****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

父のみこころを知る幼子たちへの二つの招き

文字サイズ:

46. 父のみこころを知る幼子たちへの二つの招き

【聖書箇所】マタイの福音書11章25~30節

ベレーシート 

  • マタイの福音書11章16節~30節までが一括りになっていることを前回の説教で述べました。そしてそこを二つの部分に分け、前回はその前半である11章16~24節からについてお話しました。そこでは、イェシュアの時代の人々(16~20節)、および町々(21~24節)が、イェシュアが伝えようとした「天の御国が近づいた」というメッセージに対してどのような反応を示したかといえば、無関心であったということでした。メッセージを伝えた当事者としてのイェシュアにとっては、この状況は私たちが知り得ぬほどのショックだったと推察します。
  • 昔イスラエルにエリヤという預言者がいました。彼は、主が神であるのか、それともバアルが神であるのか、真の神はどちらかという戦いに挑んだのです。その戦いは、預言者エリヤ1人に対して北イスラエル王国の王アハブの妻イゼベルにつく450人のバアルの預言者との戦いが、カルメル山を舞台になされました。軍配はエリヤの神が勝利し、その結果、イスラエルの民たちはこぞって「主こそ神です」と言わざるを得ませんでした。ところが、イゼベルのなんらひるむことのない毅然とした態度にエリヤは圧倒されてしまいました。あれほどの戦いによってもなんらびくともせず、何も状況が変わっていないことを知ったエリヤは、愕然とし、ある意味で燃え尽き症候群的に陥り、生きる意欲を失しなったかに見えました。これは、神のために真面目に、そして心を尽くして仕えてきた者だけが陥る罠と言えます。自分の働きはいったいなんだったのかという虚無感に襲われるのです。エリヤもその一人だったのです。それゆえエリヤは自分のすべての源泉である神を求めて、ホレブの地に向かって巡礼の旅に出掛けました。そしてホレブに着きたエリヤは主の顕現に触れて、神の「かすかな細い声」を聞きました。その声は、まだエリヤがしなければならない働きがあることを示す声でした。神の働き(使命)はエリヤだけで実現できるものではなく、次の時代を担う者に引き継がれるべきことを神は指示されたのです。具体的には、エリシャという人に油を注いで弟子とし、次の時代の預言者として育成することでした。そして主はこうも言われたのです。「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である」。エリヤはただ自分一人だけだと思っていた主につく者を、神である主はイスラエルの中に何と七千人も残しておかれたのです。これは「残りの者」(レムナント)という思想につながっていくのです。この「残りの者」こそ「天の御国」(メシア王国)のメンバーであり、イェシュアの言う「幼子たち」なのです。
  • なぜこんな話をするのかといえば、これからお話しするマタイの11章25~30節と深く関係している話だからです。伏線として心に留めておいてください。マタイの福音書11章25~30節も実は二つの部分に分かれており、前半は25~27節の「イェシュアの御父に対する祈り」が記され、後半の28~30節は「イェシュアの弟子たちに対する招きのことば」が語られているのです。ここはマタイの福音書で「最も高価な真珠」と言われている箇所です。私も20歳の時、11章28節の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」というイェシュアのことばが書かれてあったチラシによってはじめて教会へ導かれ、クリスチャンとなって今に至っています。その時はこの箇所に込められた真の意味を理解していたわけではありませんが、「わたしのところに来なさい」と言われるイェシュアの招きに応じたことが、私の人生を大きく変えてしまったことは事実なのです。このイェシュアの招きのことばを聞いて従うということが、実は、誰にでもできないことなのだということが次第にわかってきました。神の選びがなければ決して起こらないのです。このことは後程述べることにして、まずはテキストを読んでみたいと思います。前半の部分である25~27節の「イェシュアの御父に対する祈り」のことばに目を留めたいと思います。

1. イェシュアの御父に対する祈りのことば

【新改訳2017】マタイの福音書11章25~27節
25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。

(1) 「ほめたたえる」ということば

  • イェシュアは「父よ、天地の主よ、(わたしは)あなたをほめたたえます」と御父に語っています。「ほめたたえます」と訳されたギリシア語は「エクソモロゲオー」(ἐξομολογέω)といういわば珍しい語が使われています。本来は「心から、完全に同意する」「全面的に賛同する、承諾する」という意味です。これが中態で用いられる場合には、御父のご計画とみわざに完全に同意しながら、御父を「賛美する、感謝をささげる」という意味になります。何に感謝をささげるかと言えば、「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださった」ことについてです。「これらのこと」とは、イェシュアが教え示そうとしている「天の御国の奥義」のことです。「幼子たち」とは「イェシュアの弟子たち」のことです。
  • イェシュアの時代の人々はこのことに無関心でした。マタイ11章、12章のテーマは「イェシュアに対するつまずき」が扱われています。11章ではバプテスマのヨハネのつまずき、そしてイェシュアの時代の人々、および町々のつまずきが記され、12章ではパリサイ人たちが安息日問題や癒しの奇蹟の力の由来についてイェシュアと対立し、そのつまずきはクライマックスに達します。そうした文脈の中で、「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して」、神によって選ばれた「天の御国の奥義」を悟る幼子たちがいる、与えられているという事実にイェシュアは感謝をささげているのです。
  • なぜ、神は「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠し」たのでしょうか。「隠す」ということは「知らせない」「現わさない」「啓示しない」ということです。イェシュアのことばを解釈した使徒パウロはこの問いに対して次のように言っています。

【新改訳2017】Ⅰコリント書1章26~29節
26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました
28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。

  • イェシュアの「御国の奥義」の教えは、やがてこの「幼子たち」、すなわち「イェシュアの弟子たち」に絞られていきます。マタイ11章26節ではたたみかけるように、「そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした」とあります。「これ」とは「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださった」ことであり、「みこころにかなったことでした」と言っています。「みこころにかなった」とはどういうことでしょうか。ヘブル語でこの箇所を見てみると 「ハーヤー・ラ―ツォーン・レファーネーハー」(הָיָה רָצוֹן לְפָנֶיךָ)と訳されていて、直訳は「あなたの御顔には喜びがある」という意味です。つまり、御国の奥義を「幼子たちに現してくださった」ことが、御父の目には喜ばしいことなのだという意味です。その御父の喜びのゆえに、イェシュアは感謝しているのです。「みこころ」の語源が「喜びが伴っている」ことなのです。ここに御父の喜びに共鳴する御子の姿があります。御父の喜びを自分の喜びとする御子、喜びを完全に共有している父と子の親密な関係がこの言葉の中に現わされています。まるでヨハネの福音書が大切にしているメッセージがここに表されているかのようです。この関係性こそが、後で触れる「くびきを負う」「くびきをともにする」源泉なのです。

(2 ) 天の御国の奥義と御父と御子の親密な関係は、選ばれた幼子たちにしか知り得ない

  • 27節には「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています」とあります。「渡されている」と訳された「パラディドーミ」(παραδίδωμι)のアオリスト受動態は、「ディドーミ」(δίδωμι)が「与える、授ける,供給する」という意味なのに対して、「パラディドーミ」(παραδίδωμι)は「託する、任せる、委ねる」といった意味合いの語彙です。御子は御父からすべてのことをー思いも権威も―委ねられている存在です。すなわち、互いに完全に知り合っている関係なのです。そこに秘密はありません。「父のほかに子を知っている者はなく、子・・のほかに、父を知っている者はだれもいません」がそのことを表わしています。ここでの「知っている」と訳された動詞は「真に知る」「知り尽くす」という意味の「エピギノースコー」(ἐπιγινώσκω)というギリシア語が使われていますが、そのヘブル語訳は普通の「知る」という意味の「ヤーダ」(יָדַע)ではなく、「マッキール」(מַכִּיר)と訳しています。これは「ナーハル」(נָכַר)の使役形の分詞ですが、これによって普通に「知る」を超えた意味を表わそうとしています。
  • ところが、上記の「・・」の部分に驚くべき言葉が入っています。それは「父を知っている(知り尽くしている)者」とは、「子」だけではなく、「子が父を現そうと心に定めた者」、つまり「子が父を現そうと心に定めた幼子たち」だけが父を真に知ることができるということです。「心に定めた」というヘブル語は「喜んでそうすることを望む」ことを意味する「ハーフェーツ」(חָפֵץ)の未完了3人称単数形です。子であるイェシュアが、覆いを取り除いて御父を現わす(啓示する)ことを喜んでそうしようと望まなければ、だれひとりとして御父を真に知ることは不可能だということです。このことは、神の主権的な選びがなければ、人間が自ら神を知ることはできないことを意味しています。ところが、その選ばれた幼子たちが自らの自由意思でイェシュアの招きに従うことがなければ、天の御国の奥義は彼らの上に実現しないことを教えようとしているのが、28~30節にあるイェシュアの招きのことばなのです。

2. イェシュアの幼子たちへの二つの招き

  • マタイの福音書11章25~30節はベレーシートで述べたように、二つの部分からなっています。ひとつは25~27節、もうひとつは28~30節です。前者は徹底的に神の選びという恩寵が強調され、後者はイェシュアのことばを聞いてそれを信じて従うことが強調されています。神学的な用語を使うならば、神の主権的な選びと人間の自由意思という昔からの難題―カルヴィニズムとウェスレアン=アルミニアニズムの神学的対立―、つまり、「救いは神の選びによる」ものか、それとも「救いは人の神に対する信仰による」ものかという対立です。しかしマタイ11章25~30節には、その問題がイェシュアのことばの中に見事に調和しているのを見ることができるのです。
  • そこで、28~30節のイェシュアの招きのことばを見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書11章28~30節
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて(「メヌーハ―」מְנוּחָה)あげます。
29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎ(「マルゴーア」מַרְגּוֹעַ)を得ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

  • ここには二つの招きがあります。その一つは「わたしのもとに来なさい」という招きであり、もう一つは「わたしから学びなさい」という招きです。それぞれの招きに対して神の安息が約束されています。

(1) 「すべて疲れた人、重荷を負っている人」とはどういう人か

  • その前に28節の「すべて疲れた人、重荷を負っている人」とはどういう人のことを言っているのか、正しく理解することが必要です。文脈で考えるならば、「すべて疲れた人、重荷を負っている人」(いずれも原文は複数)とは、「イェシュアの弟子たち」のことです。なぜ彼らが「疲れた人、重荷を負っている人」なのかといえば、当時の社会を知る必要があります。すべて疲れた人、重荷を負っている人のことを、一般的な意味で、すべて(例外なく)、生きることに疲れた人、病気に苦しむ人、人から傷つけられた人、仕事や受験に失敗した人、失恋した人のこと、自分に自信を無くした人のこと、何かの重圧で苦しんでいる人として考えることができますが、ここではむしろ当時「重荷を負わせ」て「疲れ果てる」まで押しつぶす人たち、特にパリサイ派の人たち(律法純粋主義者)がいたことです。彼らはモーセの掟を守らないと救われないと考え、人にもそのように教える宗教家たちが、当時の人々に「重荷を負わせ、圧し潰そう」としたのです。それだけでなく、律法を守れない人々を「アム・ハーアーレツ」(עַם הָאָרֶץ)、すなわち「地の民」と呼んで軽蔑したのです。そのような人は「自分は到底救われない」「神は私を見放した」と絶望するように彼らによって思わされていたのです。それでパリサイ人や律法学者たちにだまされている人に向かって、イェシュアは招きのことばをかけられたのです。

(2) イェシュアの第一の招きのことばと約束

  • 28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」。これがイェシュアの第一の招きの言葉でした。「わたしのもとに来なさい」(「デューテ・プロス・メ」Δεῦτε πρός με)。これをヘブル語にすると「ペヌー・エーライ」(פְּנוּ אֵלַי)となります。直訳は「あなたがたは私のほうに振り返りなさい」となります。ヘブル語の「パーナー」(פָּנָה)は「向き直る、向きを変える、顔を向ける、振り向く」という意味で、「悔い改める」の「シューヴ」 (שׁוּב)と同義です。イェシュアに向き直ることで、「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と約束されています。

(3) イェシュアの第二の招きのことばと約束

  • 第二のイェシュアの招きのことばは「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」というものです。まず「あなたがたも」というところが重要なところです。「あなたがたは」ではなく、「あなたがたも」なのです。それはイェシュアの「わたしも」が含まれているからです。つまり、御子イェシュアも御父のくびきを負って歩んでいるという前提があるのです。イェシュアと御父が「くびきを負って」いる姿があって、「わたしから学びなさい」と招きのことばがなされています。「学びなさい」はギリシア語「マンサノー」(μανθάνω)のアオリスト命令形で、主体的、自発的行為を意味します。ヘブル語は「ラーマド」(לָמַד)の命令形(男複)「ラムドゥー」(לִמְדוּ)です。
  • 学ぶ」とは単に頭で知識的に学ぶという意味だけではなく、からだで学ぶという意味合いが強いように思います。あるいは弟子が師匠のすることを見て倣う、盗むことを通して身に着けることでもあります。それはハングリー精神と忍耐が求められる修業でもあります。師匠から学んだ者だけが、はじめて一人前になり得る世界です。「わたしから学びなさい」とあるように、私たちの師匠はイェシュアでなければなりません。そのようにして、神とのかかわりにおいて新しい意味を見出すのです。新しい意味を見出す瞬間には喜びが必ず伴います。そしてこの喜びは人間にとってとても根源的なものなのです。それゆえ、「学ぶ」ことは生きる喜びにつながります。この生きる喜びを感じ取っているキリスト者は幸いです。「学び」は暗やみを突き破り、未来を照らす力をもたらすのです。
  • 「学び」の内容は、「くびきを負う」ということに尽きます。ギリシア語では「あなたがたの上にわたしのくびきを負いなさい(担ぎなさい/αἴρω)」となっていますが、ヘブル語では「わたしのくびきをあなたがたの上に受け取りなさい(קָבַלのピエル態)」となっており、ニュアンスが微妙に異なっています。
くびき(2).PNG
  • くびき」(「オール」עֹל)とは右図にあるように、二頭の牛の首に負わせて進むべき方向へ導くための棒状の横木のことですが、くびきを負うというのは比喩的です。というのは、だれでもへりくだって頭を垂れなければ、くびきを首に乗せることはできません。聖書に「うなじを固くする」(新改訳2017、新共同訳)という表現があります。以前の新改訳では「うなじのこわい民」という表現でした。もっぱら聖書ではイスラエルの民をそのように言っているのです。「うなじを固くする民」とは、神に従順ではない民、神に反逆して従わない民のことを言っているのです。うなじが固いということは、神と民がともにくびきを負えないということになります。くびきを負う例は、神が結び合わせた結婚がその例です。だとすれば、くびきを負うことは心地よいものとならないでしょうか。結婚した夫婦がそれぞれ自分を主張して、互いに「うなじを固くする」ならば、「くびきを負うこと」は苦痛となり、別れるしか道がなくなります。
  • マタイ11章29節の「わたしのくびきを負う」ということばをヨハネのことばで表現するなら、「キリストのうちにとどまる」(ヨハネ15:4)となると思います。ですから、イェシュアは「わたしのもとに来なさい」。そして「わたしのうちにとどまりなさい」と言っているのです。後者のことばは実はとても重要で、ここが欠落しているクリスチャンが多いのではないかと思います。

【新改訳2017】ヨハネの福音書15章4~5節
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

  • さて、主の幼子たちがイェシュアと「くびきを負う」ことによって、あるいは「イェシュアにとどまる」ことによって約束されているのは、「安息」です。この「安らぎ」は名詞の「アナパウシス」(άναπαυσις)で、ヘブル語は「マルゴーア」(מַרְגּוֹעַ)が使われています。おそらくイェシュアのこの招きの背景にはエレミヤ書6章16節があります。なぜなら、この「マルゴーア」(מַרְגּוֹעַ)はその箇所にしか使われていない語彙だからです。

【新改訳2017】エレミヤ書 6章16節
【主】はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね(שָׁאַל)、
それに歩んで、たましいに安らぎ(מַרְגּוֹעַ)を見出せ(מִצְאוּ)。
彼らは『私たちは歩まない』と言った。

  • 預言者エレミヤはユダの人々に「いにしえからの通り道」、これはモーセを通して神から示された道で、「永遠(「オーラーム」עוֹלָםの道」とも訳せます。つまり、昔も今も、将来も、永遠に代わることのない道、それは「幸いな道」と同義です。「その道を尋ねて、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ」とエレミヤは言いましたが、彼らは『私たちは歩まない』と言ったとあります。その結果、ユダの人々はバビロンの捕囚の身となってしまったという経緯があります。そうした背景をもって、リビング・トーラーであるイェシュアは「幼子たち」に対して「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そのようにして、たましいに安らぎを見出せ(מַרְגּוֹעַ מִצְאוּ)。」と言ったと思われます。この安息は神による主権的な選びを通して、また、イェシュアのことばに主体的に、自発的に従うことを通して得られるのです。
  • 第一の招きによる約束の「安息」と第二の約束の「安息」とはどのように違うのでしょうか。第一の「安息」(「ヌーアッハ」נוּחַ)はイェシュアに立ち返ることによって、やがて回復されるエデンの園にある安息で、回復された永遠の安息です。しかし第二の「安息」(「マルゴーア」מַרְגּוֹעַ)は、自らイェシュアのくびきを負って学び、あるいはイェシュアのうちにとどまることによって自ら見出そうとしなければ、得られない「安息」なのだということです。
  • 30節にある「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」にある「負いやすく」ということばと「荷は軽い」について心に留めたいと思います。まず、「負いやすく」と訳されたギリシア語の「クレーストス」(χρηστoς)という形容詞は「心地良い」という意味もあります。ヘブル語訳「ナーイーム」(נָעִים)は「楽しい、好ましい、麗しい」という意味であり、「軽い」と訳されたギリシア語の「エラフラス」(ἐλαφρός)もヘブル語の「カル」(קַל)も、決して疲れや重荷とはならないことを表わしています。
  • 最後に、私たちを主の幼子として選び出してくださった御父に感謝しながら、11章28節~30節のイェシュアの招きのことばと約束のことばを心に留めたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書11章28~30節
28 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29  わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
30  わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

信仰の創始者であり、完成者であるイェシュアにいつも目を注いで、イェシュアの「くびきを負うことの心地よさを、楽しさを、麗しさを」日々経験していきたいと思います。

2019.1.6


a:5635 t:3 y:7

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional