****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

救いの創始者

第5日「救いの創始者」 

人に栄光と誉の冠を与えるために苦しまれた救いの創始者

はじめに

  • 「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々のために遣わされたのではありませんか。」とあるように、御使いとは「仕える霊」です。神と人に「仕える」ために造られたのであって、決して礼拝を受けるべき立場にはありません。また、「仕える」という点においても、御使いが御子イエスに勝るということはないのです。イエスは言われました。「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)と。
  • 「仕える」とは、「多くの人のための、贖いの代価として(身代わりとして)、自分のいのちを与える」ことだとしています。つまり、しもべのように仕えて、究極には自分のいのちを与えるということが可能となるためには、御子は人間とならなけばなりません。その点、御使いは「仕える」ことが専門であっても、人間になることはできません。そういう意味において、御子は御使いにはるかに勝る存在なのだとへブル人への手紙の著者は語っているのです。
  • 「仕える」ということばの名詞は「しもべ」です。「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるために来た」と断言された御子イエスのことばは、自ら、最も低い「しもべ」の立場を甘受されたものと言えます。そうした御子のことを、へブル書の著者は「救いの創始者」(2章10節)と名付けました。「救いの創始者」は「救いの君」とも「救いの指導者」とも訳されます。

1. すばらしい救いをないがしろにしてはならない

  • ところで、へブル人への手紙の第2章はひとつの「警告」から始まっています。これはへブル書の特徴なのですが、この手紙のキー・ワードである「イエスを仰ぎ見る」、つまり「イエスから目を離さないでいなさい」ということをいつも印象付けるために、作者は手紙のところどころにこのキー・ワードを思い起こさせる部分を挿入しています。第2章では最初の節にそれが書かれています。見てみましょう。

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」(2:1)

  • 「聞いたこと」というのは、神は多くの預言者たちを通して語られこと、そして終わりの時代には御子によって余すところなく完全に語られたことを意味しています。御子は御父の完全な啓示者です。この御子イエスによって、神からのすばらしい救い(グッドニュース)が私たちに語られているのです。ですから、その御子イエスから聞いたことを、ますます、しっかりと、注意深く心に留める必要があるのです。
  • 「心に留める」とは、より一層の注意を払うということです。マリヤのように、「イエスのことばに聞き入り」、それを信じて生きるということです。これは働き以上に大切なのです。そうした生き方が必要な理由が二つ挙げられています。

(1) 私たちは見るものや聞くものによって、押し流されやすい存在だということ

  • 流行に流されやすい、マスコミの報道に流されやすい、人のうわさに流されやすい。私たちは自分が目にしたもの、耳にしたものによって影響を受けやすいものです。トラウマという心の障害は、私たちが目にしたもの、耳にしたものによって、心の働きが制限されてしまう障害です。私たちが、神の声を聞き、神の御顔を見ることにもっと注意を向けることができるなら、私たちが目にしたこと、耳にしたことから守られるようになっていくのです。またそこから解放されていくのです。

(2) 御子によるすばらしい救いをないがしろにすれば、処罰は免れないこと

  • 「もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。」(2:2, 3)とあります。「御使いを通して語られたことば」というのは旧約の律法のことです。旧約時代には律法に違反し、従わなかった場合には、そのペナルティとして当然の処罰を受けました。イスラエルの社会から追放されるということもありました。ましてや終わりの時代に、御子によって備えられた「すばらしい救い」、「大いなる救い」をないがしろにした場合、当然ながら、その処罰を免れることはできないということです。このことが御子イエスのことばにもっとしっかりと注意を払わなければならない理由なのです。その「すばらしい救い」が、実は、御子の「多くの苦しみ」を通して実現したというのがヘブル人への手紙第2章の焦点です。

2. 神は、後の世に、再び、御子によってすべてのものを従わせる

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙 2章5~9a節
5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
7 あなたは、彼を、御使い(詩篇の原文では「エローヒーム」=神)よりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。

  • 5節に「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。」とあります。「後の世」のギリシア語は、「やがて来ようとしている」という意味の動詞「メッロー」(μέλλω)の分詞で、将来に現わされる救いの約束です。その約束とは御子がすべてのものを従わせるというものです。ちなみに、この「後の世」はメシア王国(千年王国)を表わすことばです。そのことを説明するために、著者は詩篇8篇を引用しています。詩篇8篇での「人の子」とは、イエスのことであり、「第二の人」「最後のアダム」のことが預言されているのです。メシア王国における統治権を、神は御使いには与えず、御子に与えるのですが、そこには四つのことが預言されています。詩篇8篇5~6節を引用してみましょう。

    【新改訳改訂第3版】詩篇8篇5~6節
    5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
    6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。


(1) 「神よりいくらか劣るものとし」(ヘブル人への手紙では「しばらくの間、低くされた」)
ここは主イエスの受肉から十字架に至るまでの33年間のすべてが含まれています。

(2) 「栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(へブル人への手紙では「栄光と誉れの冠を与え」)
ここは復活と昇天、御父の右の座の着座を意味しています。

(3) 「あなたの御手の多くのわざを治めさせ」(へブル人への手紙ではこの部分を省略し(4) に含ませています。)
ここは主が地上で王として即位され、千年間、支配されることを意味しています。

(4) 「万物をその足の下に置かれました。」(へブル人への手紙では「万物をその足の下に従わせられました。」)
ここも、主が地上で王として即位され、千年間、支配されることを意味しています。千年の後には、地上の
支配権は神である父に渡されます。

  • さて、御子イエスにもっとしっかりと注意を払わなければならない理由のもうひとつの裏付けは、人としての栄光と誉れを回復するために、御子イエスが「多くの苦しみ」を通してそれを実現したということです。

3. すばらしい救いは、「多くの苦しみ」を通して実現した

  • イエスの生涯を二つに分ける「問い」があります。

二つの問い

  • 第一の問いの答えは、「あなたは神の御子キリストです。」というペテロのした信仰告白でした。これは御父の啓示によるものであることをイエスはペテロに語りました。この信仰告白こそニ千年のキリスト教会で告白され、戦ってきた告白です。この告白こそ、教会の土台であり、クリスチャンはこの信仰告白なしには立つことばできません。この告白の上に教会は建てられています。この告白なしには、どんなに立派な会堂(建物)があったとしても、真の教会とは言えま せん。この告白のあるところには、たとえ小さな群れであっても、真の教会なのです。
  • この告白の直後に、イエスは自分がエルサレムにおいて、「多くの苦しみ」を受けることを予告します。弟子たちはこのことを理解することができませんでした。つまり、「捨てられ、殺され、よみがえられねばならない」ことをです。。
  • この「ねばならい」という表現は、「捨てられねばならない、殺されねばならない、そして、よみがえられねばならない」という意味です。神のしもべとしての職務が全うされるためには、このように多くの苦しみを受けるということが定まっているということなのです。なぜでしょう。なぜ苦しまなければならないのでしょうか。答えのヒントは、実は、へブル人への手紙の2章10節にあります。
  • 神が多くの子たちを導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(2:10)

balance

  • 「ふさわしいこと」とは、それに値するほどの価値があるという意味です。バランスが取れているということです。母親が子どももために多くの時間を使います。自分の時間というものがないほどです。弱い子ども、手のかかる子どもであればあるほど、母親は自分の時間が犠牲となります。子どものために時間を与えるからです。時間だけでなく、すべての労力と心を注ぎ出します。
  • 親業とはいえ、子に対する責任とはいえ、それは親にとっては、ある意味で「苦しみ」でもあります。かかわるということは責任を伴います。いつもそうした責任が肩にかかっています。片時も頭から離れることはありません。そんな責任を担っていない人にはわからない重荷(ないしは苦しみ)なのです。
  • しかしその苦しみは、愛のゆえに担うのです。愛によって子どもは健全に育つとすれば、その苦しみはやがて大きく報われるのです。子どもと親とのうるわしい関係は、愛による苦しみ、苦しみを伴う愛をやがて互いに理解し合うところにあるのではないでしょうか。
  • 親は子どもが愛について知らなくとも、一方的に愛を注いでいきます。子どもが親のそうした愛を本当に理解するのはずっと後になってからかもしれません。このことは神と私たちの関係にも似ています。神の私たちに対する愛は一方的です。私たちが、神にとって有益で、役立つ者であればその愛も報われるでしょうが、たとえ、無益で、無用な者であったとしても、愛を注いでくださるのが神の愛です。その神の愛は、多くの苦しみを受けるという形で表わされました。その究極が十字架における身代わりの死です。「多くの苦しみ」を受け、「捨てられ」「殺され」たのです。
  • 御子の使命は、この世において、仕える者として、愛のゆえに、私たちのために苦しんでくださったことにあります。

    画像の説明

4. 愛は、苦しみを伴う

  • 「愛と苦しみ」、これには深い関係があります。「神への信頼と多くの苦しみ」ーこれには深い、深い関係があるのです。苦しみなしに神への従順を学ぶことはできないのです。イエスも苦しみの中で神を信頼することを試されました。愛の世界に苦しみは不可欠なのです。苦しみを逃れての愛の世界はあり得ないのです。
  • バビロン捕囚の体験をした者がこう告白しています。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」と
  • ここでの「学ぶ」ということばは、神の愛の心を知ったという意味です。子どもが大きくなって様々な苦しみに出会って、親の愛の苦しみを知ったという意味でもあります。「多くの苦しみ」を通して、神と人が、親と子がより深い愛のかかわりの世界、いのちの世界を築いていけるようになるのではないでしょうか。
  • 「すばらしい救い」が今や御子イエスによってもたらされています。私たちを神の栄光に導くためにです。神にとって私たちは愛されるにふさわしいそれほどの価値があるからです。しかしそのためは、神が自ら「多くの苦しみ」を通して獲得されたものであることを心に留める者となりましょう。そして、一人一人が神の愛の中に招かれ、私たちも神の愛をもって生きる者とさせていただきたいと思います。


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