****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

救いの論証(4) あなたがたは相続人です


11. 救いの論証(4) 「あなたがたは相続人です」

【聖書箇所】3章26節~4章7節

ベレーシート

※3章26節~4章7節の総論

●パウロは「私は神に生きるために、律法によって律法に死にました」(2:19)と述べています。「律法によって律法に死んだ」の前半の「律法」は、モーセ五書全体とも、神のみおしえ全体としての「トーラー」に立ち、律法は契約に基づくという考え方に立っています。一方、後者の「律法」は、ユダヤ教の律法観です。ユダヤ教においては契約も約束も相続もすべて律法に基づくと考えられています。つまり、「律法を守るなら、約束のもの(相続)を得る」という考え方で、パウロがキリストに導かれる前にもっていた律法主義と言われるものです。パウロはこの律法主義を弾劾しているのです。パウロはいずれも「律法」(「ノモス」νόμος)ということばを使っているために混同してしまいますが、律法の両義性は文脈によってしか見分けられません。あくまでも神の恵みの契約に基づいて律法があるという考え方、これこそ正しいのだということをパウロは論証しようとしているのです。

●ガラテヤ書3章26節から4章7節までの部分は二つに分かれます。一つは3章26~29節、もう一つは4章1~7節です。いずれの部分も、結論は「あなたがたが(は)・・相続人なのです」(3:29と4:7)に導かれるのですが、使徒パウロは観点を新たにし、ヘブル語の同義的パラレリズムを用いて一つの論証を二つに言い換えているのです。

■ 3章26節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章26節
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

●訳されていませんが、原文には理由を示す接続詞「ガル」(γὰρ)があります。25節の「私たちはもはや養育係の下にはいません」。「というのは、あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもだからです」となります。「パンテス」(πάντες)、すべてを意味する「パース」(πᾶς)の複数形、「誰一人として例外なく」です。これは神の約束に基づいているのです。神の子どもとされるとは、神である御父の相続財産にあずかるということが示唆されているのです。

■ 3章27節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章27節
キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

●26節と同様、理由を示す「ガル」(γὰρ)があります。また「すべて」を意味する「パンテス」(πάντες)が、27節では「だれでも」を意味する「ホソイ」(ὅσοι)ということば(新改訳2017は「みな」)、26節と27節は同義的パラレリズムとなっているということです。つまり、「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもだからです」と「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはだれでも、キリストを着たからです」とは全く同義だということです。つまり、「あなたがたが神の子どもである」(現在)のは、「キリストにつくバプテスマを受けたことで、あなたがたがキリストを着た」(アオリスト)からなのです。

●「着る」は神の恩寵的行為で贖罪的な語彙です。「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」(【新改訳2017】創世記 3:21)とあります。「着る」という動詞「ラーヴァシュ」(לָבַשׁ)には使役形(ヒフィル形)が使われており、「着せる、まとわせる、覆い隠す」という意味になります。この神の行為は、堕落した人間を再び建て直すことを意味しています。特に注目すべきは、皮の衣を作るためには動物を屠って血を流す必要があります。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」と聖書にありますが、いのちの代価である血によって罪が覆われるということが「罪の赦し」なのです。神がアダムとエバに与えた衣は、血を流すことによって作られた「皮の衣」でした。これは、やがてキリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者に与えられるキリストの義の予型です。エデンの園でもそうであったように、それは神の一方的なあわれみによるものです。エデンの園で「皮の衣を着せる」という神の恩寵的行為は、新約では「キリストを着る」「新しい人を着る」という表現で表わされています。

【新改訳2017】ルカの福音書15章22節
ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい(アオリスト命令形)。手に指輪をはめ、足には履き物をはかせなさい。 」 (※アオリスト命令形とは一回的な行為を示しています)

●このたとえ話で、父のもとに帰って来た放蕩息子に「一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい」とは、「手に指輪をはめ(アオ命令)」、「足に履き物を(はかせる)」だけでなく、口には肥えた子牛を屠って食べさせたことも記されています。このことは、すべて彼が父の子どもとしての資格(身分)が回復されたことを意味しています。

■ 3章28節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章28節
ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

●この節は二つの文節からなっています。一つは「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません」と、もう一つは「あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」という文節です。この二つの文節も実は同じことを言い換えていますが、厳密に言うと、後節は前節の理由を示す (「ガル」γὰρ)となっています。これは25節と26節が同じ修辞構造(同義的パラレリズム)をもっているのと同じです。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません」は、それぞれが対極的な語彙を用いて全体を表現する「メリズモ」と呼ばれるヘブル的修辞法で、「あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つである」ことを強調しているのです。これこそが教会という神の作り出した共同体なのです。

●「一つ」はギリシア語では「へイス」(εἷς)ですが、ヘブル語では「エハード」(אֶחָד)で、キリストにある神のご計画の最終目的を示す語彙です。エペソ書1章7節では「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。」とあります。ここには神の最終目的が「キリストにあって、一つに集められること」だと述べています。 この目的にそってこの手紙(エペソ書)が書かれているのです。

■ 3章29節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章29節
あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

●原文では「もし~なら」を示す「エイ」(εἰ)があります。そして「それなら」を示す「アラ」(ἄρα)があります。これは仮定をもとに結果を導く論法です。「もし~だとすれば」とも訳せます。パウロの論証は、「もしあなたがたがキリストのものだとすれば、あなたがたはアブラハムの子孫(単数)であり、約束による相続人たち(複数)なのです」(原文)という結論に行きつくことなのです。「あなたがたがキリストのもの」と訳された「ヒューメイス・クリストゥー」(ὑμεῖς Χριστοῦ)は、意識の事柄というよりも存在の事柄を意味する表現です。つまり、人が意識してキリストを信じているということではなく、人の存在がすでにキリストに属しているということです。だとすれば、当然、その存在は「アブラハムの子孫」であり、「約束による相続人」なのです。「アブラハムの子孫」と「約束による相続人(たち)」は同義です。

●パウロはローマ書にこう記しています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙9章7~8節
7 アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。
8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。


■ 4章1節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章1節
つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、

●「つまり、こういうことです」との訳文は、「デ」(δέ)を「置換の接続詞」としています。つまり先行の文脈の内容(ここでは「相続人」というテーマ)を保ちながら、表現の仕方を変えることを予告する接続詞です。「言いかえると」「換言すると」とも訳せます。ここでは相続人(「クレーロノモス」κληρονόμος)が「子どもであるうちは」とあるように、未成年(あるいは幼児「ネーピオス」νήπιος)であることが想定されています。3章15節で「人間の例で説明しましょう」とありましたが、4章1~2節も同様です。相続人が成人の場合にはなんら問題もありません。しかし相続人が未成年の場合はそうではないということです。たとえ「全財産の持ち主」(「キュリオス・パントーン」κύριος πάντων)として約束されていても、その財産を自由に使用することはできません。実質的には、奴隷と何一つ変わらないのです。2節「父が定めた日までは、後見人や管理人の下に」置かれているのです。

■ 4章2節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章2節
父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。

●冒頭には前節の内容を否定的に受け継ぐ「むしろ、かえって」を表わす「アッラ」(ἀλλὰ)があります。それはやがてその否定的な内容を肯定的な内容に変わることを予告する代替の接続詞です。実際、ここでは「父が定めた日までは」とあり、4節では「しかし時が満ちて」と来ます。それまで相続人は「後見人や管理人の下にあります」。原文では「後見人」も「管理人」もいずれも複数形です。

■ 4章3節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章3節
同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。

●冒頭の「同じように」(「そのように」)と訳された副詞の「フートース」(οὕτως)とそれに続く「カイ」(καὶ)は、それまでの流れのまとめを表わす接続詞として、前節の相続人が未成年であった場合には「後見人や管理人の下に」あるということが、信仰の世界ではどういう意味を表すものかという流れとなっています。それは、信仰以前の状況を振り返って、約束によって相続人とされる者であっても、律法の監督にあった者たちは「父が定めた日まで」には達していない子どもなのです。その場合、「この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました」としています。「もろもろの霊」は「ストイケイオン」(στοιχεῖον)で、それは「初歩的な教え」(脚注)を意味しています。その下で「奴隷となっていた」、正確には「奴隷の身とされ続けていた」ということです。「いた」は未完了形で繰り返しそうであったことを意味します。「しかし、ところが」(「デ」δὲ)、予想外の展開がやって来たのです。それが次節です。

■ 4章4節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章4節
しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

●「時が満ちて」は、「約束の時が満ちた時」を意味します。原文では「時の充満が来たときに」です。「そのとき」(「ホテ」ὅτε)、神の歴史において決定的なことが起こったのです。そのことを示しているのが、「遣わされた」(「エクサポステッロー」ἐξαποστέλλω)のアオリストです。この動詞は「送り出す、派遣する」の意味です。神がだれを遣わされたのかといえば、それは「ご自分の御子」(ὁ υἱός αὐτοῦ)です。

●どのような形において遣わされたのかと言えば、一つは「女から生まれた者」として、もう一つは「律法の下にある者」としてです。The Jewish Bibleでは「律法の下にある者」を「律法の法的な倒錯が当たり前の文化に生まれた者」と訳しています。いずれも、この二つは私たちが救われるためになくてはならない重要な出来事でした。その理由が次節に記されています。

■ 4章5節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章5節
それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

●5節には、神がご自分の御子を遣わされた理由が、二つの接続詞「ヒナ」(ἵνα)によって述べられています。
第一の理由を示す「ヒナ」(ἵνα)は「律法の下にある者を贖い出すため」です。「贖い出す」は「エクサゴラゾー」(ἐξαγοράζω)で、この動詞は「買い戻す、解放する、贖う」を意味します。ヘブル語では「パーダー」(פָּדָה)で、律法主義(legalism)の支配から私たちを解放するために、神の御子が「身代わりになる」ことを意味します。そのために必要なのは御子がからだを持っていることです。からだがなければ身代わりになることはできないからです。律法の下にあって呪われた者、死に定められた者を救い出すために、御子が私たちのために身代わりとなって、買い戻してくださったのです。
第二の理由を示す「ヒナ」(ἵνα)では「私たちが子としての身分を受けるため」です。神が御子を通して買い戻してくださったのは、私たちが「子としての身分」(「ヒュイオセスィア」υἱοθεσία)を受け取るためです。「子としての身分」とは「養子縁組」を意味します。「受ける」と訳された「アポランバノー」(ἀπολαμβάνω)は本来与えられていた身分を「取り戻す、受け取る、回復する」ことを意味します。ヘブル語訳は「カーヴァル」(קָבַל)で、この語彙は、子としての身分を取り戻す目的が「神と人とが向かい合うため」という含みを持っています。

●神と私たちの関係において、律法の支配から「解放する」ことが消極的表現とするならば、私たちが身分を「取り戻す」ことは積極的表現と言えます。

■ 4章6節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章6節
そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

●前節の「私たちが子としての身分を受けた(取り戻した)」、その結果としての順接の接続詞「ホティ」(ὅτι)と「デ」(δέ)によって、「すなわち、あなたがたが子であるので」「神は・・私たちの心に遣わされました」となっています。神が何を遣わされたのかと言えば、「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を」です。この「アバ、父よ」というのが、神と子の本来の向き合い方なのです。これを神は取り戻してくださった(「カーヴァル」קָבַל)のです。

■ 4章7節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章7節
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

●冒頭の接続詞「ホーステ」(ὥστε)は結論を引き出す順接の接続詞「ですから」です。その結論とは「子であれば、神による相続人です」となります。その文節の中に「あなたはもはや奴隷ではなく、子です」という説明句「もはや・・ではなく(「ウーケティ」οὐκέτι)、むしろ(「アッラ」ἀλλὰ)・・です」が挿入されています。

●要するに、3章29節の「あなたがたは、約束に基づく相続人です」という結論を、4章7節では新たな視点から「あなたがたは、子であれば、神による相続人です」としています。いずれも、「あなたがたは相続人」であることを、前者は「律法ではなく約束に基づいて」、後者は「奴隷ではなく子に基づいて」の論証となっているのです。


脚注

●「もろもろの霊」は「ストイケイオン」(στοιχεῖον)で、それは「初歩的な教え」を意味します。それはやがて「天と地」(ユダヤ教では神殿を指します)と共に滅び去るのです。以下の箇所を参照のこと。ガラテヤ書4章9節、コロサイ書2章8節、20節、へブル書5章12節、Ⅱペテロ書3章10節、12節。ユダヤ教の「初歩的な教え」は草や花にたとえられます。「しかし、主のことばはとこしえに変わることがない」、これが福音のことばなのです。


2019.9.19


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