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恩寵用語Ps33

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詩33篇「目を注ぐ」נָבַטナーバト、רָאָהラーアー、שָׁגָהシャーガー、בִּיןビーン

〔カテゴリー愛顧〕

13節「主は天から目を注ぎ(נָבַט)、人の子らを残らずご覧になる(רָאָה)。
14節「御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる(שָׁגָה)。
15節「主は、彼らの心をそれぞれみ造り、彼らのわざのすべてを読み取る(בִּין)方。」

Keyword; 「主のまなざしー目を注ぐ、見る、眺めるー」

  • この詩33篇の後半には、「主のまなざし」に関する動詞の類義語が使われています。18節にも「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。」とあります。しかし、原文では「注がれる」という動詞はなく、主の目は「・・の上に(~に対して、~に向かって」という前置詞「エル」(אֶל)があるだけです。「注がれる」と訳しているのは新改訳と新共同訳のみで、他の訳では原文どおり「・・の上に(ある)」(口、文、典、バ、フ)、もしくは、「・・に向けられる」(岩、関)と訳しています。18節は明らかに主の目は「主を恐れる者、主の恵みを待ち望む者」にフォーカスされているにもかかわらず、それを表わす動詞がないのは、おそらく、13節と14節に主のまなざしを表わす四つの動詞が使われているからかもしれません。いずれにしても、さまざまな類義語を用いながら、主の目がどこに(誰に)向けられているかが示され、その中でも主のまなざしの焦点が、特に18節の「主を恐れる者、主の恵みを待ち望む者」に向けられていることが強調されているように思います。
  • この詩33篇は詩32篇とつながっています。というのは詩32篇の最後の節(11節)と詩33篇の最初の節が似たような表現(同じ思想)を有しているからです。
    「正しい者たち、主にあって喜び楽しめ。すべての心の直ぐな者たちよ。喜びの声を上げよ。」
    「正しい者たち。主にあって喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」
  • ここでは「正しい者」と「心の直ぐな人」とは同義であることが分かります。さらには、「正しい者」「心の直ぐな人」「主を恐れる者」「主の恵みを待ち望む者」が同義であることが分かります。このように、詩篇の特徴である同義的並行法(パラレリズム)の重要性は類義語を通して、ひいては聖書を聖書によって理解するというへブル人特有の知恵のようです。
  • 主のまなざしを表わす類義語
    (1)「ナーバト」(נָבַט)
    「目を注ぐ」(改、典)「眺める」(岩)「見おろす」(関、フ、バ)「伺う」(文)「見渡す」(共)と訳され全体を鳥瞰するまなざしと言えます。旧約69回、詩17回。
    (2)「ラーアー」(רָאָה)
    「ご覧になる」(改、典、共)「見る」(岩、関、フ、文)「眺める」(バ)と訳され、意味するところはナーバトとほとんど変わりません。
    (3)「シャーガー」(שָׁגָה)
    「目を注ぐ」(改、典、岩)「目を留める」(共)「かえりみる」(関)と訳され、旧約では3回、詩篇ではここのみに使われている動詞で鳥瞰的なまなざしです。
    (4)「ビーン」(בִּין)
    本来、「識別・認識・理解・注意する」という動詞ですが、すべての行為の背後にある心の思いを「見分ける、見抜く、調べる」という洞察のまなざしです。

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