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恩寵用語Ps1

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詩1篇 「植える」 שָׁתַל シャータル

3節「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。」(新改訳)

3節「・・・・・流れのほとりに移し植えられた樹のように」(関根訳)

Keyword 「植える、移植する」 
planted, plant, is transplanted 1:3/92:13 

  • 詩篇における最初の恩寵用語―神が人に対してなされる恵み深い行為を表わす動詞―として取り上げたいのは、「植える」という動詞です。ここでは、幸いな人が「水路のそばに植わった木」にたとえられています。
  • 「植わった木」とは、本来のそこにあった自然木ではなく、異なった場所に植わっていた木を水路のそばに(水の流れのほとりに)移して、植え直された木のことです。大切なのは、木ではなく、その木を水路のそばに移植した主体の存在です。水の流れのほとりに移し換えられることで、どんなに灼熱の太陽の下でも、決して枯れることがなく、むしろ、根を深く下ろして頑強な木として成長し、多くの豊かな実を結ぶようになります。この「移し変えの恵み」が、詩篇1篇にはっきりと描かれています。
  • 「植わった」と訳された「シャータル」(שָׁתַל)は救出用語です。旧約では10回、詩篇では2回使われています。92篇13節では植えられた場所が水路のそばではなく、主の家、神の大庭とあります。またこの動詞は、エレミヤ書(17:8)やエゼキエル書(17:8, 10, 22, 23, 19:10,13)にも見られます。エゼキエル書では、木が「ぶどうの木」「杉の木」とされていますが、いずれも神ご自身がそれを植える(移植する)ことが強調されています。
  • 詩篇1篇の木は、常緑樹の「なつめやし」(棕梠)だという説があります。その木は1本につき6~7房の実をつけますが、その一房にはおよそ千個の果実があるそうです。乾燥させるとその実はとても甘く、栄養価も高いようです。そして、その木が十分な結実を見るまでには実に40年の歳月を要し、しかも、150年もの間にわたって結実を続けるのだそうです。エレミヤが「主に信頼し、主を頼みとする者・・は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、・・いつまでも実をみのらせる」(17:7~8)と言ったように、主に祝福された者をなつめやしにたとえることは、実に、妙を得ているのです。
  • 私たちはすでにキリストといういのちの水の源泉にふれています。このキリストのうちに神の知恵と知識との宝がすべて隠されています。ですから、キリストのことばを私たちのうちに豊かに住まわせ、キリストの中に根差し、主にある者と共に建てられていく者とされているのです。
  • ちなみに、パウロが「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)と述べていますが、ここでの「移してくださった」をヘブル語にすると「渡る」を意味する「アーヴァル」(עָבַר)の使役形(ヒフィル)になります。それは、ある領域からある領域へと渡ってくることを意味します。アブラハムは「ヘブル人」と呼ばれましたが、それは彼が川を渡って来た者であったからです。それはこの世の支配から神の支配へと渡って来た者を意味します。「ヘブル人」のことを「イヴリー」(עָבְרִי)と言いますが、私たちもある意味において、キリストにあって、人間中心の世界から神中心への世界へ渡って来た「霊的なヘブル人」なのです。


詩篇における「木」については、こちらを参照⇒詩篇128篇「その他」

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