****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

思考の戦い(2)


11. 思考の戦い (2)

【聖書箇所】Ⅱコリント書11章1節~33節

べレーシート

●11章は「戦いの戦場(心)」について取り上げられています。いずれも、パウロは「思考の重要性」について語っているのです。なぜなら、私たちの行動は、私たちが心の中で考えたことの直接的な現われだからです。もし人が否定的な考え方をするならば、否定的な歩みをすることになります。しかし逆に、神のみことばによって肯定的に(常識ではなく、信仰によって)考えるならば、心が一新されて神のみこころを行うことができるのです。つまり、思考によってすべての行動が生まれるということです。それゆえに、私たちの肉の心の中にあるものと神の心の中にあるものを明確に区別するためには、神のみことばを深く知らなければならないのです。今回のテキストにも、「あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないか」(11:3)というパウロの心配が記されています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書11章1~3節
1 私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。いや、あなたがたは我慢しています。
2 私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。
3 蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。


1. 父親のようなパウロの愛 

●1節にある「私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。いや、あなたがたは我慢しています」とはどういう意味でしょうか。パウロの言う「愚かさ」とは、「自分を誇ることの愚かさ」です。10章の最後の節では、「自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です」とあり、パウロは他人からの称賛などは何の価値もないこと、また自分が自分を称賛することも何の価値がないことを述べていますから、ここで「少しばかりの愚かさを我慢してほしい」と断ったうえで述べています。「我慢する」と訳されたギリシア語は「アネコマイ」(ἀνέχομαι)で、11章だけで5回も使っています(1, 1, 4, 19, 20節)。パウロがなぜそうする必要があるのかといえば、コリントの教会を「熱心に思っている」こと(2節)と、「心配している」こと(3節)があるからです。この二つはコインの裏表のような関係です。

(1) 「熱心に思っている」

●11章を貫いているのは、「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています」(11:2前半)とあるように、婚約中の娘を持った父親の愛です。父親は娘の純潔を守ることを自分の義務だと思っています。そうすることで、父親は悲しむことなく喜びをもって夫となるべき許婚者(いいなづけ)に差し出すことができるからです。その娘とは教会のことです。パウロは「私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから」(11:2後半)とあるように、教会をイェシュアと婚約している花嫁と見ていました。その結婚式(婚姻)はイェシュアが花嫁のために来られる時まで行われません。その間、教会は、愛するお方を迎える備えとして、自らを貞潔に保っていなければならないのです。ユダヤ人の心にとっては、婚約は結婚と同じです。

●「神の熱心(「ゼーロス」ζῆλος)をもって、あなたがたのことを熱心に思っている(「ゼーロオー」ζηλόω)を、口語訳は「わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している」と訳しています。「ゼーロオー」ζηλόω)は「熱心に慕っている」ことを意味します。「一人の夫」であるキリストは「アネール」(ἀνήρ)で、ヘブル語の「イーシュ」(אִישׁ)です。とすれば、教会は「イッシャー」(אִשָּׁה)となります。神の永遠のご計画によれば、ご自身の御子に花嫁を与えることだったのです。パウロはコリントの教会を清純な処女としてキリストにささげるために、婚約させた(「ハモルゾー」新約ではここ一回限り)と言っています。つまり、パウロは両者の仲介者としての使命を持っていた使徒です。

(2) パウロの唯一の心配

●パウロの唯一の心配は3節にあるように、「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思い(「ノエーマ」νόημα)が汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないか」というものでした。「真心」(「ハプロテース」ἁπλότης)と「純潔」(「ハグノテース」ἁγνότης)で、他に心を動かされず、ひたすら一つのことに心を集中することを意味します。これは「初めの愛」であり、「蜜月時代の愛」です。かつて預言者エレミヤは、ユダの民が神への愛を失っているのを見て、彼らに警告しています。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『【主】はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。」と。しかしユダの民は「真実の愛、婚約時代の愛」を失って、姦淫(偶像礼拝)の罪を犯してしまいました。こうした危険の背後にあるのが、蛇として描かれているサタンです。サタンは実に狡猾で、いろいろいな策略を巡らして、罠をしかけて、花嫁の「思いを汚そうとしている」のです。彼は「初めから・・偽り者、また偽りの父」(ヨハネ8:44)なのです。すべてが偽りならば見破れますが、一部が真理を含んだ偽りの場合は見破ることはとても難しいのです。パウロはそのことを心配しているのです。

【新改訳2017】Ⅱコリント書11章4~6節
4 実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。
5 私は、自分があの大使徒たちに少しも劣っていないと思います。
6 話し方は素人でも、知識においてはそうではありません。私たちはすべての点で、あらゆる場合に、そのことをあなたがに示してきました。

●実際に、コリントの教会はパウロたちが宣べ伝えなかった「別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたり」したことがあったようです。そうした者たちを、13節では「偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装している」とパウロは述べています。そのような者たちは、逆にパウロのことを「話し方は素人」と言い、自分たちを「大使徒」だと自称していました。これらの見せかけの者たちに対してパウロは「変装」という語彙を使っています。三度も。

13 こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。
14 しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。
15 ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。

●「変装する」と訳された「メタスケーマティゾー」(μετασχηματίζω)の「メタ」(μετα)は「変化」を意味し、「スケーマ」(σχημα)は「外観」を意味します。それで「偽装する、見せかける、仮装する」ことを意味します。

●エデンの園にいたエバもサタンの外形(蛇)にまどわされたのです。「女(エバ)」は「蛇」をどのように見ていたのでしょうか。決して狡猾な生き物だとは見なしていなかったのではないかと思われます。むしろ、利口で、神のような賢さを持てるように教えてくれる一見優しい、親切な存在として見ていた感があります。旧約学者の鍋谷尭爾氏は「女の前に現れた時の蛇は、かわいいリスやウサギのような形であったと思われます」と記しています。もし蛇が狡猾だと知っていたなら、女も用心したに違いありません。それと同様の偽使徒がコリント教会の中にいるとパウロは警告しています。

2. パウロの無報酬の奉仕の意図

【新改訳2017】Ⅱコリント書11章7~12節
7 それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことで、私は罪を犯したのでしょうか。
8 私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。
9 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたからです。私は、何であれ、あなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです
10 私のうちにある、キリストの真実にかけて言います。アカイア地方で私のこの誇りが封じられることはありません。
11 なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。
12 私は、今していることを今後も続けるつもりです。それは、ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだと認められる機会を求めているのを断ち切るためです。

●7~12節で語られていることは、パウロの父親としての気前良さです。親が自分の重荷を子どもに負わせることをしないように、むしろ自分が犠牲を払うものです。パウロがコリントの教会から当然の「報酬を受けずに」神の福音を伝える奉仕もその気前良さのひとつです。自分たちが困窮していたときでさえ、「負担をかけない」ということも気前良さからです。「何であれ、あなたがたの重荷にならないようにしたし、今後もそうするつもりです」と語っています。原文では「一つ一つにおいて、私自身があなたがたの重荷にならないように気をつけたし、これからも気をつけるつもりです。」となっています。「気をつける」(「テーレオー」τηρέω)ということばが繰り返されています。パウロがコリントの教会の重荷とならないように、絶えず自分の心を見張っている(ヘブル語では「シャーマル」שָׁמַר)姿こそ、花嫁を思う父親の真の愛の姿なのです。

●しかし、パウロの無報酬の奉仕は別の要因がありました。それは、「ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだと認められる機会を求めているのを断ち切るため」なのです。「ある人たち」とは偽教師たちのことです。「福音を売り物にしている」との批判を受けないため、それを「断ち切るため」なのです。つまり、偽教師と同じく生計のために働いていると思われないためなのです。

●とすれば、パウロの経済的必要はいかにして得たのでしょうか。それは8節にあるとおりです。

8 私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。
9 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたからです。

●「奪い取る」と訳された「スラオー」(συλάω)はこの箇所にしか使われていません。コリントの教会に奉仕するために、他の教会からまるでかすめ取るかのようにして、食い扶持を手に入れたという意味ですが、皮肉めいた表現です。9節には「マケドニアから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれた」と説明しています。おそらくピリピの教会からの献金だと考えられます(ピリピ4:15~16)。それは全くの自発的なものでした。パウロはコリントで「テント作り」の仕事をしながら、生活の糧を得ていた時期がありました(使徒18:3)。

3. パウロの使徒としての最大の重荷とは「花嫁なる教会に対する心遣い」

【新改訳2017】Ⅱコリント書11章16~33節
16 もう一度言いますが、だれも私を愚かだと思わないでください。もし愚かだと思うなら、愚か者として受け入れてください。そうすれば、私も少しばかり誇ることができます。
17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。
18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
19 あなたがたは賢いので、喜んで愚か者たちを我慢してくれるからです。
20 実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。
21 言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。
22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります
29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。
31 主イエスの父である神、とこしえにほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。
32 ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが、
33 私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、彼の手を逃れたのでした。

●パウロが17~18節で「これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。」と言っています。「多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。」というパウロの意図は何でしょうか。それは「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。」という言葉にあると思います。

●パウロが21~33節まで長々と、多くの試練を通り抜けてきたことを誇っています。これらを通してパウロがどのような歩みをしてきたかを知ることができますが、それはパウロが使徒職とはいかなるものであるかを述べようとしているのです。もし、使徒職という証明書があるとすれば、いかに主のために多くの苦しみ、試練を潜り抜けたかにあるのです。そこから逃れようとしても決して抜け出せない宿命、それが使徒職の務めなのです。中でも最大の試練は何かといえば、それは「すべての教会に対する心づかい」、つまり、諸教会に対する重荷なのです。このことを、パウロは「愚か者」の自慢話と受け取られかねないことを承知の上で、一人娘を嫁がせる父親的なパウロの愛を伝えようとしているのです。

●30節に「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります」とありますが、これについては、12章に詳しく語られていますので、そこで扱いたいと思います。

2019.5.30


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