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王たちの中で唯一人々から惜しまれたヨシヤ王

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59. 王たちの中で唯一人々から惜しまれたヨシヤ王

【聖書箇所】Ⅱ歴代誌 35章1節~27節

ベレーシート

  • 「主はあきらめた、主は失望した」という意味をもつ「ヨシヤ」王は、イスラエルの王の歴史において、唯一、人々から惜しまれて死んだ王でした。その証拠に、「・・彼は死んだ。・・全ユダとエルサレムはヨシヤのために喪に服した」とあります(35:24)。「喪に服す「と訳されたヘブル語は「嘆く」「悲しむ」を意味する動詞「アーヴァル」(אָבַל)の強意形(ヒットパエル態)の分詞形です。「全ユダとエルサレム」の人々が「嘆き、悲しむ」ほどの王を主はなぜ死なせたのでしょうか。しかもヨシヤ王は「主の律法にしるされているところに従った忠実な王だった」のです(35:26)。エレミヤはヨシヤのために「哀歌」を作り(聖書にある「哀歌」とは異なります)、歌うたいはみなその哀歌の中でヨシヤの忠実なことを語ることを慣例としていたのです。ヨシヤはまさに善王の中の善王というべき王だったのです。そんなヨシヤのしたことを、35章から見て見たいと思います。
  • ヨシヤの名前に預言されているように、どんなすばらしいヨシヤであったとしても、すでに主はご自身の民に失望しておられたということです。それは、エレミヤが預言したように、バビロンという捕囚の地において彼らを七十年間にわたって取扱い、彼らに将来と希望を与えるというご計画をすでに持っておられたからです。

1. ヨシヤ王は盛大な「過越のいけにえ」をささげた

  • イスラエルの歴史において「過越」の祭りを行なった王は、ソロモン、ヒゼキヤ、そしてヨシヤの三人の王だけです。「過越」の祭は、イスラエルの建国記念日のようなものです。ですから、本来、ユダ部族だけで行ったとしても意味がありません。過去において、エジプトから救い出されたイスラエルの民がいかにして奴隷から解放されたかを思い起こす記念日だったからです。
  • 以下は、「過越の祭の歴史的鳥瞰」です。

    (1) 民数記9章2~5節
    エジプトを出た民たちは、モーセに率いられ、一年後にシナイの荒野で過越のいけにえをささげました。

    (2) ヨシュア記5章10節 
    40年後にイスラエルの民はヨシュアを指導者としてカナンの地へ入国したあと、ギルガルに宿営しているとき、(割礼を施した後)、民たちは過越のいけにえをささげました。

    (3) Ⅱ歴代誌8章12~13節
    ソロモン王の治世の後半(神殿が建設されたあとの20年間)、過越の祭りがなされました。

    (4) Ⅱ歴代誌29章1~36節
    ヒゼキヤ王の宗教改革の時(B.C.720)。ヒゼキヤがまず取り組んだのは宗教改革の幕開きは宮きよめでしたが、はからずも、その月は第1の月、つまり「ニサンの月」であり,過越の祭を行うべき月(出エジプト12章)でした。しかし、宮きよめが終っていなかったために実施出来ず、ヒゼキヤは人々に計って翌月の第2の月にずらして行うことを決めました。ヒゼキヤの呼びかけによって、おびただしい大集団がエルサレムに集い、過越と種を入れないパンの祭が挙行されました。

    (5) Ⅱ歴代誌35章
    ヨシヤ王の改革の時(B.C.637)。ヨシヤの治世での過越の祭の規模はヒゼキヤの規模を超えるものでしたが、その内面には脆弱性がありました。

    (6) エズラ記6章19~22節
    バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民たちは、イスラエルに戻り、神殿を完成したあと、再び、エズラの指導の下で過越の祭が守られるようになりました。 


2. 「主の臨在」を重んじたヨシヤ王

  • ヨシヤ王は「聖なる箱」をイスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた宮に据えるよう命じました(35:3)。「聖なる箱」とは「契約の箱」のことであり、「主の臨在」を意味する象徴です。たとえどんなに周辺的なものをきよめ、整え、主がお定めになった規定に従って行ったとしても、重要なのは「主の臨在」です。これがなければ、すべてが何の意味もありません。空しいのです。これはダビデの霊性ともいうべきものです。しかし、歴史の中ではその重要なものが喪失していても制度的な宗教は成り立つのです。主の臨在を重要視した改革はだれでもができることではありません。
  • 素晴らしい教会堂、そしてそこにある高価な設備、また制度や行政的な組織が整っていたとしても、主の臨在がなければそれは全くむなしいのです。逆に、主の臨在があるならば、他のものはそれほど重要なことではないとも言えます。ヨシヤ王はそのことに気づいていた王かもしれません。

3. 自ら率先して模範を示したヨシヤ王

  • ヨシヤの「過越の祭」がヒゼキヤの時よりも優れていた点は、民たちが神にささげるべきいけにえを、王自らがプレゼントしたという点です。すべての費用は王の財産から支出されました(7節)。このような王はイスラエルの歴史においてだれ一人おりませんでした。そのような王に倣って、「進んでささげる」つかさたちがいたようです。こうした王の民たちに対する配慮も、彼の死が惜しまれる一因となったのかもしれません。
  • 20節の冒頭に「すべてこのように、ヨシヤが宮を整えて」とあります。これはヨシヤの治世の特徴を良く言い表わしています。「整え」と訳された原語は「確立する」ことを意味する「クーン」(כּוּן)です。つまり、冠詞付の「バイト」(בַּיִת)である主の神殿(主の宮、主の家)を確立したのです。これは神の永遠のご計画の目的そのものです。神と人とがともに住む家を回復して確立しようとしています。やがてこの地に来られるメシア・イェシュアがそのことを完全になし遂げますが、ヨシヤの治世はこの型となっています。

4. ヨシヤの不慮の死の背景

  • ヨシヤはエジプトの王ネコとの戦いにおいて、不慮の死を遂げました。「不慮」とはあくまでも人間的な視点における表現です。しかし、神の歴史支配においては、まさにそれも意味あることだったのです。悲しみの渦中にいる者にとってはそのことを知ることは難しいのですが、歴史を客観的に視るならば、ヨシヤ王の死によってユダの民が神のご計画の中で再生される時が早まったといえます。アッシリヤという国に代わって、バビロンという新しい勢力によって神はそのことをなそうとしておられたのです。案の定、ヨシヤの死からユダの歴史は坂道を転げ落ちるように転落していき、バビロン捕囚へと追いやられるのです。


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2014.4.25


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