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権威を行使するイェシュア(5)「悪霊」

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31. 権威を行使するイェシュア(5)「悪霊」

【聖書箇所】マタイの福音書8章28~34節

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  • 御国の権威を行使するイェシュアの奇蹟を学び始めています。ツァラアトのきよめ(8:1~4)、百人隊長のしもべで中風やみの癒やし(8:5~13)、ぺテロの姑の熱病の癒やし(8:14~15)、自然界において(8:23~27)、そして今回は、悪霊につかれた人々の癒やし(8:28~34)において、イェシュアの権威が現されています。福音書では意外と「悪霊につかれた人」の記述が多いのです。
  • イェシュアはある人たちから悪霊を追い出されました。福音書のいやしの記事の中では半分くらいの数に上っています。イェシュアは悪霊に対して絶対的な権威を持っていることを明らかにされました。とりわけ、マタイの福音書が記している箇所だけを挙げてみましょう。

①【新改訳2017】マタイ 4章24 節
イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
②【新改訳2017】マタイ 8章16節
夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。
③【新改訳2017】マタイ 8章28節 
さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
④【新改訳2017】マタイ 9章32 節
その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。
⑤【新改訳2017】マタイ 12章22 節
そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
⑥【新改訳2017】マタイ 15章22 節
すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれてひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。

  • ①~⑥で一見して分かることは、③を除くすべてが、人々がイェシュアのもとに「悪霊につかれた人」を連れて来たということです。③だけが「悪霊につかれた人」がイェシュアを迎えたとあります。
  • 「悪霊」のことをギリシア語で「ダイモニオン」(δαιμόνιον)、複数形では「ダイモニオーン」(δαιμονίων)と言います。一文字異なるだけです。新約聖書に記されている「悪霊」はその多くが複数形で使われます。ヘブル語では「シェード」(שֵׁד)の複数形「シェーディーム」(שֵׁדִים)です。「悪霊につかれる」ことをギリシア語で「ダイモニゾマイ」(δαιμονίζομαι)と言いますが、それは悪魔の支配の下にあって、しかもそのような人は肉体的または精神的に重篤な病気(麻痺、失明、難聴、発話の喪失、癲(てん)癇(かん)、憂鬱、狂暴など)で苦しんでいることを言います。
  • さて、今日のテキストを読んでみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書8章28~34節
28 さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
29 すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」
30 そこから離れたところに、多くの豚の群れが飼われていた。
31 悪霊どもはイエスに懇願して、「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送ってください」と言った。
32 イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。
33 飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。
34 すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。


1. 文脈―「向こう岸のガダラ人の地」

  • マタイ8章28節で、イェシュアと弟子たちがカペナウムから「向こう岸のガダラ人の地」に着かれたことが記されています。18節にはすでに「弟子たちに向こう岸に渡るように命じられ」ていますが、19節では、一人の律法学者と別の一人の弟子がイェシュアのもとに来て、「従う」ことの問答が記されています(19~22節)。その後にイェシュアと弟子たちが舟に乗って「向こう岸」へ渡り始めますが、湖は大荒れとなってしまいます。イェシュアがその風と湖を叱りつけると、すっかり凪になった出来事が記され(23~27節)、その後にイェシュアの一行が湖の「向こう岸のガダラ人の地」に着かれた事が記されています。マルコとルカの福音書では「ゲラサ人の地」となっています(マルコ5:1、ルカ8:26)。マタイ9章1節にはイェシュアは「舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた」とあります。つまりこれはイェシュアが宣教の本拠地へ戻られたということです。なぜイェシュアは舟で「向こう岸のガダラ人の地」へ行かれたのでしょうか。前回にもお話ししたように、「ガダラ人の地」とは「異邦人の地」のことです。イェシュアはこの地を通って「デカポリス」などの異邦の地に行っているのです。
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  • 地図を見ると、デカポリス地方に「ガダラ」とか「ゲラサ」という地名があります。しかしそこに行かれたのではありません。なぜならイェシュアの一行は舟から上がられると「すぐに」(マルコ)、「悪霊につかれた」人と出会っているからです。最近の考古学によれば、ガリラヤ湖の「向こう岸」といわれる地の山の上には、ローマ軍の駐屯地があり、ローマの偶像の神殿がある巨大な都市があったことが知られています。その都市の崖の下がガリラヤ湖であり、「ガダラ」(ゲラサ)の港であったのです。だとすれば、「汚れた霊」と崖を駆け下りて死んだ多くの「豚の群れ」の出来事の説明もつくのです。
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  • イェシュアと関連する出来事の中で偶然に起こったものは何一つありません。イェシュアの宣教の本拠地であったカペナウムは「こちら側」であり、「ユダヤ人の地域」です。しかしイェシュアが行かれた「向こう側」は「異邦人の地域」なのです。つまり、「異邦人」の時が来て異邦人が救いを受ける時が終わると、再び「ユダヤ人」たちの救いの時が来るという「型」がここに啓示されていると言えます。

2. 悪霊につかれた人

(1) 「墓場」

  • マタイはここで悪霊につかれた人が「二人」、墓場から出て来たと記しています。当時の墓場は岩に掘った洞窟であり、墓穴は犯罪者の隠れ場、極貧の人々、気が変になった人々の住処になっていたようです。現在でも古い墓穴は避難所や仮の宿として利用されているそうです。本来、「墓」は亡くなった人を覚える場所ですが、「向こう側」の「墓」は「汚れた場所」で、悪霊どもが住んでいると考えられていました。

(2) 「狂暴性」

  • 「彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。」とあります。マルコ5:1~20によれば、「悪霊につかれた」人というのは、足かせや鎖でつながれたとしても、鎖を引きちぎり、足かせをも砕いてしまうほどの力を持っていて、だれもそうした者を抑えるだけの力をもっていなかったのです。悪霊の力が働くと人は狂暴性を帯びます。それゆえ人々は悪霊の力を抑制することができずに、困惑し、危害を加えないように墓場に監禁したのです。悪霊につかれた人の状態は悲惨であり、自分を傷つけ、その人生を壊し、正常な社会生活を送れなくしてしまいます。人としての尊厳を奪われるだけなく、死人同然にされてしまうのです。

(3) なぜマタイでは「二人」なのか 

  • マルコ(5:1)やルカ(8:27)の並行記事によれば、「悪霊につかれた人」は一人で、しかも「レギオン」(当時のローマ軍団体の一単位)と呼ばれていました。なぜマタイはここで悪霊を追い出された人を「二人」としたのでしょうか。それはマタイの福音書がユダヤ人向けに書かれたことと関係しています。というのは、ユダヤ人にとって、ある出来事が真実であると確認されるためには、二人あるいは三人の証言を必要としたからです。

【新改訳2017】申命記19章15節
いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。

とあるように、イェシュアが「メシア」、「神の子」、「ダビデの子」であるという証言にしても、その証言が有効であるためには、二人以上の証人が求められました。そのためにマタイはイェシュアのメシア性を弁証するためにユダヤ的表現を用いたと考えられます。同様に、マタイ9章27~31節や20章30~34節に「二人の盲人のいやし」が出て来るのに対し、マルコ(10:46~52)やルカ(18:35~43)では、盲人は一人です。このような表現方法から、マタイがユダヤ人向けに対して書いたことが分かるのです。

3. 悪霊たちの反応

  • さて、墓場にいる「悪霊につかれた」二人の者がイェシュアを「迎えた」とあります。ここにはギリシア語で「ヒュパンタオー」(ὑπαντάω)が使われています。単に「出迎える」という意味ではなく、戦うために、あえて反抗する意思をもって出向くという意味です。悪霊たちは墓に住んでいた狂暴な人を支配していましたが、イェシュアが自分たちを滅ぼすためにやってきたと直感し、イェシュアを迎え撃とうとして出てきたのです。「すると見よ」とあります。敵対する思いで出向いたにもかかわらず、「彼らが叫んだ」のです。つまり、「叫んだ」とは助けを求めて叫ぶことです。「神の子よ。私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」
  • 興味深いことに、悪霊につかれた二人はイェシュアのことを「神の子」と呼んでいます。彼らはイェシュアのことを「神の子」と知って、その権威を恐れているのです。恐れているのは二人のように見えますが、真に恐れているのは彼らの内に住んでいる「悪霊たち」です。「まだその時ではない」の「その時」とは、神が定められた時(「カイロス」καιρός)で、イェシュアがメシアとしての王権を確立する時のことです。それは同時に悪霊たちが滅びる時なのです。その時が来れば、滅ぼされることを悪霊たちは知っているのです。そこで悪霊たちはイェシュアに懇願し、自分たちを「豚の群れの中に送ってくれ」と言ったのです。その理由は悪霊が「体」をもたない霊であり、いつも住む家を捜しているからです。ルカの並行記事では、悪霊どもはイェシュアに「底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した」とあります(ルカ8:31)。そこは悪霊にとって恐ろしい刑罰の場所と知っているからです。そこでイェシュアは悪霊たちの願いどおりに彼らを豚の群れの中に入るのを許されたのです。こうして、豚の群れとともに悪霊たちも滅びたのです。
  • イェシュアはしばしば悪霊を追い出されました。中には人の口をきけなくする悪霊がいました。悪霊が出ていくと口がきけなかった人がものを言い始めて、人々は驚いたとあります(ルカ11:14)。パリサイ人たちはイェシュアが「悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」(マタイ12:24)と非難しましたが、イェシュアは「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12:28)と述べています。ちなみに、「わたしが神の御霊によって」とあるところを、ルカの並行記事では「わたしが神の指によって」としています。つまり「神の指」とは「聖霊」のことなのです。聖霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに「来ている」ということを言っています。
  • ここで「来ている」と訳された語彙は、ギリシア語では「すでに到着した」ことを意味する「フサノウ」(φθάνω)です。これをヘブル語にすると「触れる、近づく」を意味する「ナーガ」(נָגַע)のヒフィル態(使役態)が使われています。「近づく」と「触れる」とは本来微妙にニュアンスが異なりますが、ヘブル語においては全く同じ意味なのです。創世記3章3節に「ナーガ」(נָגַע)の最初の言及があります。アダムの妻エバは蛇に善悪の知識の木に「触れてもいけない」と言っていますが、「触れる」という言葉はその木に触れるためのプロセスとして「近づく」ことをも含んでいます。これはヘブル語が持っている「すでに」と「いまだ」を内包しているのです。
  • こうしたことは、ヘブル語のもうひとつの動詞「カーラヴ」(קָרַב)にも見ることができます。この動詞は、限りなく「近づいている」という意味と、「すでにあなたがたのただ中にある」という意味を同時に含んでいます。バプテスマのヨハネも、イェシュアも、同じく「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣教を開始しましたが、この天の御国が「近づく」とは、同時に天の御国は「すでにあなたがたの中にある」とも言えるのです。日本語訳の場合は、この二つの意味を持つニュアンスを一言で訳すことができません。しかしヘブル語は、神のご計画における「いまだ」と「すでに」という時系列の緊張関係を表わすことのできる、まことに不思議な言語なのです。悪霊たちが「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか」と叫びました。つまり「定められた審判の時」ではないのにと言っています。しかしイェシュアの登場は「定めの時」がすでに来ていることを示しています。そのことが豚の群れの中に入り、悪霊どもが水の中で滅びた出来事に現されているのです。

4. どうして人は悪霊につかれるのか

  • 「悪霊」ということばは旧約聖書では2回しか出てこないことばですが、なぜ人が「悪霊につかれるのか」を説明しています。一つは申命記32章17節、そしてもう一つは詩篇106篇37節です。

【新改訳2017】申命記 32章17 節
彼らは、神ではない悪霊ども(שֵׁדִים)にいけにえを献げた。彼らの知らなかった神々に、近ごろ出て来た新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々に。

【新改訳2017】詩篇106篇37 節
彼らは自分たちの息子と娘を悪霊(שֵׁדִים)へのいけにえとして献げ

  • 上記の箇所を裏付ける歴史的出来事がイスラエルの歴史に、特にユダ王国の滅びを決定づけたマナセの時に起こりました。マナセの行った偶像礼拝の一つに「自分の子どもに火の中を通らせ」(Ⅱ列王記21:6)というのがあります。これは幼児の人身を犠牲として祭壇で焼く異教的な宗教習慣で、一般にはモレクの神へのささげ物と考えられています。この残虐な「忌み嫌うべき慣わし」は、マナセの祖父であるアハズもしています(Ⅱ列王記16:3)。他にも、マナセは卜占(ぼくせん)をし、まじないをし、霊媒(れいばい)や口寄せをして、主の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こしました(Ⅱ列王記21:6)。
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  • 「悪霊につかれる」ということは、「悪霊どもにいけにえを献げた」ことでもたらされます。つまり、人生の中で偶像の神々を拝むことによって、悪霊の侵入口を持つことです。つまりその人がなんらかの偶像に対して、たとえばニューエイジやコックリさんとか、占いとか霊媒とかオカルト的な事柄に対して、「意識的に心を開く」ことなしに「悪霊につかれる」ことはありません。神を忘れ、故意に神以外のものに、すなわち偶像に心を開くとき、悪霊に支配され、「悪霊につかれる」のです。逆に、もし人がサタンに誘惑されながらもそれに従うことを拒むなら、サタンが成し遂げようとしていることは起こりません。悪霊にしても、人の同意なしには何もできないのです。悪霊に対して、意識的な招きをした者だけがそれに支配されるのです。あるいは、前の世代から代々受け継いできたものを通しても「悪霊につかれる」のです。その場合、のろいに基づいて悪霊に支配されます。例えばイェシュアが十字架にかかる時、ユダヤ人が自分たちにかけたのろい、すなわち、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」(マタイ27:25、第三版)というのがそうです。この種ののろいはイェシュアによって全く新しい存在とされない限り、解放されることはありません。

5. 豚を飼っていた者たち

  • 墓場からずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼われていました。その群れが水におぼれて死んだことで、飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせたとあります(33節)。しかし悪霊から解放された二人が正気に戻ったことやイェシュアがメシアだということ、さらには、今後は町が安全になることについては正確に伝えなかったようです。豚を飼っていた者にとっては、むしろ豚を失ってしまったことの方が問題で、事の重要性よりも目先の損失だけに心奪われて、自分の被った損害だけを数え上げる人たちです。このことは、当時も今も変わりません。
  • マタイは常套句である「すると見よ」を使って、町中の人々が豚を飼っていた人から何を聞いたか、その点に注目させようとしています。つまり、イェシュアに「その地方ら立ち去ってほしいと懇願した」のです。つまり、豚の損失事件のような被害だけはもたらしてほしくなかったのです。イェシュアがもたらす神の恵みには目を閉ざし、失われるもののみに心が奪われる、そんな愚かさを暴露しているのが、異邦人の人々の姿でもあるのです。イェシュアこそ真の王(メシア)であり、すべての人の主であられることが知られるように、主の弟子として、祈り続けて行きたいと思います。

2018.6.3
※3/11に脳出血を発症して入院とリハビリ。5/22に退院後、最初のメッセージです。


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