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詩112篇「輝かす」זָרַח ザーラハ
〔カテゴリー賦与〕
4節「主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情 け深く、あわれみ深く、正しくあられる。」(新改訳)
4節「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。憐れみに富み、情け深く、正しい光が。」(新共同訳)
Keyword;「輝かす、光が昇る」 rise、dawn, 104:22/112:4
- この4節は少々難解な文のようです。様々な聖書の訳を見るとそれを知ることができます。
(1) 新改訳(上記参照)では、 主語を「主」として、その働きと性格を説明するように訳しています。
(2) 新共同訳(上記参照)では、主語を「まっすぐな人」とし、その人の内に昇る光とその光がどのような性質かが説明されるように訳されています。岩波訳も同様です。
(3) 口語訳では「光は正しい者のために、暗黒の中でもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる。」とあり、主語が「光」と「主」として分け、一見、別々のことであるかのように訳しています。
(4) フランシスコ会訳では「かれは闇の中で、直き者を照らす光としてあらわれ、あわれみ深く、親切で正しい。」とあり、主語は「かれ」としていますが、その「かれ」とは誰かを明確に指定していません。「直き者を照らす光として・・」とありますから、おそらく「主」を暗示しているようにみえます。
(5) 典礼訳では「光はやみの中に輝き、神に従う人、心正しく、あわれみ深い人を照らす。」とあり、主語を「光」としています。
このように主語がまちまちです。原文はどうなっているのでしょうか。ヘブル語の文は右から左方向ですが、ここでは右から並んている原文のことばの順に並べてみると・・・
זָרַח(ザーラハ), בַּחֹשֶׁךְ(バホーシェフ), אוֹר(オール), לַיְשָׁרִים(ライシャリーム);
(輝き昇る)・・・・・(暗黒の中で)・・・・・・(光が)・・・・・・・(正しい者たちに)
חַנּוּן(ハヌーン) וְרַחוּם(ヴェラフーム) וְצַדִּיק(ヴェツァディーク)
(恵み深い)・・ (そして憐れみ深い)・・・(そして義しい)
- 後半の部分には、三つの形容詞が並んでいます。直訳では主語は「光」に見えます。問題は後半の三つの形容詞がどこにかかるのかということです。それによって全体の訳が変わってきます。私は典礼訳のように、三つの形容詞は「光」にかかるのが自然のような気がします。
- そこで、この光が「輝く」「輝き昇る」と訳されたザーラハ(זָרַח)は、旧約で18回、詩篇ではわずか2回のみです。第一義的には、太陽が昇ることを意味します。そこから「照らす、輝く」という意味が派生しています。
- マラキ書4章2節に「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り(זָרַח)、その翼には、癒しがある。」とあります。ここでいう「義の太陽」とはやがて来られるメシアを預言しています。ルカ1:78, 79ザカリヤの賛歌にはこうあります。「・・あわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらを平和の道に導く。」と。
- イザヤ書58章10節の「光」は神の民イスラエルを、60章1節はシオンを指しています。そして次のように呼びかけています。
「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り(זָרַח)、あなたの暗やみは、真昼のようになる。」(58:10)
「起きよ。光を放て(זָרַח)。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いている(זָרַח)からだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国を覆っている。しかし、あなたの上には主が輝き(זָרַח)、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちを歩み、
王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(60:1~3)
- 詩112篇には、闇に輝く者たちの光の歩みがいかなるものであるかを記しています。リビング・バイブルでそこを引用してみたいと思います。
「神様を信じて従う人は、口で言い表せないほどの祝福を受けます。・・・たとい、暗やみの力に巻き込まれたとしても、すぐに光にこうこうと照らされるでしょう。彼はあわれみ深く、親切です。・・このような人は、事態が思わしくなくなったからといって、動じたりしません。周囲の人々は、神様が彼をいつも引き立てておられる様子を見て、深い感銘を受けるのです。彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、びくつきもしません。神様から見放されるわけがないと知っているからでする。ですから、何事も恐れないで、冷静に敵の顔を見つめることができるのです。彼は物惜しみしたりせず、貧しい人に気前よく与えます。その善行は、いつまでも忘れられず、人々の尊敬を集めます。これを見たひねくれた者は、怒りに震えます。歯ぎしりしながら、逃げるしかありません。望みが消え去ったからです。」(詩112篇1, 4~10節)。
- まさにこれはイエスの十字架と復活を預言しています。イエスが「引き渡され」て十字架に向かうその姿の中に、すでに「復活の光」が前倒しされているように思います。「復活の光」とは、神に対するゆるぎない信頼であり、そこから生まれるかかわりのいのちのすべてを意味します。
- その光の源泉は神にあります。私たちが神を恐れる者であるならば、闇を輝かすことのできる光を持つことができます。使徒ヨハネは、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。・・神が光の中におられるように、私たちも光の中をあゆんでいるなら、私たちは互いに交わりを保つ」と述べています(1ヨハネ1:5, 7)。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は主にあつて、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8) なぜなら、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は、上から来るのであって、光を造られた父から来る。」(ヤコブ1:17)からです。御子イエスを通して、父から闇を照らす光を賜わり、それを放つ者とさせていただきたいと切に思う。