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心を尽くして主に信頼せよ

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

6. 心を尽くして主に信頼せよ

【聖書箇所】3章1〜12節

ベレーシート

  • 3章の冒頭も、2章と同様に「わが子よ」(「ベニー」בְּנִי)で始まっています。子が父の語ることばを記憶できるように工夫されています。2章では、「もし・・・するなら、そのとき、あなたは・・するだろう。」という定型構文となっていました。「もし」と訳された副詞「イム」(אִם)と、「そのとき」と訳された「アーズ」(אָז)がセットになり、それに理由を表わす「キー」(כִּי־)も用いられていました。3章では、「・・しなさい(・・してはならない)。そうすれば、・・・される。」という命令と約束、そして命令の理由を表わす「キー」(כִּי־)があります。
  • 3章はヘブル文法の「命令形」を学ぶには良いテキストと言えます。今回の箇所(3:1~12)における「命令形」はすべて2人称男性単数で「・・しなさい。そうすれば・・」の肯定的表現が7回。そして禁止を表わす命令は2人称の未完了形に禁止を表わす否定辞の「アル」(אַל)がついて、「・・してはならない。(なぜなら)・・」という否定表現として6回使われています。こうして文体によって子どもたちが父のことばを覚えやすいように工夫されていると思われます。
  • 日本語訳は必ずしもこの方法に従って訳されてはいません。ちなみに、この箇所に限定すれば、「そうすれば」という訳語は新改訳で3回(2, 6,10節)、新共同訳とフランシスコ会訳は4回(2, 4, 6, 10節)ですが、原文では6節と10節だけが「そうすれば」と訳すことが可能です。2節は命令の理由を示す「キー」(כִּי־)が、そして4節に至っては命令形が3節と接続詞でつながっています。原文では、6節と10節には、命令形に続く「そうすれば」の後に主の約束が記され、2節と12節には前節にある命令の理由が説明されています。
  • 今回は、「そうすれば・・」という約束のついた二つの命令(①5~6節、②9~10節)を取り上げてみたいと思います。

1. 主に拠り頼め

【新改訳改訂第3版】箴言 3章5~6節
5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。


●「拠り頼む」と訳されたヘブル語は「バータハ」(בָּטַח)で「信頼する」という意味です。「信頼する」とはどういうことでしょうか。

●カソリックの司祭で、プロテスタントにも大きな影響を与えている人にヘンリー・ナウエンという方がいます。その人がある本の中で、空中ブランコサーカスのスターに演技についての秘訣を聞いた話を書いています。それによれば、「サーカスの観客は飛び手がスターだと思っているが、本当のスターは受け手です。成功する秘訣は飛び手が何もせず、全て受け手にまかせることなのです。飛び手は受け手に向かって飛ぶ時、ただ両手を拡げて、受け手がしっかり受けとめてくれると信じてジャンプするのです。空中ブランコで最悪なのは、飛び手が自分から受け手をつかもうとすることです。」 

●この言葉を聞いたナウエンは一つの啓示を受けます。「恐れなくてもよいのだ。私たちは神さまの子ども、神さまは暗闇に向かってジャンプするあなたを闇の向こうでしっかり受けとめてくださる。あなたは神さまの手をつかもうとしてはいけない。ただ両手を拡げ信じる事。信じて飛べばよい。」のだと。

●「心を尽くして」の「心」は「レーヴ」(לֵב)です。ヘブル語では感情の場は人の「はらわた」にあります。しかし「レーヴ」は理性的な面を強調する語彙で、「頭を使って考えて見よ」という含みがあります。聖書の中で主を信頼することがどういうことかを様々な出来事や人物を通して「考えて見よ」ということです。

●ガリラヤ湖の嵐の中でイェシュアの弟子たちが「おぼれそうです」と悲鳴を上げて訴えている状況で、イェシュアはなぜ眠っていることができたのでしょうか。そのことを考えることが「心を尽くして」の意です。信頼のテストはいつでも、どこでも、だれにでもあります。御子イェシュアの歩みは徹頭徹尾、御父に信頼していました。この御父に対する揺るぎない信頼こそ、イェシュアの生涯を貫いています。それゆえに「信仰の創始者であり、完成者」と呼ばれるのです。この神とのゆるぎない信頼のかかわりを、ヨハネは「永遠のいのち」と呼んでいるのです。

●「心を尽くして主に拠り頼む(信頼する)」ならば、「主はあなたの道(原文では複数)をまっすぐにされる」と約束しています。ここでの「道」とは「信仰者のいろいろな歩み」を意味します。それらの「道」を主が「まっすぐにされる」(「ヤーシャル」יָשַׁרの使役形)とは、起伏のない滑らかな、平らなという意味です。決して平凡なという意味ではありません。波乱万丈の生涯を送った人が自分の波乱ぶりを自慢することがありますが、主を信頼する者に与えられる祝福は、たとえどのような状況に置かれたとしても、常に平安でいられることです。この平常心こそ「まっすぐにされた」心です。詩篇7篇の作者もこう述べています。「私の盾は神にあり、神は心の直ぐな(「ヤーシャール」יָשָׁר)人を救われる。」(10節)と。

●「信頼する」という動詞「バータハ」(בָּטַח)で、旧約でこの動詞が多く使われているのは詩篇です(120回中46回)。特に、詩篇22篇にはこの動詞が4回(5, 5, 6, 10節)使われています。作者は神の民に対する過去における神の壮大な出来事を思い起こさせて、主に信頼をおいたその結果恥じをかかされ、見捨てられた者が果たしていただろうかと問いかけています。主に信頼することで永遠の「確かさ」と「安心」が保証されます。「信頼する」ことは、主の約束を「確信する」ことであり、そこから「大胆になる」「安心する」ことが生まれるのです。確信と安心は自己信頼からは保障されません。このことを悟らせるために、時折、主は「突風を吹かせ」て主を信頼する絆を強めようと訓練を与えられることがあるのです。


2. 自分に与えられたものによって、主をあがめよ

【新改訳改訂第3版】箴言3章9~10節
9 あなたの財産とすべての収穫の初物で、【主】をあがめよ。
10 そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、
あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。


●イスラエルの民にとって約束の地カナンは、「聖なる民」であることを揺るがす危機として土地取得がありました。それまでの荒野においては40年もの間、神が与えられたマナによって民は養われました。しかし約束の地では定住生活となり、農耕をし、そこから生み出される農産物によって生活が支えられていきます。この新しい生活が神の民にとってひとつの危機となるのです。その危機とは、豊かさのゆえに、豊かな土地と自分たちの労働によって生きているという錯覚をもたらすことです。

●申命記8章にこの危機に対する警告が語られていました。「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」(8:17~18)。申命記26章には土地取得による危機を免れるためのいくつかの神の恵みの手段が語られていますが、その一つが初穂(初物)をささげることです。それをささげることは、主こそすべての収穫をもたらすお方であるという信仰の告白の行為なのです。

●「初穂」のことをヘブル語では「レーシート」(רֵאשִית)と言いますが、それは「最高のもの」という意味もあります。つまり、神への最高のささげものによって主をあがめる(「敬う」-「カーヴァド」כָּבַדのピエル態)とは、神が自分に与えてくださったものの中から最高のものをささげることを意味します。単に、ものやお金だけでなく、時間や能力(賜物)もそこに含まれます。余ったものや、自分にとって不必要なもの、あるいは欠陥品を主にささげることは言語道断であり、主の御名を汚すことでもあります。

●神から与えられたものの中から最高のものを主にささげることで「主をあがめよ」。「そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる」と約束されています。「豊かに満たされる」ことと、「あふれる」こととは同義です。ここでは地の産物の祝福として語られていますが、それは神から賜るすべての祝福を象徴していると言えます。




2015.10.30


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