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牛とろばとを組にして耕してはならない

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66. 牛とろばとを組にして耕してはならない

【聖書箇所】 申命記 22章10節

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【読み】
ロー タハローシュ ベショール ウーヴァハモール ヤフダーウ

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
牛とろばとを組にして耕してはならない。
【口語訳】
牛と、ろばとを組み合わせて耕してはならない。
【新共同訳】
牛とろばとを組にして耕してはならない。
【岩波訳】
あなたは、雄牛とろばを一緒にして耕してはならない。
【NKJV】
You shall not plow with an ox and a donkey together.

【瞑想】

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申命記22:10に「牛とろばを組にして耕してはならない」という法があります。牛とろばとでは、歩く歩幅もテンポも違います。呼吸の幅も異なります。呼吸がそろわなければどうなるか。負担が、体力的に弱い方にだけでなく強い方にもかかってきます。私たちがよく使う言葉に、「気が合わない」とか「ウマが合わない」という言葉がありますが、異なる呼吸、異なる気の者同士が歩むということは、互いが生かされなくなっしまいます。これは人間同士や部族間、あるいは部族内の人間関係、あるいは周囲の民族との関係についてもいえることです。

イスラエルの民はヤコブの子孫です。ヤコブといえば、御使いとすもうを取り、自分が納得いくまで執拗に神に迫っていった人物です。このヤコブには12人の息子たちがいました。彼らは生きて行く上でのしぶとさ、たくましさという点ではヤコブの血を受け継いでいましたが、その長所が短所に変わるとき、つまり、それぞれの部族の利害関係や損得感情に結びついたとき、呼吸は乱れ、争いが起こりました。

旧約聖書では「強情」を表現するのに、「首が固くなる」としました。ヤコブの子らが自分の力を誇り、首を固くして意地を張ると、お互いの歩調が合わず、呼吸が乱れます。事実、ダビデ、ソロモン時代には呼吸を一つにして国を作ったことがありましたが、その後は、ユダ族を中心とする南王国とヨセフ族を中心とする北王国に分裂します。仲直りする機会は最後まで来ませんでした。それほどにヤコブの子らは頑固で、うなじのこわい者たちだったのです。そして、その呼吸の乱れは神との関係においても同様でした。ヤコブの子らの固い首筋を柔らかくすることは容易ではなかったのです。

こうした背景から、イエスの語った不思議なことばに耳を傾けるなら、新たな気づきが与えられるかもしれません。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)

主イエスのここでの招きは、「あなたがもわたしのくびきを負いなさい」ということです。そうすれば、たましいに安らぎが来ること、しかも主のくびは負いやすく軽いからだと言います。なぜ負いやすいのか。なぜ軽いのか。それは主イエスが私たちの歩みに合わせてくださるからではありません。その反対です。それは「わたしから学ぶ」ことによってはじめて可能なのです。

主イエスの地上での歩みはいつも御父とくびきを負っていました。御子イエスは常に自己主張を捨てて、御父の心を自分の心として、御父を信頼し、息を合わせて歩んだのです。子イサクが父アブラハムといっしょにモリヤの山に行ったように歩まれました。子が父の呼吸に合わせていたのです。このことを私たちは学ばなければなりません。

人間は、本来、神である主から、その鼻にいのちの息を吹き込まれて生きる者とされました。それは神と共に歩むためです。神を信頼し、呼吸を合わせて生きるように造られたのです。ところが、人間は「うなじを固くし」、神とくびきを共にすることを拒絶したのです。

「くびきを負う(くびきを共にする)」ことをヘブル語で「ツァーマド」צָמַדと言います。ただしこの動詞は良い意味では用いられません。民数記25章でイスラエルの民がバアル・ぺオルを慕うようになって、神罰を受けて多くのイスラエルの民が死にました。その「慕う、つき従う」という言葉が「ツァーマド」です。それは偶像とくびきを共にしたことを意味します。それゆえ神に選ばれたイスラエルは神の怒りを引き起こしたのです。

使徒パウロはⅡコリント6章14節で「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」と語っています。たとえどんなに恋い慕ったとしても神の祝福は得られないからです。呼吸が合わず、やがては互いに疲れ果ててしまい、そこには神のいのちを共有するいのちの交わりはなく、それゆえ、たましいの安らぎは保障されません。

もう一度、主イエスの語られた招きのことばに耳を傾け、よく注意してその意味を悟る必要があります。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」というフレーズの特に後半の部分が重要です。「わたしから学びなさい」とはどういうことか、私たちはそのことの重要性に意外と気づいていないことが多いのです。主イエスが御父とどのように呼吸を合わせて歩まれたのかを、私たちは時間をかけてじっくりと学ぶ(知る)必要があるのです。そうすれば「たましいにやすらぎが来る」こと、また「わたしのくびきも、わたしの荷も軽い」ということが分かるようになることを、主は約束しておられるのです。

わたしから学びなさい!!


2013.4.21


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