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新しいエルサレム神殿 (7) 聖所から流れ出る川

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44. 新しいエルサレム神殿 (7) 聖所から流れ出る生ける水の川

【聖書箇所】 47章1節~12節

ベレーシート

  • 使徒ペテロは、第二の手紙1章20節で「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない。」と記しています。ところが、なんと私たちは聖書に知るされている預言を霊的解釈として施していることが多いことかを思わせられます(私自身も含めて)。エゼキエル書47章もその箇所のひとつではないかと思います。特に、聖霊派と呼ばれるグループは、この章にある聖所から流れ出るいのちの水の川を、将来、必ず起こる預言とは理解せずに、聖霊の祝福としての霊的解釈を施しています。しかしこの箇所は、キリストの再臨後、第四神殿が建てられ、その神殿の敷居から流れ出る川が東側にある死海(アラバ海)に注がれて、死海がよみがえることを預言しています。

1. 死海がよみがえる

死海.JPG
  • 信じられないような話ですが、黙示録16章18節にあるように、その時には、すでに大地震が起こった後です。「この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。」とあるように、地形も現在のものとはかなり異なったものとなっていることが考えられます。エルサレムもイスラエルでは最も高い山となっています。エルサレムは千年王国においては地上の最も中心的な場所となり、そこから生けるいのちの水の川が流れ出して死海がよみがえるのです。
  • 預言書には、荒野であるはずの荒れた地に川が流れ出ることがくりかえし預言されています。これは千年王国の時代に文字通りに実現する預言です。特にイザヤはこの種の預言が多くあります。バビロン捕囚からの解放された時代には実現していませんが、イザヤ書には「荒地に川を設ける」という預言があります。たとえば、以下の箇所などがそうです。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書
    35:1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
    35:6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
    35:7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。

    ●以下、1節と6節にあることばの原語です。
    (1)「荒野」・・・・「ミドゥバール」(מִדְבָּר)
    (2)「砂漠」・・・・「ツィッヤー」(צִיָּה)
    (3)「荒地」・・・・「アラーヴァー」(עֲרָבָה)
    (4)「焼けた地」・・「シャーラーヴ」(שָׁרָב)
    (5)「潤いのない地」(乾いた地)「ツィンマーオーン」(צִמָּאוֹן)

    ●終わりの日には、神殿の敷居の下から流れるいのちの川の水が、「荒野」「砂漠」「荒地」「焼けた地」「潤いのない(乾いた)地」に流れ、沢となり、花を咲かせるようになります。


    43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける
    43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

    ●19, 20節にある「荒野」は「ミドゥバール」(מִדְבָּר)、「荒地」は「イェシーモーン」(יְשִׁימוֹן)。


    44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。

    ●3節にある「潤いのない地」とは「ツァーマー」(צָמָא)、「渇いた地」とは「ヤッバーシャー」(יַבָּשָׁה)。


    【新改訳改訂第3版】イザヤ書49章18~19節
    18 目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きている。──【主】の御告げ──あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身につけ、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。
    19 必ず、あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、いまに、人が住むには狭すぎるようになり、あなたを滅ぼした者たちは遠くへ離れ去る。

    ●18節の「彼ら」とは真のイスラエルの民のことです(=「残りの者」レムナント)。彼らは世界の隅々から集まって来るとき、廃墟と化した土地が再び以前のように繁栄を回復されるのです。

    ●19節の「廃墟」「荒れ跡」「滅びた地」と訳された原語か以下のとおり。
    (1)「廃墟」は「ホルバー」(חָרְבָּה)で、ギリシア語の「エレーモス」(ἔρημος)。
    (2)「荒れ跡」は「シムマー」(שִׁמְמָה)。
    (3)「滅びた地」は「ハリースート」(הֲרִיסוּת)。

    ●なにゆえにイエスが、朝早くまだ暗いうちに起きて、「寂しい所」(=「ホルヴァー」חָרְבָּה)へ出て行き、そこで祈っておられた(マルコ1:35)のか、その秘密がここにあります。それはイエスこそ神のヴィジョン(ご計画)を知る者であったからです。まさにイエスはイザヤ49章18~19節の預言が成就するために、祈っておられたのです。イエスのすべての行動は御国の完成と密接な関係があるのです。

現在の死海.JPG
  • これらの預言を「実際にそのようになされる神であるならば、ましてや・・」という理解で用いられるならばいざ知らず、単なる比喩として用いるならば、私的解釈に陥ることになります。御国の到来は、まさに渇き切った荒野、荒地、砂漠、潤いのない渇いた地が文字通り、エデンの園が水で潤っていた地へと回復する、驚くべき神のみわざがなされるのです。それは霊的な目によってしか見ることのできない光景です。
  • 神殿の敷居の下から流れ出るいのちの水が死海に注がれると、そのところの水は良くなり、すべてのものが生きるのです。それまでは雑魚一匹なかった死海には種類も数も非常に多くなるとあります。「漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる」のです(上記の地図の印を参照)。
  • 右図は現在(2013年)の死海の衛星写真です。すでに死海が二つに分かれています。「しかし、その沢と沼とは水か良くならないで、塩のままで残る。」(エゼ47:11)というみことばを予想させます。

画像の説明

2.  神のご計画の全体像を知ることの大切さ

  • エゼキエル書47章の聖所から流れ出るいのちの水の川が、千年王国に起こる神の祝福だとするならば、それが神のご計画であるならば、この箇所を「教会のリバイバルの約束のみことば」として握ることはできません。なぜなら、この預言のことばが実現する時は、すでに「異邦人の完成のなる時」は終わっているからです。
  • 使徒パウロが第三次伝道旅行でエペソに戻ってきたとき、すでにクリスチャンはおりましたが、主イエスの御名によるバプテスマは受けておらず、聖霊の与えられることについては、一度も聞いたことがありませんでした。そうだとしても、エペソの弟子たちがクリスチャンでないとは言えません。ただ、正しく教えられていないだけの事です。そうしたことが今日のキリスト教会にもい言えることなのです。
  • 使徒パウロはエペソの教会を三年間、手塩にかけて育てましたが、彼が最も力を注いだことが彼の訣別説教の中に以下のように記されています。
    「私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人が受けるさばきについて責任がありません。(なぜなら)、私は、神のご計画の全体を、余すところなく(尻込みすることなく)あなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:27)
  • 私たちが聞いてきた「福音」「神の国」(天の御国)「救い」といった事柄の理解の型紙を、もう一度、聖書によって神のご計画全体の視点から再検証しなければならない時代になってきているのです。これはパラダイム(ものの見方、視点)をシフトする(転換する)ことにつながるので、信仰の危機にもつながりかねませんが、とても重要なことなのです。真理に対して、常に、オープン・マインドな姿勢が求められるのです。


2013.7.26


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