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新たな視点からの「五千人の給食の奇跡」

4. 新たな視点からの「五千人の給食の奇蹟」

はじめに

  • 「五千人の給食の奇蹟」を全く異なる視点から読み解くこともできます。


1. この奇蹟がなされた「場所」と「時」、そしてそのことが意味すること

(1)この奇蹟がなされた場所はどこか

  • 残念ながら、ヨハネの福音書にはこの奇蹟がなされた場所についての記述がありませんが、共観福音書には明確に記されています。それによれば、「寂しい所」(マタイ14:15)、「へんぴな所」(マルコ6:35)、「人里離れた所」(ルカ9:12)。ギリシャ語では「エレーモス」έρημοςです。これを英語では「デザート」desertと訳されます。なんと「荒野」のことです。新約聖書にはこの「エレーモス」という言葉が48回も出で来るのです。32回は福音書で使われています。
  • イエスの前のバプテスマのヨハネは荒野で叫ぶ者の声として、実際に荒野で「悔い改めよ」と述べ伝えました。イエスは公生涯に入られる前に、御霊に導かれて荒野に行かれました。40日間そこにとどまりました。そしてそこで悪魔の誘惑を受けられましたが、御使いがイエスに仕えました。イエスはしばしば人里離れた場所、つまり、荒野に退かれて祈りの時を過ごされました。イエスは弟子たちにも荒野に行って休息を取るようにとも言われました。イエスと弟子たちはしはしば群衆から離れて荒野へ退かれたのです。そして、極めつけは、モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。
  • 「荒野」とは、人に頼ることのできない、神しか頼ることのできない場所です。「モーセが荒野で蛇を上げた」とは、人の罪によって多くの人々が病気になり死んでいきました。そのような中で、主は青銅による蛇をモーセに造らせ、それを見上げるとき、病はいやされ、助かることをモーセに示されました。青銅の蛇になにか力があるのではありません。「その青銅の蛇を竿の先につけて上げよ、そうすれば生きる」と言われた主のことばが重要なのです。神のことばを信頼して、それを信じてそれを見た者は助かりました。同様に、御子イエスも上げられなければなりませんでした。それは御子を見上げた者だけが救われるからです。旧約時代において、荒野で行われたすべてのことは、御子イエスにおいて重要な意味を持っていたのです。

(2) この奇蹟が行われた時はいつか

  • 共観福音書には時についての記述はありません。ヨハネの福音書にのみ記されています。4節の「さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた」と一見、突拍子もなく記されているのですが、この奇蹟とどう関係があるのでしょうか。ヨハネが聖霊によってその「時」について記したのは、出来事と時が深い関係を持っているからです。そのかかわりに深い意味が隠されているからです。
  • 「過越」とは、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放され、神の民として生きることを可能とされた出来事でした。エジプト中の初子が死ぬという神のさばきが下されますが、家の門柱とかもいに小羊の血が塗られている家はそのさばきが過ぎこされました。これエジプトの王にとつて大きな打撃を与え、これを機にそれまでエジプトの奴隷であったイスラエルの民を去らせたのです。この神の恵みのわざを覚えるために、神は「過越」の祭りをすることを制定されたのです。その祭りの意味は、イスラエルの民が荒野で神だけを信頼するということを思い起こして、神への信頼をより一層強めるためでした。ところが、過越という祭りを行っても、神を信頼するということを当時の人々は真の意味で悟ってはいなかったのです。神を信頼するということはどういうことか。
  • エジプトの地での過越によって、人々は自分たちをエジプトの圧政から救い出してくださった神に導かれて荒野を旅しました。それまでは奴隷として苦しみを味わいながらも、一応は、食べ物は与えられていたのです。ところが、荒野という場所はなにもありません。ただ神にだけを当てにするしかないところです。神はイスラエルの民をその荒野へと導き、神がいかなる方であるかを教えられました。生存に必要な水も、そしてパン(食物)も、神が多くの民を養うために与えました。それは「マナ」という不思議な食べ物でした。日々、必要な分だけ神はイスラエルの民に供給し続けたのです。ヨハネ6:4の「過越が間近になっていた」というのは、神の民が神によってのみ生きることができることを思い起こさせるための祭りだったのです。このことと「五千人の給食の奇蹟」はきわめて密接な関係があるのです。

2. 五千人の奇蹟が指し示す「キーワード」(「座らせる」)

  • しばしばこの話のポイントは「五つのパンと二匹の魚」に目が留まりやすいようです。事実、私もそうでした。なぜなら、わずかなものでも神にそれをささげるならば、神はそれを神の目的のためにお用いになるというメッセージ性があるからです。会堂建築とか、教会の大きなプロジェクトを実現するために、それぞれ持てる物を神にささげようというメッセージとして使われます。何を隠そう、この私もそのように解釈してメッセージしたことを覚えています。しかし、果たしてそのことをこの話は私たちに伝えようとしているのでしょうか。
  • 「五千人の給食の奇蹟」は、三つの共観福音書、そしてヨハネの福音書がみな共通して記している記事です。ただ少々設定が異なっています。その違いと共通点を整理してみたいと思います。

(1) 相違点(共観福音書とヨハネの福音書)

  • 日が暮れてきたので、弟子たちが人々を解散するようにイエスに進言したとき、イエスは「あなたがたで何か食べる物を上げなさい。」と共観福音書では、弟子たちにチャレンジしています。羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている群衆をかわいそうに思うイエスの姿があります(マタイ9:36)。
  • ヨハネの場合には、共観福音書の場合のように、「あなたがたで何か食べる物を上げなさい。」というチャレンジではなくて、「抜き打ちテスト」でした。「抜き打ちテスト」とは、何の予告もなく、テストすることです。だいだいそんなことをする先生は生徒に嫌われること間違いなしですが、教育上、ある目的をもってするなら、必要なことでもあります。なぜなら、生徒の本当の実力が分かるからです。
  • 今回のヨハネの福音書の聖書箇所に、イエスの弟子に対する抜き打ちテストが見られます。これまでヨハネの福音書にしるしとして記された出来事を通して、弟子たちがどの程度学んだかをイエスは試そうとされたのです。しかも弟子の中のピリポに対してでした。
  • 5, 6節を見ると、
    イエスは目を上げて、大勢の人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
  • イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからであるとしながらも、「ためす」というのは少々意地が悪い感じがします。しかしイエスはここで自分の弟子にチャレンジをしておられるのです。このことばはピリポのみならず、弟子たち全員に対するチャレンジだったと思われます。

(2) 共通している事柄

  • 福音書のすべてが給食の記事を記している中で、共通している点は、食事をするために、人々を草の上にすわらせることでした。イエスは弟子たちを通して群衆たちを組にして、「すわるように」命じたことです。このことが共通している重要な点です。「すわらせて」から、人々の必要を満たしたのです。それは有り余る供給でした。不足がなにひとつなかったのです。このことは、神の民が神の民として生きるすべての必要を神ご自身が満たすということです。このことができる方であるということを指し示しています。これこそ、過越、すなわち血によって神ご自身のものとしてくださった過越の祭りの中心点です。

画像の説明

  • ことばは多少異なりますが、すべて、食卓のためにすわることを意味します。κατακλίνω・・「カタ κατα」下に、「クリノー κλίνω」がきて、すわらせる、横にならせる、食卓に着かせるという意味です。
  • ヨハネの6章3節を見ると「イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた」とあります。しかしここでの「すわられた」ということばは「カセーマイ」(κάθημαι)」という、普通に腰をかがめることを意味しますが、それ以外の「すわる」という動詞は、食事をするために「すわる」ことを意味することばです。身体が疲れて休む場合に腰を下ろしますが、その場合の「すわる」と食事をするために「すわる」ということばは、異なった言葉が使われているのです。当時の人々の食事をする行為は私たちのようにテーブルを囲んで椅子に座るというイメージとは異なり、座って横になって食べるのですが、聖書においての食卓は親密な交わりを意味します。
  • ちなみに、ギリシャ語の「アナピプトー」は「横になる」「座る」「食卓に着く」という意味の語彙ですが、それがヘブル語に訳し変えられますと、「ヤーシャヴ」יָשַׁבという動詞が使われます。「ヤーシャヴ」とは「座る」「とどまる」「住む」という意味です。ヘブル語に戻してみると意味合いが変わってきます。へブル語の「ヤーシャヴ」は神との親しいかかわりから来る豊かさを秘めたことばなのです。ダビデが詩篇23篇での結論的なことばとして、「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう(יָשַׁב)と誓っていますが、これこそ、ダビデの霊性を支えているものです。このように、ヘブル語の「ヤーシャヴ」は、「座る、とどまる、住む」という神と人との親密なかかわりを表わす重要な動詞なのです。
  • この五千人の給食に似ているのですが、マタイとマルコは、「四千人の給食の奇蹟」も記しています。奇蹟の記された目的は同じです。五千人も四千人の奇蹟も「私たちのすべての必要を満たすことのできる方である」という同じメッセージですが、神の動機が異なっています。四千人の奇蹟では、神が自分のところにやってくる群衆を見て、「かわいそうに思った」とあります。マタイもマルコもそのように記しています。そして特に、マタイには「羊飼いのいない羊のように」とあるのです。
  • 羊飼いと羊のたとえは、神と民とのかかわりを表す比喩です。
    「民をすわらせて、必要な糧を与えるイメージとして、詩篇23篇が思い起こされます。「主は、わたしの羊飼い。わたしは乏しいことがない。不足がないーヘブル語では「ロー・エフサール」です。「乏しきこと非ず」です。なぜ乏しくないのでしょう。それは、「主はわたしを緑の牧場に臥させ」とあるからです。五千人の給食の時にも、民たちには緑の草の上にすわるようにとイエスが命じているのです。それは主が詩篇23篇を実現させる羊飼いだからです。
  • 余談ですが、これからのキリスト教会はイエスをヘブル的に「イェシュア」と呼ぶようになるかもしれないと思います。名前の呼び方は重要です。特に、私たちは聖書をヘブル的、ユダヤ的視点から読み直そうとしているならば、イエスをイェシュアと呼ぶことで、ヘブル的視点が常に想起されるからです。へブル的視点から聖書を読もうと言いながら、イエスと呼ぶことは、イエスが仮庵の祭り頃に誕生されたと主張しながら、12月のクリスマスをお祝いしているようなものです。

最後に

  • さて、今朝のメッセージの重要な点は、自分たちのわずかなもの(五つのバンと二匹の魚)を神にささげて、神の栄光を現わそうということではなく、ヨハネの福音書6章で記されている「第四のしるし」は、神こそ、私たちを荒野においてさえも、すべての必要を満たすことのできる方ということです。そのようなかかわりを神は「荒野」で養おうとされる方だということです。ユダヤ人の使徒パウロは次のようなことばで表現しています。

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

  • これは驚くべき信仰告白の言葉です。しかもパウロ自らが経験したことなのです。私たちもそのような告白をしたいものです。

2012.10.21


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