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思考の戦い(1)


10. 思考の戦い (1)

【聖書箇所】Ⅱコリント書10章1節~18節

べレーシート

●Ⅱコリント書8~9章は「献金」についてのまとまった教えが記されていたように、10~11章は「思考の戦い」についてのまとまった教えについて記されています。特に10章は「戦いの対象と戦いの武器」について、11章は「戦いの戦場(心)」について取り上げられています。いずれも、パウロは「思考の重要性」について語っているのです。なぜなら、私たちの行動は、私たちが心の中で考えたことの直接的な現われだからです。もし人が否定的な考え方をするならば、否定的な歩みをすることになります。しかし逆に、神のみことばによって肯定的に(常識ではなく、信仰によって)考えるならば、心が一新されて神のみこころを行うことができるのです。つまり、思考によってすべての行動が生まれるということです。それゆえに、私たちの肉の心の中にあるものと神の心の中にあるものを明確に区別するためには、神のみことばを深く知らなければならないのです。これが今回のⅡコリント10~11章が取り上げようとしているテーマなのです。まずⅡコリント10章1~6節までを取り上げてみたいと思います。なぜなら、1~6節までが一つの文になっているからです。この中で、特に、3~5節は重要です。

【新改訳2017】Ⅱコリント書10章1~6節
1 さて、あなたがたの間にいて顔を合わせているときはおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる私パウロ自身が、キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします
2 私たちが肉に従って歩んでいると見なす人たちに対しては、大胆にふるまうべきだと私は考えていますが、そちらに行ったときに、その確信から強気にふるまわないですむように願います
3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
4 私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。
5 私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。
6 また、あなたがたの従順が完全になったとき、あらゆる不従順を罰する用意ができています。


1. パウロの願い

●1節と2節では「お願いします」とか、「願います」と訳されています。意味としては同じですが、使われている語彙が異なります。1節では「パラカレオー」(παρακαλέω)、2節では「デオマイ」(δέομαι)です。1節ではパウロ自身がコリントの教会の人々に対して、「お願いする、説き勧める、勧告する、嘆願する、懇願する」という意味の他に、「慰める、励ます、力づける、指図する、教える」という意味があります。2節の「デオマイ」は「(神に対して) 祈る、懇願する」という意味がありますが、一般的には「願う、嘆願する」の意味です。いずれも、ある相手に対しては、「キリストの柔和さと優しさをもって」低姿勢をもって願っている面と、ある人々に対しては(特に「肉に従って歩んでいると見なす人たちに対しては」)、強気にふるまわないですむようにと願っているのです。

●相手に懇願しているパウロは、自分自身のことを「あなたがたの間にいて顔を合わせているときはおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる私」と表現しています。「面と向かっているときには、キリストの柔和さと優しさをもって謙遜なのに、場合によっては強気になる(思い切った行動をとる)私」と表現しています。パウロにはこの二面性があることを言い表しています。しかしコリント教会の人々に対して、パウロが「強気にふるまわずに済む」ことを願っているのです。

●パウロが「強気にふるまう」ことになるのは、「肉に従って歩んでいると見なす人たちに対して」です。「見なす」と訳されている語彙は動詞「思い、考えて(そのように扱う)」という意味の「ロギゾマイ」(λογίζομαι)の分詞形です。そのような人に対して、パウロは「強気になる」(1節)「強気にふるまう」(2節)のです。いずれも、「サッレオー」(θαρρἐω)という語彙です。パウロは何に対して「強気にふるまうのか」、ここが重要な点です。彼らが「見なす」という「思い」が問題点なのです。このことについて、3節以降に展開されているのです。

2.「肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません」とはどういう意味か

3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
4 私たちの戦いの武器(複数)は肉のものではなく、神のために要塞(複数)を打ち倒す力があるものです。
5 私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。

●「肉」と訳されたギリシア語は「サルクス」(σάρξ)で、第一は「身体」、第二は「弱さ」、第三は「堕落した性質」(罪を犯しやすい生来の人間)といった三つの意味があります。ここでの「肉にあって歩んでいる」とは、「人間的な弱さをもって生きている」ことを意味します。しかし、「肉に従って戦っていない」とは、「人間的な弱いものによって戦っていない」ことを意味します。つまり、ここではそれが何であるのかを語ってはいませんが、人間的な、生来のものによってではないことは明白です。

●さらに、3節と4節を結ぶ「なぜなら」を意味する接続詞「ガル」(γάρ)があります。つまり、3節の理由を4節の前節と後節で説明する構文となっています。前節の4節の「私たちの戦いの武器(複数形)は」、「肉のものではなく」(新改訳2017)と訳されていますが、正確には、「肉的なもの(形容詞の複数)ではない」(「ウー・サルキコス」οὐ σαρκικός)からです。後節は、強意の接続詞「アッラ」(ἀλλά)も加わって、むしろ「神のために要塞(複数形)を打ち倒す力があるもの」と訳されていますが、正確には、「むしろ(かえって)、神のために(「ために」の「プロス」πρόςを「(神の)御前で」と訳すことも可能)、要塞を破壊するために強力だからです」の意味になります。主語は「私たちの戦いの武器」です。パウロは「戦いの武器」の数々について説明しているのです。

(1)「戦う」(「ストラテューオマイ」στρατεύομαι、「戦い」「ストラテイア」στρατεία)
(2)「要塞」(「オキュローマ」ὀχύρωμα)は、この箇所しか使われていない語彙です。その複数形(「オキュローマトーン」ὀχυρωμάτων)とは「もろもろの思い(理屈、思弁、推論)」を意味します。これこそが戦うべき対象なのです。それに対する神の武器が何かは今のところ記されていませんが、おのずと神のことばしかないことが理解できるのです。

●そして5節では、パウロはこの戦いの目的を語っています。

①様々な「議論」=「ロギスモス」(λογισμός)の複数形
②あらゆる「高ぶり」=「ヒュプソーマ」(ὕψωμα)単数。他に「防壁、城壁、塁壁」の意味。
③あらゆる「はかりごと」=「ノエーマ」(νόημα)単数。他に「思い、策略、たくらみ、企て」の意味。

●これらの三つはすべて人間的な思いの中にあるものです。それらを
①「打ち倒し」=「取り壊す、破壊する」=「カサイペオー」(καθαιρέω)の分詞、
②「取り押さえて」=「捕虜にする」=「アイクマローティゾー」(αἰχμαλωτίζω)の分詞、
③キリストに「服従させます」=「キリストの服従へと至らせる」=「エイス・テーン・ヒュパコエーン・トゥー・クリストゥー」(εἰς τὴν ὑπακονὴ τοῦ Χριστοῦ)。これが「私たちの戦う目的」なのだとパウロは言っています。「キリストの服従へと至らせる」とは、キリストの謙遜な服従の状態にまでという意味で、あたかも人々が捕虜にさせられて、御国に連れて来られるかのような表現です。そして6節では「私たちの戦いの結果」について述べています。

6 また、あなたがたの従順が完全になったとき、あらゆる不従順を罰する用意ができています。

●6節が言わんとしていることは、パウロはいつでも「あらゆる不従順を罰する用意ができて」いるが、「あなたがたの従順が完全になる」ときまで、それを抑えている状態だと言うことです。パウロは10章において、コリント教会でパウロとその教えに攻撃している敵対者、ないしは偽教師たちの悪影響を打ち破ろうとしているだけでなく、コリント教会自体もこれらの妨害者と対決して、パウロが再び訪問する時に厳しく罰しなくてもよいようにしてもらいたいと説得しているのです。パウロは、神のことばである「福音の真理」を腐敗させる者たちの力を打ち倒すまでには、あらゆる手段が講じられ、ある者たちはパウロの言うところに従い、ある者たちは頑固に不服従を言い張る、そのような状況が完全にあらわれるということが起こらなければならない、それが「あなたがたの従順が完全になったとき、あらゆる不従順を罰する用意ができています」ということばなのです。

●もう少し具体的な話をしましょう。パウロはコリント教会で福音を語りました。福音とはⅠコリント書15章にもあるように、イェシュアの十字架の死と復活の事実です。コリントの教会はその事実を受け入れました。ところがそのコリント教会の中に「死人の復活」など信じられないという人がいたようです。

【新改訳2017】Ⅰコリント書 15章12節
ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

●復活を信じることなくしてキリスト教は成り立ちませんが、それなのに、コリント教会の中に復活を信じない人々がいたのです。キリストの復活を根拠として、信者もまた復活できるのですが、コリント教会の中には、人の復活などあり得ないといって否定する者がいたのです。そのために、パウロはⅠコリント15章でこのことの重要性を取り上げています。どうしてこの「死者の復活」の教えを否定したのでしょうか。二つの理由が考えられます。ひとつは、復活を霊的に解釈したからです。キリストを信じて、罪の死から義のいのちによみがえるというものです。事実、Ⅱテモテ書2章に出てくるヒメナオとピレトはその類です。「彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしている」(Ⅱテモテ2:18)とあり、信仰の誤りを愛弟子であるテモテに指摘しています。もう一つは、からだの復活の否定です。人は一度死ぬとよみがえることはない、と考えていたようです。当時の異邦人的な考え方(ギリシア的ヘレニズムによれば、霊魂の不滅は信じるが、からだの復活は信じていなかったからです。その証拠にパウロがアテネのアレオパゴスで伝道したとき、イェシュアの名前を出さない形で説教をしましたが、偶像に対する悔い改めを迫り、さばきのために立てられた者が死から復活したことに話が及んだときに、ある人々はしきりにあざ笑い、その話はまたの機会に聞こうということで拒絶された(使徒17:32)とあります。

●「あざ笑う」(「クリュアゾー」χλευάζω)という動詞(未完了)はここにしか使われていない特別な言葉です。人間の知性の中にこうした抵抗の壁があるのです。この壁はエリコの城壁のように取り壊さなければなりません。この「知性の壁」とは、神のみことばの真理に逆らう考え方であり、自分をあがめる知的な誇りです。パウロがコリントの教会を建て上げる上でぶつかったのは、この「人間の知恵」でした。そしてこれはサタンが吹き込んでいるものなのです。それゆえ、4節の「戦い」は単なる小競り合いではなく、神とサタンとの「会戦」を意味するのです。

3. パウロは「弱々しく、話は大したことはない」という非難に対する答え

【新改訳2017】Ⅱコリント書10章7~18節
7 あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもキリストに属しているということを、もう一度よく考えなさい。
8 あなたがたを倒すためにではなく、建てるために主が私たちに与えてくださった権威について、私が多少誇り過ぎることがあっても、恥とはならないでしょう。
9 私は、手紙であなたがたを脅しているかのように思われたくありません。
10 「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」と言う人たちがいるからです。11 そのような人は承知していなさい。私たちは、離れて書く手紙のことばどおりの者として、そちらに行ってもふるまいます。

●コリント教会でパウロに反対する人たちは、自分たちの人間的な知恵の力と比べて、パウロの柔和な態度を権威がないものとして非難しました。それが10節に「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」という言葉に表れています。彼らは霊的な識別力を働かせることなく、外見で判断していたのです。パウロは教会を建て上げるために自分に与えられた権威を用いましたが、反対者は自分たちの権威を建て上げるために教会を利用していたのです。

12 私たちは、自分自身を推薦している人たちの中のだれかと、自分を同列に置いたり比較したりしようとは思いません。彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。
13 私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。
14 私たちは、あなたがたのところに行かなかったかのようにして、無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは他の人たちに先んじて、あなたがたのところにキリストの福音を携えて行ったのです。
15 私たちは、自分の限度を超えてほかの人の労苦を誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間で私たちの働きが、定められた範囲の内で拡大し、あふれるほどになることを望んでいます。
16 それは、あなたがたより向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して、ほかの人の領域ですでになされた働きを誇るためではありません。
17 「誇る者は主を誇れ。」
18 自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。

●私たちが自分の働きを量ろうとするとき、私たちが自らに問いかけるべき三つの質問があります。
(1) 自分は、神が私に望んでおられる場所にいるか(13~14節)
(2) 自分の働きによって神があがめられているか(15~17節)
(3) 自分の働きを主が推薦してくださるか(18節)

●特に、18節の「自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です」とはどういうことでしょうか。「本物」と訳された「ドキモス」(δόκιμος)は、動詞「受け入れる」を意味する「デコマイ」(δέχομαι)の形容詞です。主から試験済みの、本物(純正)と証明された、信頼されているという意味です。そのために重要なことは、私たちが神の望んでおられる所におり、神の望んでおられることをなし、神があがめられることです。そうしているなら、私たちは人々の評価や非難を少しも恐れる必要はないのです。また、もし、自分のしていることに困難が生じることを神が許しておられるなら、それはその働きが審査され、承認されるためだと信じて良いのです。「誇る者は主を誇れ。」(17節)です。

2019.5.23


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