒やしは、この預言が実現することを示すデモンストレーションなのです。「天の御国は近づいた」と宣言されたイェシュアは、自分がメシアであることを公言することをせずに、メシアにしかできない奇蹟をすることによって、ご自身がメシアであることを証言されました。そのわざを見た人々の反応はどうだったでしょうか。ただただ「驚いた、驚嘆した」のです。「驚いた」と訳された「サウマゾー」(θαυμάζω)は、それまで見聞きしたことがないものを見たときの驚きを表す語彙です。そして、彼らは「」において、「イスラエルの神をあがめた」とあります。これがイェシュアがなされた預言的な出来事としてマタイは記しているのです。

2. 「四千⼈の給⾷」が⽰唆していること

●次の「主人の食卓から落ちるパン屑」である「四千人の給食」の奇蹟を見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書15章32~39節
32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」
34 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
35 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。
36 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
37 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。
38 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。
39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。

●この「四千人の給食」の奇蹟は、「七つのパンの奇蹟」とも「第二のパンの奇蹟」とも言われます。「第二のパンの奇蹟」と言うのは、「第一のパンの奇蹟」があるからです。それは「五千人の給食」(マタイ14:13~21)です。「五千人の給食」はユダヤ人に対するものであったのに対し、「四千人の給食」は異邦人に対するものです。その違いを詳しく列記することができますが、メッセージの面からすると決して有益とはなりません。例えば、「五千人の給食」の場合、残ったパン切れの余りを集めると、12のかごがいっぱいになったのに対し、「四千人の給食」の場合は、残ったパン切れの余りを集めると、7つのかごがいっぱいになったと記しています。しかし、前者の「かご」は「コフィノス」(κόφινος)と言って、一人用の弁当分が入るかごのことであり、後者の「かご」は「スプュリス」(σπυρίς)と言って、魚を捕るときに使われる網のかごです。パウロがダマスコから脱出するときに、城壁から彼を乗せてつり下ろされたかごです。同じ「かご」と訳されていても大きさがかなり異なります。ですから、残ったパン切れの量がどちらが多かったのかなどを知ったとしても、この奇蹟の意味を正しく理解できるとは限りません。重要なことは、見える部分ではなく、見えない部分なのです。使徒パウロはこう言っています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書4章18節
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです

●「五千⼈の給⾷」にも「四千人の給食」にも等しく共通することは何でしょうか。それは「人々はみな、食べて満腹した」(14:20, 15:37)ということです。イェシュアの与えたパンとは、「天からのパン」を象徴するもので、私たちが目にする物質的なパンではありません。事実、「目に見えるパン」を群衆は食べたのですが、それは目に見えないパンの陰の出来事なのです。本体は「朽ちることのない天からのパン」、すなわちイェシュア・メシアというパンを「食べる」ことなのです。「食べる」ということについても目に見える「食べる」ではありません。「食べる」という行為に隠されている真の意味は、「ひとつになる」ということなのです。つまり、イェシュアと「ひとつになる」こと、これが「給食の奇蹟」が意味することなのです。

●「五千人の給食」の奇蹟は四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)がこぞって記していることなのです。ということは、この奇蹟が持っている真意はとても重要だということになります。それはユダヤ人に対する「五千人の給食」の奇蹟の後に語られたように設定されていますが、異邦人向けの「四千人の給食」の奇蹟が意味することと本質は何も変わりません。最後の福音書と言われるヨハネの福音書は、イェシュアご自身がこの出来事の真の意味を語られたその内容を記しています。

(1) この給食の出来事の真の意味は「終わりの日によみがえった」後の話あること

【新改訳2017】ヨハネの福音書6章39~40節
39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです
40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

●これは同義的パラレリズムです。39節に書かれていることを、40節ではさらに角度を変えて説明しています。

(2) わたし(イェシュア)というパンを食べるなら、永遠に生きるということ

【新改訳2017】ヨハネの福音書6章51節、57~58節
51「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
57「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです
58 これは(=わたしは)天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

●ところが、この話を聞いた多くの人々は「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておれようか」と言ってつぶやき、多くの者たちがイェシュアのもとから離れ去りました。だとすれは、誰がイェシュアの言うことを信じるのでしょうか。イェシュアは「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」(6:44)と言っています。つまり、それは私たちには分からないということです。

(3) パンを食べるということはイェシュアと「ひとつになる」ということ

●イェシュアは十字架にかかられる前夜、残される弟子たちのために、また多くの人々のために御父に祈っています。その祈りの核心はこうです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書17章11, 21~23節
11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。
21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

●この最後の晩餐の締めくくりに祈られた祈りの中で、5回も繰り返し強調されていることは何でしょう。それは、御父と御子が「一つ」であるように、弟子たちも完全に「一つ」となることです。さらに、その彼らによって、すべての人が「一つ」とされるためです。ギリシア語なら「エイス」(εἷς)、ヘブル語でいうなら、「エハード」(אֶחָד)です。ヘブル語の「エハード」(אֶחָד)で覚えましょう。なぜなら、旧新約を通して、このことが「主の家」の本質であり、救いの究極的目的だからです。それはどのようにして成り立つのかと言えば、神のことばによってです。それはイェシュアによって祈られているように、「真理によって彼らを聖別される(神のものとなる)ため」であり、「あなたのみことばは真理」(ヨハネ17:17)だからです。神のことばは真理であり、それによってすべてのことから区別された神のものとなるのです。これが、「パンの奇蹟」が言わんとする神の本質です。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録19章6~9節
6 また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。
7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。
8 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
9 御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。

●9節にある「これらは」とは、「子羊の婚宴に招かれている者たち」のことです。つまり、主の救いに与った者たちです。そして、その主の救いに与った者たちは、「神の真実なことばである」と言っています。これが「エハード」の意味するところなのです。イェシュアも神のことばですが、私たちもイェシュアを信じて、イェシュアのパンを食べることによって、やがてはイェシュアと「ひとつ」になり、「神のことば」となるのです。

(4)「満腹した」ということ

●「満腹した」を意味するヘブル語動詞「サーヴァ」(שָׂבַע)の初出箇所は、イスラエルの民が荒野で飢え渇いて神につぶやいたときに、主が「夕方にはあなたがたに・・朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる」と語った時に使われた言葉です。何もない荒野で、神は彼らに「満ち足りるほどのパン」を与えたのです。御国はその意味で飢え渇くことのない満ち足りた世界だということです。「五千人の給食」も「四千人の給食」の奇蹟もまさにこの出来事が背景となっているのです。

●イェシュアはまさに「神の口から出る一つ一つのことばで生きた」人(=リビング・トーラー)でした。それだけでなく、人々に神の口から出た一つ一つのことばを伝えることのできた人でもあり、それを人に語って生かすことのできたお方なのです。重要なことは、人が生きるに必要なことは、神の口から出る一つ一つのことばによるのであって、神の口から出ることばを語るイェシュアと、そのイェシュアが語ることばに飢え渇くことが重要なのです。それがマタイの言う「義に飢え渇く」ことなのであり、そしてそのような者は例外なく「満ち足りる」のです(マタイ5:6)。

ベアハリート

●ユダヤ人にしても、異邦人にしても、天からのパンであるイェシュアのことばを食べなければ、永遠に生きることはできません。イェシュアが語る神のことばは御父のことばです。そのことばによって生きることが「永遠のいのちを得る」と言われるものです。この世には多くのいろいろな情報が飛び交っています。しかし、それらは、結局のところ、すべてが消え去っていくものです。しかし、神のことばは決して消え去ることがありません。イェシュアは「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです」(マタイ7:14)と述べています。今一度、「狭い門から入りなさい」との御声に、私たちは心から聞き従いたいと思います。

イスラエルの神に栄光あれ

2019.12.22


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