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永遠のいのちを得るためには (2)

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86. 永遠のいのちを得るためには (2)

【聖書箇所】マタイの福音書19章16節~20章16節

ベレーシート

●前回のテキスト(19:16~26)に引き続いて、「永遠のいのちを得るために」の第二弾として、今回のテキスト(19:27~20:16)を学びたいと思います。前回は「永遠のいのちを得るために何をしたらよいか」と質問してきた一人の青年のことを扱いました。その青年に対するイェシュアの答えは神の戒めを守りなさいということでした。それは律法の行いによっては永遠のいのちを得ることができないことを彼に気づかせ、良い方である神、それは同時にイェシュアを信じることによって得られるという真理に導こうとされたのですが、彼はそのことを悟ることができずにイェシュアのもとを悲しみながら去ってしまったのでした。そのことから、この世における財産や資産を多く持つ者が天の御国に入るのは難しいということ、しかも人の救いは神にしかできないことを、イェシュアは弟子たちに語ったのでした。今回は、それに引き続いての話です。

【新改訳2017】マタイの福音書19章27~29節
27 そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」
28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。
29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

●「永遠のいのちを得る」という祝福について、マタイは19章でいろいろな言葉で言い直しています。そのことにまず注目してみたいと思います。

①21節の「天に宝を持つ」-「持つ」(「エコー」ἔχω)の未来形。
②23, 24節の「天の御国に入る」―「入って行く」(「エイスエルコマイ」εἰσέρχομαι) の未来形。
③28節の「座に着く(座る)」―「座る」(「カスィゾー」καθίζω) の未来形。
④29節の「百倍のものを受け取る」―「受け取る」(「ランバノー」λαμβάνω) の未来形。
⑤29節の「永遠のいのちを受け継ぐ」-「受け継ぐ」(「クレーノメオー」κληρονομέω) の未来形。

画像の説明

●これらは、上図にあるように、「永遠のいのちを得る」ということがどのような祝福なのかを言い換えたものです。いずれも、「人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で」とは、メシア王国(千年王国)でという意味だと考えられます。というのは、「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます」(マタ 25:31)とあるからです。むしろ問題となるのは、③の「十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治める」ということが何を意味するのかという点です。注解者によって意見が分かれる所ですが、ルカの福音書22章にも「29 わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。30 そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。」とイェシュアが弟子たちに語っていることから、ここでの「イスラエルの十二の部族を治める」とは、イスラエルと教会を含めた御国の民を治める権威が与えられることだと私は理解します。その具体的な統治については分かりません。王座は御国の概念であり、新天新地の「新しいエルサレム」での統治の中心は王座ではなく、御座です(Ⅰコリント15:24~25)。

●また、④の「百倍のものを受け取る」ということについて、これは神の子となった者に与えられる祝福です。アブラハムの子であるイサクにその型があります。周囲が飢饉であったとしても、また周囲の者たちからどんなにいじわるをされても、イサクが種を蒔くと「百倍の祝福」に与ったという話が創世記26章にあります。異邦の王アビメレクはそんなイサクに恐れを感じ、彼との平和条約を結ぶようになるのです。「子は百倍の祝福を受け取る者」なのです。イェシュアを信じて彼に従う者たちもすべて神の子です。ですから、神の子とされた者たちは、天の御国において「百倍の祝福」を受け取ることになるのです。マタイ19章29節の「受け取る」の原語は「ランバノー」(λαμβάνω)ですが、その語彙が20章1~15節のたとえ話の中で「もらった、受け取った」という訳で四回使われています(9,10,10,11)。たとえ話で受け取った賃金はそれぞれ「1デナリ」ですが、御国においては「百倍の祝福」に相当すると言えるのです。これが、イェシュアのために、自分のものを捨てた弟子たちに対する神の報いなのです。

●ペテロの「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」という問いに答えて、イェシュアは二つのことを取り扱っています。
第一は、主のためにすべてを捨てた者は、御国において何らかの報奨(報い)を受けることができるということ。
第二は、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」ということです。

1. イェシュアに従う者には報いがある(19:27~30)

●ペテロを代表とする弟子たちはみな、イェシュアの名のために、自分たちのすべてを捨てて、従ってきました。すなわち、「家々、兄弟たち、姉妹たち、父、母、子どもたち、畑」をイェシュアのために捨てたのです。イェシュアはこれまでも繰り返し「自分のいのち」について語られています。

①【新改訳2017】マタイの福音書10章37~39節
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

②【新改訳2017】マタイの福音書16章24~27節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

●これらのみことばには、イェシュアのために自分のいのちを捨てた(失う)者は、それぞれの行いに応じて報いられることが約束されています。ここにある「自分のいのち」の「いのち」は「プシュケー」(ψυχή)で、「魂、地上のいのち」を意味します。それは具体的に自分の「家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑」を意味するのです。それに固執すれば、神が与えてくださろうとする「永遠のいのち」(「ゾーエー」ζωὴ)を失うことになるのです。この世のいのちを「捨てる」とは、神を第一として優先するために、この世のものを優先させない決意を意味します。イェシュアのもとを訪れた青年はそれができなかったのです。神と神の約束を何よりも優先させるということは、信仰によるものです。「地上のいのち」か「永遠のいのち」か。「永遠のいのち」を選ぶためには、信仰がなくてはなりません。「天に宝を持ち、御国に入り、座に着き、百倍のものを受け取り、また、永遠のいのちを受け継ぐ」と約束されましたが、これらの約束は、御国(メシア王国、千年王国)において実現するものです。ただし、これらは神を信じる信仰によって与えられる賜物なのです。働きによるものではなく信仰によるものです。

●へブル人への手紙11章には信仰が称賛されている人々のリストを見ることができます。その信仰について次のように語っています。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙 11章1節
さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

●●新共同訳では「信仰は、望んでいる事柄を確信し、 見えない事実を確認することです。」と訳されています。
「望んでいること(事柄)」とはいったい何でしょうか。それは、「目に見えないもの(事実)」です。ここはヘブル語特有の修辞法である同義的パラレリズムで記されています。私たちの「望んでいる事柄」とは、大方「目に見えるもの」です。つまり、自分の生活、あるいは人生の中で実現されるような事柄を考えてしまいます。しかし使徒パウロは言いました。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(Ⅱコリント4章18節)。ヘブル書の作者も同様に、信仰とは「目に見えない永遠の事柄」を保証し、確信させる、それが信仰だと定義しているのです。そのような意味において「信仰の父」アブラハムが取り上げられているのです。「見ずして信じる信仰」-これこそ主が求めておられる信仰であり、その信仰に生きるように私たちも招かれています。その信仰において、次に扱われているのが、「後の者が先になり、先の者が後になる」ということなのです。このことを説明するのに、イェシュアは一つのたとえ話をされたのです。

2. 後の者が先になり、先の者が後になる

●20章1~15節のたとえ話は、19章30節の「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」と、20章16節の「このように、後の者が先になり、先の者が後になります」の間に、サンドウィッチのように挟まれています。

【新改訳2017】マタイの福音書19章30節~20章16節
30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります
1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。

ヘブル時刻.GIF

●このたとえは「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなもの」だと述べています。家の主人とは神のことです。家の主人は、朝早くに雇った組には、一日一デナリ(正確には「デーナリオン」δηνάριον)の賃金の約束をしてぶどう園に送りました。しかし第三時(午前9時)、つまり二番目の組には「相当の賃金を払うから」と言って、詳しい約束はなされませんでした。第六時(正午)すなわち第三の組と、第九時(午後3時)すなわち第四の組にも同様です。そして、最後の第十一時(午後5時)の第五の組の場合は賃金のことには全く触れられていません。

●このたとえにおける賃金の支払いは異常です。もしこのようなことが行われたとしたら、この世では問題が起こります。しかし、天の御国はこの世の価値基準とは異なります。ですから最初に「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです」と断っているのです。テキストをよく読むなら、確かにこのたとえの主人公である主人は不正をしていません。しかし、賃金の支払いのことで、この世の基準とは異なっています。なぜなら、支払われた賃金が、最後の者たちも最初の者たちも全く同額であったからです。朝早くから雇われていた者たちが主人に文句を言ったのは、最後に雇われた者たちから支払いがなされたからです。もし最初に雇われた者たちが先に賃金の支払いを受け取っていたのであれば、後に雇われた者たちの賃金を知ることもなく、また主人に対して文句を言うこともなかったことでしょう。そうでなかったところに、このたとえが示す意味があると言えます。

●最初に雇われた者たちも、最後に雇われた者たちも、支払われた賃金は1デナリでした。その賃金は、当時の労務者たちの家族が一日を生きるために必要な額と言われています。文句を言った最初に雇われた者たちに対してこの主人が語った言い分はこうです。「『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』」でした。

●「私が気前がいい」とは、「私は良い者である」という意味です。金持ちの青年がイェシュアの所に来て、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすれば良いのでしょうか。」と質問してきたときに、「なぜ、良いことについてわたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。」と答えられました。この「良い方」(「ホ・アガソス」ὁ ἀγαθός)と「気前がいい」(「アガソス」ἀγαθός)とは同じ語彙です。冠詞があるかないかの違いです。ヘブル語では「トーヴ」(טוֹב)、英語だとGood、日本語は「善」です。

画像の説明

「先の者」とはイスラエルを指し、「後の者」とは教会を指します。これは御国に入るのが、歴史的には後に呼び出された教会が先になり、先に呼び出されたイスラエルは後になるということです。教会はキリストが空中再臨した時に携挙されるという形で、そしてイスラエルはキリストが地上再臨した時に御国に入るという意味です。御国に入るということはいずれも同じですが、イスラエルは教会に比べるなら未曽有の大患難を受ける分だけ苦難が大きいということです。まさに「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」と文句を言うのも分かります。でもそうする必然性があったのです。それは神が不当なのではなく、イスラエルの不義のゆえです。しかし、そこにも神の「気前の良さ」が働いていることを忘れてはなりません。ただしこの神の「気前の良さ」は人にはなかなか理解できないのです。そのために、使徒パウロはローマ人への手紙9~11章を書く必要があったのです。その要点は何かといえば、その一つは「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」(9:15)という神のあわれみの主権性と、もう一つは神の歴史支配の知恵の奥深さです。それは「神の賜物と召命は、取り消されることがない」(11:29)という事実であり、このことばはイスラエルの民に対して語られています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙11章30~32節
30 あなたがた(教会)は、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル)の不従順のゆえに、あわれみを受けています。
31 それと同じように、彼ら(イスラエル)も今は、あなたがた(教会)の受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身(イスラエル)も今あわれみを受けるためです。
32 神は、すべての人(イスラエルと教会)を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。


3. 「あわれみ」に表される神の善

神の善.GIF

●「あわれみ」に表される神の善(良善, God’s goodness)は、組織神学では「神論」の中の「神の属性」の一つとして扱われます。神の属性の分類も学者によって異なりますが、私自身は以下のように整理しています。まず、神の属性全体の総称は「聖」です。この「聖」は神のすべてのご性質の総称です。この「聖」という神の本性の中に以下の属性があります。

(1) 絶対的属性
被造物とのかかわりを一切持たない神の性質で、自存性、無限性、永遠性、無窮性、不変性、完全性があります。
(2) 相対的属性
被造物一般とのかかわりに現わされる神のご性質で、偏在、全知、全能、知恵、善があります。特に、善は被造物一般に対する神の配慮、福祉を意味します。たとえば、一羽の雀、空の鳥、野の花に対する神の配慮がそうです。
(3) 道徳的属性
とりわけ、人間とのかかわりにおいて現わされる神のご性質で、愛、恵み、憐れみ、忍耐、義、公正、真実などがあります。

●「神の善」は相対的属性の一つであると同時に、道徳的属性の根底にある神の属性として、つまり、自然と人間とに対する神の恩寵の総称として私は位置づけています。「ホドゥー ラドナイ キー・トーヴ」(主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。= 主に感謝せよ。なぜなら主は良い方だから)という歌はおそらく天の御国において歌われる賛美のひとつだと思いますが、ここで使われている「トーヴ」はとても大切です。神の創造においても、「見よ。それは非常に良かった」(創世記1:30)とありますが、この「良かった」が「トーヴ」(טוֹב)です。

●神の「善」(トーヴ)、神の「いつくしみ」(ヘセド)、神の「あわれみ」は、被造物(自然と人)に対する神の恩寵的かかわりの総称的概念です。たとえば、それが自然界の生きるものに対して向けられるとき、空の鳥が養われ、野の花が美しく装われます。神の配慮が自然の中のすみずみまで行き届いているのです。ましてや人はそれらよりももっとすぐれたものであるゆえに、神(天の父)は人にもっとすぐれた良いものを与えてくださるのです。神の善が人に向けられる時には、その善は神の愛として示されます。神の愛は、さらに神の恵み、神のあわれみ、神の忍耐となって表されます。愛も、恵みも、あわれみも、すべては神が善であられるゆえに私たちとのかかわりにおいて表される栄光の富だということです。

●神は常に永遠に善なる方です。誰に対しても善なる方なのです。その善なる方が、ご自身の治められる御国において、「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。」という神の言い分に、あなたはどう思われるでしょうか。御国においてもこの世の基準どおりにしてほしいと思うでしょうか。とすれば、それは御国ではなくなってしまいます。「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか」と人間が言ったとしたら、その人は自分中心で傲慢な者としか映りません。しかし、永遠に良い方である神が「自分のしたいことをする」とき、御国の民にとって、これ以上にない最高の祝福に満ちた御国となるのです。御国は人間の知恵や努力によって完成される国ではないからです。

●私たちが「天に宝を持つ」ことができるのも、「天の御国に入る」ことができるのも、「座に着く(座る)」ことができるのも、「百倍のものを受け取る」ことができるのも、「永遠のいのちを受け継ぐ」ことができるのも、これらすべて神のあわれみと恵みによるのです。私たちの働きや努力によってではありません。「わたしがそうしたいのです」と言われる神の善に基づくものなのです。

ベアハリート

●ユダヤ人は実に神から多くのものを与えられてきました。ユダヤ人のすぐれたところは、「あらゆる点から見て、大いにある」とパウロは述べていますが、その第一は、何と言っても、彼らには神のことばがゆだねられたという点です。聖書の多くがユダヤ人の手を通して書かれました。新約の使徒たちもすべてユダヤ人でした。やがて教会時代が終わった後の7年間の患難時代には、イスラエルの残りの者たちによって御国の福音が全世界に宣べ伝えられて、多くの異邦人が救われることが約束されています(マタイ24:14)。神の歴史において、神のみことばを授かったのはイスラエルが先です。教会はその後です。しかし、御国の祝福を受けるのは教会が先で、イスラエルは後です。神のご計画の奥義が示されたのもイスラエルではなくて、教会が先なのです。先か後かという違いがあったとしても、神の善は双方に注がれており、その恵みの祝福は同じなのです。マタイの福音書20章1~15節のたとえはそのことを私たちに教えているのです。ですから、使徒パウロも次のように述べて、神の栄光をたたえています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙11勝36節
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。
この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

2020.10.4
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