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異火を主の御前ににささげたナダブとアビフ

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

9. 異火を主の御前にささげたナダブとアビフ

ベレーシート

  • レビ記10章1~2節の出来事は、その前に記されている9章23~24節と対照的です。「主の御前から出て来た火」は、一方(9:23~24)では主の栄光として現わされたにもかかわらず、もう一方(10:1~2)では神のさばきとして現わされました。「栄光」と「さばき」は、「火」(「エーシュ」אֵשׁ)という象徴に表わされる神の聖の両義性です。
  • この両義性は、神によって造られた「男」(「イーシュ」אִישׁ)と「女」(「イッシャー」אִשָּׁה)のヘブル語の語彙の中にも啓示されています。神である主は「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と言って、深い眠りの中にいる人(アダム)のあばら骨を取ってひとりの女を造られ、その女を人のところに連れて来られました。それは人が「ふさわしい助け手」としての妻と一体となるためでした(創世記2:22~25)。夫と妻が一体であるとき、そこには「主」がおられます。そのことがどうして分かるかと言えば、「夫」の「イーシュ」(אִישׁ)と「妻」の「イッシャー」(אִשָּׁה)を結び合せると、そこには共通する文字「אשׁ」と共通しない(それぞれ一方にあって相手にない)文字があります。その共通しない文字を合わせると、それは「ヤー」(יָה)という語彙になります。この「ヤー」(יָה)は、神の名を表わす神聖四文字(יהוה)を省略したものです。つまり、神が結び合せた夫婦の間には、「主」が共におられ、そこには主の現われである「栄光の火」があります。しかし、本来結び合うべく造られた夫と妻のかかわりから「主」が抜け落ちると、そこに「さばきとしての火」(「エーシュ」אֵשׁ)しか残りません。そのさばきの火は、創世記3章に見るように人が神の御顔を避けるようになっただけでなく、互いに責任を転嫁し合うような関係をもたらしてしまったのです。夫婦を象徴する「火」が神に受け入れられて「栄光の火(愛の炎)」となるか、死をもたらす「さばきの火」となるか、これはまさに「主」がそこにいるかいないかの違いなのです。今回のレビ記9章23~24節と10章1~2節にもその類型を見ることができるのです。つまり、いずれも「火」が「主の御前」から出ているのですが、その結果として、一方においては「神の栄光」が、他方においては「神のさばき」が現わされているのです。

1. 「異なる火」(異火)とはいったい何か

  • 大祭司アロンの二人の息子が登場します。その二人は長男と次男です。レビ族の家系とアロンとその子孫の家系はこちら。長男「ナダブ」(原語は「ナーダーヴ」נָדָּב)、次男は「アヴィーフー」אֲבִיהוּא)。この二人が「主の前から火が出て」、「焼き尽くされた」のです。

(1) 「主の前から」とは

  • アロンの二人の息子が死んだ経緯を聖書は次のように記しています。

【新改訳改訂第3版】レビ記10章1~2節
1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を【主】の前にささげた。
2 すると、【主】の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは【主】の前で死んだ。


火皿.JPG

●「火皿」(新共同訳は「香炉」)はヘブル語で「マフター」(מַחְתָּה)で、祭壇で用いられる器具のひとつです。つまり、祭壇で燃えているたきぎの火(炭火)をその火皿に置き、さらにその上に香を盛って聖所に入り、それを香壇に供えたのだと思われます。

●そのとき、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは死んだのです。ここで「主の前から火が出て」というのは、預言者エリヤの時のような祭壇の上に天から注がれた火ではないということです。天からではなく、むしろ「会見の天幕」の中にある至聖所と聖所をさえぎっている垂れ幕付近からと考えられます。

●「主の前から火が出て」というフレーズは、聖書の中ではレビ記9章24節と10章2節の二箇所にしか使われていません。きわめて珍しいフレーズだということが分かります。しかも、10章4~5節を見るならば、その火によって「焼き尽くされた」とは言っても、二人の親類が彼らの着ていた長服をつかんで聖所から運び出すことができたのですから、何と不思議な「火」であったことでしょう。つまり、彼らの身体だけが焼き尽くされたようです。伝説によれば、火は鼻から体内に入ったとも言われています。


(2) 「異なった火」とは

  • 異なった火」(「エーシュ・ザーラー」אֵשׁ זָרָה)についてはいろいろな解釈があります。「異なる」という形容詞「ザール」(זָר)には、「異なった、他の」という意味があることから、祭壇以外のところから火種を取ったという見方があります。そもそも祭壇の火は9章24節にある「主の前から出て来た火」ですが、それ以外の火で作った炭火を火皿に入れたという一般的な解釈は妥当だと言えます。しかしここでの問題は、大祭司アロンではなく、その息子たちが「主の前に」香をたこうとしているのです。神が定められた時と場所と立場と方法を無視し、自分の判断に従って行動した結果、「異なる火」と呼ばれるようになったに違いない(鍋谷堯爾氏)という説も説得力があります。

2. 神の聖別の概念である「区別すること」

  • レビ記10章1~2節に見るアロンの息子の死の出来事について、納得できずにつまずく人もいるかもしれません。しかし、神の聖別の意図は天地創造の時から明確に啓示されていることなのです。

【新改訳改訂第3版】レビ記10章3節
それで、モーセはアロンに言った。「【主】が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。』」それゆえ、アロンは黙っていた。

  • 人が神に近づくことによって神ご自身の聖を現し、栄光を現すということは、それは人にとって祝福ともなれば、わざわいともなるということです。事実、アロンの二人の息子は「異なった火」と表現されているように、神が定められた時と場所と立場と方法を無視したことによって神のさばきとしての死がもたらされました。神の定めに従って明確に区別すること、選り分けることが神のみこころであり、それを良しとされていることを知ることが重要なのです。アロンの二人の息子の死は、祭司たちとイスラエルの民に神の聖別の概念を正しく教えるための厳しい取り扱いだったのです。
  • 「聖別する」という概念は、ヘブル語の「区別する」(「バーダル」בָּדַל)という動詞がどのように使われているかを見ることで理解することができます。この「バーダル」は旧約では42回使われていますが、モーセ五書の中でもレビ記は最も多く8回使われています。

(1) 創世記1章4, 6, 7, 14, 18節では、神が
①「光とやみとを区別する」
②「昼と夜とを区別する」
③「天の下の水と上の水とを区別する」
そして、そのことを良しとされたことが記されています。

(2) 出エジプト記26章33節では、「聖所と至聖所とを仕切る」ことで区別しています。

(3) レビ記では、
①「聖なるものと俗なるものとを区別すること」(10:10)
②「汚れたものときよいものとを区別すること」(10:10/11:47)
③「食べてよい生き物と食べてはならない生き物とを区別すること」(11:47)
④「国々の民の中からイスラエルの民を選り分けたこと」で区別しています(20:24, 25, 26)

(4) 民数記では、

  • 「レビ人をイスラエルの民から分けることで聖別すること」(8:14/16:9)

(5) 申命記では、
①「約束の地で三つの町を取り分けること」(4:41/19:2, 7)
②「レビ部族を選り分けて主の奉仕をさせること」(10:8)
③「主のみおしえに従わない者は、イスラエルの全部族からより分けて、主がわざわいをもたらすこと」(29:21)

  • 聖別の概念は、神が良しとする聖書の重要なテーマです。それを曖昧にすることがサタンのわざ(企み)です。アダムがエデンの園においてサタンにだまされました。それは、「いのちの木」と「善悪の知識の木」を区別することの神の本意を充分に知らされていなかったことが死をもたらしたとも言えます。充分に知らされていなかったところに神の隠された秘密があるように思います。キリストによって天と地が一つとされ、光と闇との区別がなくなり、すべてが光の世界となるという神のご計画について知らされていなかったという弱さのゆえです(詩篇8篇5節)。それは逆に言うならば、神の永遠のご計画を知ることができるならば、神が「区別された」その真意が分かるという事でもあります。「聖別の概念」は神の永遠のご計画において実に重要な概念であり、聖書全体に貫かれています。最後に、使徒パウロが次のように言っていることを心に留めたいと思います。

【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント書6章14~18節
14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」


2016.5.20


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