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捕囚の民に書き送ったエレミヤの勧告の手紙

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32. 捕囚の民に書き送ったエレミヤの勧告の手紙

【聖書箇所】 29章1節~32節

ベレーシート

  • 29~33章はエレミヤ書の心臓部です。じっくり、注意深く学び、悟り、瞑想したいところです。今回は最初の29章です。この章には二つの内容から成っています。一つはエレミヤが捕囚の民に向けて書いた手紙の内容です(4~23節)。もう一つはエレミヤの手紙を読んだシェマヤ(捕囚の民の指導者)がエルサレムの祭司ゼパニヤに送った手紙の内容が記されています(24~28節)。
  • なぜ、エレミヤが手紙をバビロンにいる捕囚の民に届ける必要があったのかということです。そうしなければならないに不穏な事態がバビロンで起こっていたからです。その不穏な事態とは、エルサレムの人々に偽りの希望と安心を与えようとする預言者ハナヌヤがバビロン捕囚からの解放が早期(二年)になされると預言したように、バビロンにおいても同様のメッセージを語る偽預言者が起こって早期の解放の預言をしたのです。そうした偽預言者を代表するゼデキヤとアハブはバビロンの王によって焚殺(ふんさつ)されたようです(29:22)。
  • 捕囚者の動向に不穏な気配を察知したネブカデネザルは、こうした事態に対応するためにエルサレム高官を召喚したことによって、ゼデキヤ王が二人の高官(シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤ)をハビロンに遣わすことになります。この機に乗じて、エレミヤは彼らに以下の内容の手紙を託したのです。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書 29章4~7節、10~14節

4 イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。
「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
5 家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。
6 妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。
7 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために【主】に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」

10 まことに、【主】はこう仰せられる。
「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
14 わたしはあなたがたに見つけられる。──【主】の御告げ──わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。──【主】の御告げ──わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」


1.  バビロン捕囚は神のご計画であること

  • 11節に「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。この部分だけを抜き取って励ましのことばとしてはなりません。「将来と希望を与える計画」とは安易な計画ではないからです。それは七十年という長きにわたって、つまり二代、三代という期間の、しかも真摯な神のみおしえ(トーラー)に対する取り組みが前提となっているからです。ユダの民がバビロンに捕えられていた期間は実際には最も長い者(人質と連れて行かれた者)では(解放の年539年から遡って)66年間、第一次捕囚で連れて行かれた者では58年、第二次捕囚で連れて行かれた者は48年でした。「70年」とは神の完全数と言えますが、神の計画的時点からすればヨシヤ王が死んだ年から数えるとちょうど七十年なのです。なぜなら、そこからバビロンの支配は始まっていると考えられるからです。ただし、この手紙が書き送られた対象は第一次捕囚で連れて行かれた者たちでした。
  • バビロンでのユダの民に対する計画は自分の代だけでは終わらない、世代を越えた取り組みなのです。口を開けて待っているような者に約束されている将来ではありません。あるいは、自己実現に対する神のサポートでもありません。神のみおしえ(トーラー)に対する真剣な取り組みなのです。このことを正しく悟らなければなりません。
  • エレミヤが捕囚の民に書き送った手紙には、その取り組みとして二つの勧告があります。

(1) バビロンの繁栄のために祈り、そこで、腰を据えて生活すること

  • 5節がそのことを記していますが、この第一の勧告が必ずしも捕囚の人々に受け入れられたわけではありません。決して前途は絶望的ではないとしても、「そんな長い期間?」と驚く者たちもいたに違いありません。しかし七十年の辛抱が必要なのです。そのことを信じて辛抱強く、期待して待つことが求められました。10節には「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」とあります。「幸いな約束」は原文では「良い(トーヴ)ことば(ダーヴァール)」です。それは「わざわい」ではなく「将来と希望を与える」ものだと主は言われました。
  • 試験の日は恵みの日でもあるのです。危機は転機でもあるのです。失敗は新しい段階へのスタートなのです。それゆえ彼らはそのことを受け入れて、さらにバビロンの繁栄(シャローム)のために祈り、そこで日常的な生活を勤勉に続けることが求められました。
  • 5節に記されている日常的な行為はすべて神の視点から見るなら、重要な霊的啓示が隠されています。積極的な動詞に注目しよう!!

    5 家を建て(בָּנָה)て住み(יָשַׁב)つき、畑を作っ(נָטַע)て、その実を食べ(אָכַל)よ。6 妻をめとっ(לָקַח)て、息子、娘を生み(יַָלַד)、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ(רָבַה)。減ってはならない。7 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め(דָּרַשׁ)、そのために【主】に祈れ(פָּלַל)。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になる(הָיָה)のだから。


(2) 心を尽くして、主を尋ね求めること

  • 第二の勧告は以下のように記されています。
    12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。14 わたしはあなたがたに見つけられる。
  • もし、あなたがが、「~するなら」、「~なる」とい定式で語られています。

①12節「呼び求め(קָרָא)て歩き(הָלַךְ)、祈る(פָּלַל)なら」-「わたしはあなたがたに聞こう」
②13節「心を尽くして、・・捜し求める(בָּקַשׁ)なら」-「わたしは見つけられる」

画像の説明
  • 13節には二つの渇望用語が使われていますが、新改訳はその二つをまとめて一つにしています。口語訳、新共同訳ではその二つをそのまま訳しています。その二つの渇望用語とは「バーカシュ」と「ダーラシュ」です。いずれも英語ではseekと訳しています。「バーカシュ」בָּקַשׁが「求める、慕い求める」といった感情的・心情的な意味合いが強いのに対して、「ダーラシュ」דָרַשׁの方は「捜し求める、捜す、探り出す、探る、慕う、調べる、問う、問い尋ねる、尋ね求める」といった理性的意味合いが強いように思えます。
  • この二つの動詞が13節で使われていることが重要です。しかもそれを「心を尽くして」「一心に」することが条件です。この渇望なしには、彼らの将来と希望はないからです。特に、この渇望用語は詩篇において、神とのかかわりを建て上げるうえで重要な動詞です。心を尽くして、神と神のみおしえとを慕い求めること、尋ね求めることを、捕囚の民は二代、三代かけて真剣に取り組むことで将来と希望が約束されたのです。彼らは実際にそのことに取り組み、神のみおしえを「昼も夜も口ずさむ」ことで、次第に「トーラー・ライフスタイル」を築いていったのです。それが神の捕囚の計画の目的でした。そして、神が良しとした段階に達したときにユダの民はエルサレムに帰還することができたのです。

2. 「将来と希望」について

  • 10節の「七十年の満ちるころ」というその期間、捕囚とされた民が何に取り組むべきかが、主の言われる「将来と希望」につながります。エレミヤ31章17節にも「あなたの将来には希望がある」(新改訳)とあります。
  • 「将来」と訳されたヘブル語は名詞の「アハリート」(אַחֲרִית)です。「終わり、後に、~の末、最期」と訳されます。エレミヤ書では10回使われていますが、、「将来」と訳されるのは「希望」という言葉と一体となっている場合のみです(2回ー29:11/31:17)。もう一方の「希望」と訳されたヘブル語は「ティクヴァー」(תִּקְוָה)です。「希望、期待、縄、きずな」を意味します。英語のThe Hopeのヘブル語は「ハ・ティクヴァー」、現代のイスラエルの国歌の題名です。イスラエルにおいて、希望や喜びはいつもマイナーで表現されます。人類の救いのために、神によって選ばれたユダヤ人にのみ与えられた苦しみと痛みの歴史がその背景にあったことを物語っています。
  • 箴言では「知恵を見出すなら、将来(אַחֲרִית)があり、希望(תִּקְוָה)は断たれることはない」とあります(24:14)。「知恵」とは「神を恐れること」を意味します。神のことばを聞き、神のみこころを正しく悟って、それに従う者にこそ、将来と希望が約束されているのです。そして神の「知恵」は、キリストにあるのです(Ⅰコリント1:30)。

2013.3.12


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