****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

未完了形

時制法(3) ギリシャ語の未完了形とその例


主の熱意と私たちの求道性が求められる未完了

はじめに

  • ギリシャ語の未完了形は、過去の動作の継続、または反復を意味します。意味としては「(いつも)~していた」です。継続とは動作が進行している状態を示します。ある場合は、反復的・習慣的な動作を意味します

1. マルコ福音書1章35節の場合

「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

  • マルコの「祈っておられた」の原語は「プロセウコマイ」προσεύχομαιの直説法、未完了形、中態、3単数です。それゆえここでのニュアンスは「イエスは朝早く、寂しい所へ出かけていき、そこで自分のために(中態)祈ることを習慣としていた。」ということになります。ルカ5:16ではそのニュアンスを「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」と記しており、イエスが荒野に退くことと、祈ることとが習慣的であったことを伝えています。「おられた」がbe動詞「エイミー」ειμιの未完了です。

2. ルカの福音書8章8節、9節の場合

8:8の後半部分「イエスは、これらのことを話しながら、『聞く耳のある者は聞きなさい。』と叫ばれた。 」(新改訳)

  • 「叫ばれた」と訳されている動詞は、「フォーネオー」ϕωνέωの直説法、未完了、能動態、3単数です。「フォーネオー」ϕωνέωは、叫ぶ、呼びかける、招くという意味です。ここでは未完了形ですから、繰り返し「叫び続けていた」、あるいは、繰り返し「呼びかけていた」というニュアンスです。具体的に何を呼びかれていたかといえば、それは「聞く耳のある者は聞きなさい」ということです。「聞く耳のある者は聞きなさい」とはいったいどういう意味なのか。「聞きなさい」という命令は現在形です。ですから「聞きつづけなさい」という意味です。
  • その例証―すなわち、「聞く耳のある者は聞き続けなさい」とはどういうことかを示す例証―が次節にあります。

9節「さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた」(新改訳)

  • イエスの話を聞いていたイエスの弟子(12弟子、12使徒のこと)は、イエスの語るたとえ話を理解することができませんでした。そこで彼らはそのたとえの意味をイエスに尋ねたのです。ここの「尋ねた」と訳された動詞は「エペロータオー」έπερωτάωの直説法、未完了、能動態、3複数です。「エペロータオー」έπερωτάωは、「~に向かって」を意味する「エピ」έπίと、「質問する、尋ねる、問う」を意味する「エロータオー」ερωτάωの合成語ですが、これを未完了として正確に訳すなら、「弟子たちはイエスに向かって、繰り返し、尋ね求め続けた」というニュアンスになります。
  • 9節の「弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた」とは、自分が納得するまで、腑に落ちるまで彼らはイエスにそのたとえの真意を問い続けたことを意味します。これが未完了という時制(あるいは、様相―アスペクト)が表現しようとしていることです。
  • イエスの言われた「聞く耳のある者が聞く」とは、別のことばで言い換えるならば、自分が納得するまで、腑に落ちるまで、何度も、繰り返し、熱心に、イエスに向かって「尋ね続ける、問い続ける」ことなのです。そうするなら、必ず、イエスが言わんとするたとえの真意を悟ることができるようになるのです。
  • しかも、驚くべきことに、10節ではイエス自身がそのことを弟子に対して述べています。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者にはたとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いても悟らないためです。」と。つまり、ここで言おうとしていることは、自らそのたとえの真意を知ろうとしなければ、決してその真意は悟ることができないようになっているということです。そのことを教えるために、さらなるたとえ(16節と17節)を用いて、「隠されているもので、あらわにならないものはない」ことを用いて教えています。だから、「聞き方に注意し」なければならないのです(18節)。それはただ聞くということだけにとどまらず、その真意を常に主に問い続ける、主に尋ね求めるという熱心さが求められているのです。
  • イエスは「だから、聞き方に注意しなさい。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるのです。」(8:18)と語られました。何を持っているのでしょうか。それは「聞く耳」です。「聞く耳」とは、単に聞き従うということだけを意味するのではなく、イエスの語ったことばの真意を尋ね、問い続けるという意味での「耳」であり、その「耳」によって、さらなる天の御国の秘密が確実に与えられる(未来形)ということを約束しておられるのです。

詩篇119篇2節
「幸いなことよ。・・・心を尽くして主を尋ね求める人々」

2011.10.12


a:7425 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional