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未来形

時制法(1) ギリシャ語の未来形とその例


私たちに希望をもたらし、生きる力を与えてくれる未来時制

はじめに

  • ギリシャ語の未来時制は、将来、確実に起こることを表わす時制です。将来、必ずそうなること、あるいは神の確実な約束を意味します。「・・でしょう」ではなく、「(必ず)そうなります」という断定的表現です。時制を絶えず意識しながらみことばを瞑想するなら、これまでとは異なったニュアンスを感じ取ることができるはずです。

1. マタイの福音書 7章7節の場合

  • 例えば、マタイの福音書に7章7節にある「求めなさい。そうすれば与えられます。」(新改訳)は、「求めなさい」という現在時制による命令形と「与えられます」という未来時制で成っています。時制をより正確に訳すならば、「求め続けなさい。そうすれば、(必ず)与えられます。」となります。何が与えられるのかといえば、それは「良いもの」です。何よりも私たちにとって良いものです。ルカはそれを「聖霊」としています。この方が神のうちにあるすべての霊的な祝福を私たちにもたらしてくださる方だからです。
  • マタイ7章7節のみことばには、求め続けていく求道精神の大切さとそれによってもたらされる確かな祝福への呼びかけがあります。しかもその呼びかけは私たちに大きな希望をもたらすだけでなく、自ら求め続けていく力をも与えます。このように、神とのかかわりにおける未来時制を意識することは、私たちの心に希望をもたらし、生きる力をも与えてくれるのです。

2. マタイの福音書 5章3~10節の「幸いな者たち」の場合

  • マタイの福音書5章3~10節にあるイエスの語られた有名な山上の説教を見てみましょう。
    構造的には、頭と末尾にある「天の御国はその人のものだからです。」(3節と10節)というフレーズの間にさまざまな約束が語られています。このフレーズにある動詞は一つ、「・・です」という「エイミー」εἰμίの三人称単数直説法現在形能動態の「エスティ」ἐστίνです。従って、5:3の時制をより意識して訳すならば、「天の御国はその人のものでありつづけるからです。」なります。しかも、そのような状態にありつづける者とは、「心の貧しい者」であり、「義のために迫害されている者」なのです。
  • このフレーズの間に挿入されている一つひとつの約束には(分詞を除くと)それぞれ一つの動詞があります。そしてそれらはすべて三人称複数直説法未来形で記され、能動態、受動態、中間態(中態とも言います)の三種類のいずれかが用いられています。ここでは、マタイ5:4~9の箇所を原文の時制がよくわかるように訳してみると、以下のようになります。脚注1

5:4 幸いなことだ。悲しむ者たち。その者たちは必ず慰められるからだ。

〔三人称複数、直説法、未来形、受動態〕

5:5 幸いなことだ。柔和な者たち。その者たちは必ず地を相続するからだ。

〔同上、未来形、能動態〕

5:6幸いなことだ。義に飢え渇いている者たち。その者たちは必ず満ち足りるからだ。

〔同上、未来形、受動態〕

5:7 幸いなことだ。あわれみ深い者たちは。その者たちは必ず憐れみを受けるからだ。

〔同上、未来形、受動態〕

5:8 幸いなことだ。心のきよい者たちは。その者たちは必ず神を見るからだ。

〔同上、未来形、中間態〕

5:9 幸いなことだ。平和をつくる者たちは。その者たちは必ず神の子どもと呼ばれるからだ。

〔同上、未来形、受動態〕

  • 以上のようにすべて動詞は未来形で使われています。必ずそうなることが約束されているのです。しかも、ここには3つの態(能動、受動、中間)を見ることのできる貴重なテキストです。ちなみに、中間態とは、本来、自分自身に対して、自分のために行うときに用いられますが、5:8の中間態は「デポ動詞」と言って、語尾が中間態となっているのですが、意味は能動態である動詞のことを言います。ですから「神を見る」と訳されます。

3. マタイの福音書 22章37節~40節の場合

  • もう一つの例として、マタイ22章37節~40節を取り上げてみたいと思います。
    律法の専門家がイエスに「律法の中でたいせつな戒めはどれですか」と尋ねた質問に、イエスが答えた答えです。

    22:37「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
    22:38これがたいせつな第一の戒めです。
    22:39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
    22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

  • この箇所で未来形が使われている箇所は、命令形のように訳されている37節と39節にある「愛せよ」という動詞です。正確には動詞「アガパオー」αγαπαωの二人称単数の未来形で「アガペーセイス」αγαπησειςです。つまり、そのように訳すなら、「あなたは愛するでしょう、あるいは、あなたは愛するようになるでしょう。」You shall loveの意となります。多くの聖書がここを命令形に訳していますが、実は、未来形が使われているのです。岩波訳は以下のように、未来形のままに訳しています。脚注2

    「あなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くしつつ、あなたの命を尽くしつつ、あなたの想いを尽くしつつ、愛するであろう。」
    「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう。」

  • ちなみに、岩波訳ではマルコ12:30でも同様に訳しています。また、ガラテヤ5:14にも「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」(新改訳)が記されていますが、やはりそこも「愛せよ」は二人称未来形能動態です。ですから、「あなたは、あたなの隣人をあなた自身のように(必ず)愛するようになります」と訳すことができるのです。私が頑張ってするのではなく、神がそのようにできるように必ずしてくださるのです。そのようにして律法が全うされるのです。

4. マタイの福音書 5章48節の場合

  • ところで、マタイの福音書5章48節をどのように理解すればよいでしょう。この箇所も実に多く聖書が「天の父が完全なように、完全でありなさい。」、あるいは「完全でなければならぬ」とあたかも命令形のように訳しています。しかし、ここでも原文で使われているのは「命令形」ではなく、「未来形」直説法です。そのように訳してみるならば、「あなたがたは、天の父が完全なように、必ず、完全であり得るのです。」、「必ずや、あたがたも完全であることができるようになる」と訳すことができるのです。
  • この文脈で命令形で使われている動詞としては、44節の敵を「愛し」、敵のために「祈りなさい」ということばだけです。現在形の命令ですから、愛し続けること、祈り続けることが命じられています。そうすることで、やがて、必ず、父のように完全であることができるのですという約束がここの箇所の「未来形」が意味していることではないでしょうか。

4. 申命記 6章4~5節の場合

  • ところで、マタイ22章37節~40節でイエスが語ったことばの元になっているのは旧約聖書の申命記6章4~5節です。そこを見てみます。
    「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(新改訳)
  • 新改訳のみならず、多くの聖書が「愛しなさい」と命令形で訳していますが、実は、ここの「愛する」というヘブル語動詞の文法は命令形ではなく、二人称単数の完了形能動態です。つまり、神がここでイスラエルの民に耳を傾けて「聞きなさい」(ここは「聞く、シャーマ」の命令形「シェマ」)と命じているその内容は、「主は私のたちの神。主はただひとりである」という信仰宣言であり、その主によって、あるいは、その主にふさわしく「あなたは・・心を尽くして・・主を愛するようになる」ということが約束され、期待されていると理解することができるのです。
  • 「愛する」ということは強制や義務でできることではありません。自発的、自覚的、主体的なものでなければ愛とは言えません。主がどのような方かを知る(経験する)ことによって、はじめて主を愛するようになるからです。
  • ところで、申命記6章5節の「愛するようになる」という部分がギリシャ語で引用されるときには未来形能動態であるのに、ヘブル語の原文ではなぜ完了形能動態を使うのでしょうか。それはヘブル語では、まだそれが実現していなくても、やがてそれが確実に実現することになることを表現する場合には、未完了形ではなく完了形で表されるからなのです(ちなみに、ヘブル語の時制は完了形と未完了形の二つしかありません)。
  • 申命記の6章5節の「愛しなさい」が命令形ではなく、完了形能動態であるように、そのあとに続く命令形で訳されている動詞もすべて完了形能動態が使われています。つまり、「心に刻みなさい」が「心に刻むようになる」、「教え込む」も「教え込むようになる」、「唱えなさい」も「唱えるようになる」・・・と訳せるのです。ここにはなんと自由な、自発的な愛の世界があることでしょうか。もしここを命令形のよう理解して受け止めるならば、律法的な束縛を感じて生きなければならなくなります。実際、聖書が記しているのは、ヘブル語の完了形、ギリシャ語の未来形です。そのことを踏まえて理解するならば、そこには自由があります。神の愛と信頼に応えて、自ら主体的に従って生きる喜びがあります。そしてさらにそこに創造的な力が加わると信じます。これが神がなされる救いであり、永遠のいのちとも言うべきものです。
  • 神はそのような生き方を私たちにもたらして希望を与えてくださる方です。神と私たちが愛によるゆるぎない信頼のかかわりを築くために、神が私たちのうちに自ら、自覚的に、主体的に神を愛するために聖霊によって私たちを新しく創造してくださるのです。そのことを確信して歩むことこそ、私たちにとって最も大切な戒めなのです。

2011.10.9


脚注1

ただし、【新改訳改訂第2版】で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と訳されていたのが、【新改訳改訂第3版】では、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と改定され、第2版にあった最後の『です』が省略されてしまいました。前半に「幸いです」とあるために省略したのかもしれません。原文には「です」を表わすbe動詞は、後半の文節の「彼らのものです」の「です」一つです。5:3を原文で直訳するならば、「幸いなことだ、心の貧しい者たち。というのは、天の御国は彼らのものでありつづけるからだ。」となります。つまり「ありつづける」状態を表わすのが現在時制です。これは過去がどうであったかは全く問題とされません。過去にかかわりなく、現在の状態が常に強調されているのです。

脚注2

岩浪訳(新約聖書翻訳委員会)では、この箇所以外にも、未来形を意識して、以下のように訳しています。
①マタイ5:21「あなたは殺すことはないであろう。・・」と古の人々に言われたことは、あなたたちにも聞いたことである。」
②マタイ5:27「あなたは姦淫を犯すことはないであろう。」と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。
③マタイ5:43「あなたは、あなたの隣人を愛するであろう、そしてあなたの敵を憎むであろう」と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。


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