****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

御国への招き(3)「岩の上に家を建てよ」

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26. 御国への招き(3)「岩の上に家を建てよ」

【聖書箇所】マタイの福音書7章21~29節

ベレーシート

  • 今回は、昨年の2月12日からスタートした「山上の説教」の部分の最終回です。イェシュアの存在は、当時のユダヤ社会の大祭司、および祭司たちからなるサドカイ派の人々、および口伝律法(律法に対するラビの解釈)を重要視するパリサイ派の律法学者たちにとって、自分たちの権威の座を脅かすものとなりました。それゆえ、それまで対立関係にあったサドカイ派とパリサイ派の人々がイェシュアに対してはじめて互いに手を組み、巧妙な策をもって、イェシュアを十字架の死へと追いやることになります。それほどにイェシュアの存在は彼らにとって新たな巨大な嵐であったのです。イェシュアは次のように語られました。

【新改訳2017】マタイの福音書 5章17節
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

  • 17節に記されている「律法や預言者」とは、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)と、ヨシュア記を始めとする歴史書と預言書を含んでいます。ユダヤ教の聖書は「タナフ」と言って私たちの聖書の配列と異なっています。「モーセ五書」のことをヘブル語で「トーラー」(תּוֹרָה)と言いますが、この語をギリシア語に翻訳するときに七十人訳は「ノモス」(νόμος)と訳しました。「ノモス」は「法」という意味で、その英訳は「ロー」(Low)、日本語では「律法」と訳されました。それが誤解の始まりでした。というのは、「律法」があたかも法令集のように受け取られてしまったのです。確かにそうした面があることは否めませんが、「トーラー」(תּוֹרָה)の本来の意味は、神のご計画に沿った「神のみおしえ」そのものなのです。その「みおしえ」には、神のご計画におけるマスタープランが啓示され、誰によってそのご計画が実現するのかということもきちんと預言されているのです。ですから、「トーラー」が戒律のみを意味しているわけではないことを理解する必要があります。ところが、律法学者たちは「トーラー」をきわめて複雑な、しかもだれ一人として守りきれない「規則、命令、罰」という難解な書に変質させてしまったのです。これを「律法主義」と言いますが、聖書にはない言葉であるため、ある人々は「律法」というと「律法主義」のことだと勘違いしている人がいます。パウロは正しい意味である聖なる「律法」と、そうでない「律法主義」を、いずれも「ノモス」(νόμος)という語彙で表現しているため、どちらの意味で使っているのかは文脈で判断する必要があります。
  • ところで、マタイ5章17節に「廃する」とか「成就する」という表現がありますが、これは当時のラビと呼ばれる人たちの聖書解釈についての正誤を論じるときの専門用語です。トーラーの解釈が間違っているときは「トーラーを廃している」と言い、反対に自分がトーラーを正しく解釈していると主張するときは、「トーラーを成就している」という言い方をしていたようです。ですから、イェシュアが語られた5章17節のことばの真意は、「わたしが来たのは、トーラーを廃棄してしまうということではなく、むしろ律法や預言者(=聖書)を正しく解釈し、それに従って生きるためである」として語られたものなのです。そのために御子イェシュアは、当時のパリサイ人や律法学者との間で、トーラーの解釈をめぐっての衝突を余儀なくされたのです。パリサイ派の律法学者たちの解釈は、トーラーによって人々を束縛するような教えとしてしまい、その恐れのゆえに神に従わせる自由のない生き方を人々にもたらしました。一方のイェシュアの解釈は人々を束縛から解放して、神の恵みに基づく自由な生き方(不法な生き方ではなく)をもたらすものでした。その教えの大きなギャップに、当時の人々は「驚嘆・驚愕・唖然と」させられたのです。
  • 山上の説教の冒頭のことば「幸いなことよ」からしてそうでした。イェシュアの口から出た最初の教えは、人々(正確に言うなら神の民であるユダヤ人)を祝福することばでした。神のトーラーは人々に幸いをもたらす教えなのです。それは同時に、トーラーを解釈していた当時の律法学者への挑戦状でもあったのです。
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  • 今回は、「御国への招き」(3)として「岩の上に自分の家を建てなさい」というイェシュアのメッセージを取り次ぎたいと思います。この招きは私たちの永遠の運命を決定づけてしまうほどのものです。御霊も、心を頑なにせず、「耳のある者は聞きなさい」と語っています。

1. 天の御国に入ることのできるのは、父のみこころを聞いて、それを行う者

【新改訳2017】マタイの福音書 7章21節
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

  • ここでは天の御国に入る者の条件が語られています。その条件とは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」ということです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ヨエル2:32、使徒2:21、ローマ10:13)とあるではないかと言われるかも知れません。しかし「主よ、主よ」と言う者と、「主の御名を呼び求める者」とは異なります。前者の「主よ、主よ」と言う者は、自分の働きのために「主」という名を利用していた者で、「悪霊を追い出したり、多くの奇蹟を行ったりしていたにせ預言者」のことです。このことについて、イェシュアは次のように言っています。

【新改訳2017】マタイの福音書7章22~23節
22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を
追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。


※(1) 22節の「その日」、23節の「そのとき」は、「終わりの日」の神のさばきの時です。
※(2) 22節の「多くの者」とは、偽キリストや偽預言者たちのことです。イェシュアはマタイ24章24節で「偽キリストたち、
偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。」(【新改訳2017】)
と語っています。
※(3) 23節の「不法」はギリシア語の「アノミヤ」(ἀνομία)で、「無法」とも訳され、放縦、自由気ままな生き方を意味します。イェシュアは彼らのことを「全く知らない」と断言して突き放します。「わたしから離れて行け」とは「わたしの視界から消え失せよ」のニュアンスで、永遠に「突き放す」という厳しい言葉です。

  • 話を前に戻します。しかし後者の「主の御名を呼び求める者」とは、主がだれであるかを知って呼んでいる者のことであり、「父のみこころを聞いて、それを行う者」でもあるのです。そのような者こそ天の御国に入ることができるのです。イェシュアはそのような者のことを「わたしの兄弟、姉妹、母」(マタイ12:50)とも言っています。天の御国(神の家)における主の家族のメンバーは「父のみこころを聞いて、それを行う者」でなければならないのです。とすれば、「父のみこころを聞いて、それを行う」とはどういうことなのでしょうか。そのためにどんなことをすれば良いのでしょうか。

(1) 二つのうちの一つを選択しなければならない

  • マタイ7章13節以降で、イェシュアは二つのうちの一つを選択するよう促しています。つまり、それは、「」には「いのちに至る狭き門」と「滅びに至る広い門」があり、前者の「いのちに至る狭き門」を選び取り、そこから続く細い道を通っていのちに至ることをイェシュアは求めています。
  • また「」には、「良い実を結ぶ木」と「悪い実を結ぶ木」があること。「木」とは「教え」の象徴です。「いのちの木」はイェシュアのことです。つまり、イェシュアの教えに従うことを選び取ることによって、やがて「良い実」を結ぶようになることをイェシュアは求めています。
  • 主と呼ぶ者」にも、「天の父のみこころを行う者」と「行わない者」がいること。「天の父のみこころを行う者」だけが天の御国に入ることができることを教えつつ、そのような者になることをイェシュアは求めています。
  • すべての人」は、「岩の上に家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」に分けられること。家を建てることにおいて重要なのは「土台」です。土台の真価が問われるのは、雨が降って洪水が押し寄せたときです。この「洪水」とは神のさばきを象徴しています。必ず神のさばきはあるのですが、そのさばきの時にどんな土台の上に家を建てていたのかが明白になります。それまではどんな土台の上に家が建てられているのかは、実際のところ、分かりません。
  • 二つのうちの一つを選ばなくてはなりません。悪い方を選ぶ場合、特別に意識する必要はありません。すでにそれを選んでいるからです。しかし良い方を選ぼうと思う者は、特別に意識して選ぶ必要があります。その選択の鍵は、あなたがイェシュアに対してどのようにかかわるか、ということです。それによってすべてが決定するのです。つまり、天の御国に入ることができるかどうかの決定です。それは各人の責任において選び取ることが求められているのです。換言するならば、永遠の生命保険に入るか入らないかの決断です。そのための掛け金は何と0円です。

(2) 「天の父のみこころを行う」とはイェシュアを信じること

  • なぜ永遠の生命保険の掛け金が0円なのでしょうか。そのことを説明したいと思います。天の御国に入ることのできる者とは、「天におられるわたしの父のみこころを行う者」だけです。「行う」と聞くと、何かをしなければならないと私たちは考えます。ユダヤ人も同様でした。そこで彼らは、あるときイェシュアに「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」と質問しました。するとイェシュアはこう言われました。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」と(ヨハネ6:28~29)。ここで重要なことは、「神のわざ」の「わざ」が単数形であることです。そしてその「わざ」とは「神が遣わした者を信じること」なのです。これが私たちに要求されている唯一の「行い」であり、神の「みこころを行うこと」なのです。

2. 神のみこころを行われたイェシュアを知ること

【新改訳2017】ヨハネの福音書 6章38節
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、
わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。

  • 神の御子イェシュアは、神のトーラーに示されている神のみこころを行うために遣わされ、その遣わされた御父のみこころを完全に行われた唯一の方です。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 4章34節
わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 6章39節
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 6章40節
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

【新改訳2017】ガラテヤ書 1章4節
キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。

  • 父のみこころに従われたイェシュア。もしイェシュアのしたことを同じく私たちが要求されたとしたら、心が折れます。とてもできません。重要なことは、父のみこころに従われたイェシュアのことばを聞いて、この方を信じることが、私たちが天の御国に入ることのできる条件なのです。
  • イェシュアを信じると一言で言っても、それは簡単なことではありません。なぜなら、イェシュアを信じることはイェシュアを知ることでもあるからです。それは単に知識として知ることではありません。御父と御子のかかわりを知ることです。そのかかわりが「永遠のいのち」と言われるものです。その「永遠のいのち」の中に私たちが招かれていることを知ること、そして信じることが重要です。ただし、知ることも信じることも、幼子のレベルから成熟した者のレベルまであることも事実です。ですから、使徒パウロは「どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように」ととりなして祈っていました(コロサイ1:9)。またうわべだけでなく、「キリストのしもべとして心から神のみこころを行うように」と勧めています(エペソ6:6)。そして、Ⅰヨハネ2章17節では「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」と約束されています。
  • それゆえ、主にある者は自分の地上での残された時を、もはや自分の欲望にではなく、神のみこころに生きようと決心することが大切です。もしその決心がつけば、あとは主の御霊が導いて下さいます。そのような決心をするなら、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です」と言える者になるのです(【新改訳2017】Ⅰヨハネ 5:14)。

3. 岩の上に自分の家を建てた賢い者となりなさい

  • マタイ7章24節以降でイェシュアは、「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者」のことを「岩の上に自分の家を建てた賢い人」にたとえています。

【新改訳2017】マタイの福音書7章24~27節
24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。

  • 神から見た賢い者が、岩の上に家を建てた者にたとえられています。「賢い」とは、物事を見分けて判断する識別力、悟りを意味します。ヘブル語の「ビーナー」(בִּינָה)、および、「知恵」を意味する「ホフマー」(חָכְמָה)は、共に箴言における重要な語彙の一つです。
  • たとえの中にある「岩」はギリシア語で「ペトラ」(πέτρα)、ヘブル語では「セラ」(סֶלַע)で、この岩をモーセが杖で打つと水が出た話が民数記20章11節にあります。パウロはそこでの「岩」を「キリスト」として解釈しています(Ⅰコリント10:4)。またペテロがイェシュアのことを「神の御子キリスト」と告白しますが、その彼の告白も「岩」であるとイェシュアは解釈しています(マタイ16:18)。
  • 「岩」の上に建てられた家は、いかなる豪雨や暴風が襲ったとしても決して倒れることがないのです。この話は、イスラエルの民がやがて「終わりの日」に遭遇することになる大患難を啓示するたとえでもあります。ちなみに、マタイの福音書には「五つの説教」のそれぞれが、イェシュアの公生涯の記述の中にサンドイッチのようにして挟まれています。おそらくマタイが「モーセ五書」を意識して配置したと思われますが、この「五つの説教」の中で、10章の「12人の弟子たちの派遣の説教」を除く他の四つの説教、すなわち、①5~7章の「山上の説教」、③13章の「天の御国のたとえ話」、④18章の「御国の民の倫理」、⑤24章の「終末に関する説教」のいずれにもが、終末のさばきにかかわるたとえ話で終わっています。
  • この話はイスラエルの民だけでなく、すべての人にも言えることです。人生には必ず豪雨や暴風にたとえられるような災害や不運な出来事などに出合います。そのときに自分の人生の家の土台が問われるのです。順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の時にはその家の土台がどうなっているのかは見えませんが、それが露わになる時が必ずや来るのです。岩(キリスト)の上に家を建てる賢い者になりましょう。

4. 「地面を深く掘り下げる」とは

  • 同じようなたとえ話がルカの福音書の「平野の説教」(6:20~49)の中にもあります。共通する部分が多くありますが、異なっている部分もあります。岩の上に土台を据えて家を建てる人は共通していますが、異なる点は、土台となる岩が地の深くにあるため、「地面を深く掘り下げ」なければ、岩の上に家を建てることができないという点です。「地面を深く掘り下げる」とはいったいどういうことのたとえなのでしょうか。最後にそのことをお話ししたいと思います。
  • 地面を「深く掘り下げ」と訳された部分は、ギリシア語原文では「掘る」(「スカポー」σκάπτω)という動詞と「深く掘り下げた」(「バスノー」βαθύνω)という二つの動詞が重ねられています。いわば強調された表現となっています。自分の家の土台を岩の上に建てるためには、地を掘り、そしてさらに地を深く掘り下げることが求められるのです。これは「岩」であるキリスト・イェシュアをより深く知ることを求める営みではないかと考えます。その営みは「源泉指向」とも言えるものです。
  • 「深く掘り下げる」と訳された動詞「バスノー」(βαθύvω)は、新約聖書でここ1回限りです。ルカはおそらく深い思いをもってこのことばを使ったのではないかと推察します。家を建てるために地面を掘る人はいても、岩にまで到達するほどに、さらに深く掘っている人は少なかったのではないかと思います。イェシュアの「教えを聞いて行う人」と「地面を深く掘る人」とがここでは同義なのです。この点に心を留めなければなりません。私たちは「聞いて行う」と聞くと、どうしても「行う」という点に心がとまりやすいものです。そしてそれを支えていくものが、源泉となる神との深い交わりであることに気づかないことが多いのです。この交わりは見えない部分であり、実に神秘的な領域です。ヨハネの福音書ではそれを「とどまる」ということばで表現しています。ところがこの「とどまる」(「メノー」μένω)は、実は分かるようで分かりにくい神秘的な語彙なのです。たやすく体得できることではありませんが、私たちに「とどまる」ということを示してくださった模範者がいます。その方こそ御子イェシュアご自身です。聖霊の助けによる、御子と御父との愛に満ちたかかわりこそ、家を建てるときの土台となる部分です。神を知り、神との親しいかかわりを持つことを自分の家の土台とするとき、自然と行いは生まれてくるということをイェシュアは語りかけているのではないでしょうか。

べアハリート

  • 最後に、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据える試み」の一つを紹介して終わりたいと思います。ここに紹介するのは、神田満先生の「マルコの福音書のヘブル的考察」における取り組みです。以下のチャートは、バプテスマのヨハネの使命と働き、そして彼の身なりが記述されている箇所にある語彙です。語られたメッセージの中から簡単なチャートを作成してみました。

    画像の説明

  • こうした取り組みから分かってくることは、ヘブル語にはイェシュアを啓示する概念が隠されているということです。このような特殊性はヘブル語ならではのもので、ギリシア語にはありません。ギリシア語からヘブル語に戻して検証することで、聖書(この場合、旧約聖書のこと)が神の御子イェシュアを証言する書であることが確証できるのです。そしてそれはイェシュアの御名がより高められることにもつながります。これがルカの言う、「地を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てる」ことへの「一つの試み」であると考えます。御父が御子を通して成し遂げようとしておられることは、御子イェシュアを長兄とする神の家族を建て上げることです。その目的を実現するために、私たちができることは、絶えず「信仰の創始者であり、完成者であるイェシュアを仰ぎ見」つつ(ヘブル12:2)、イェシュアの語られることばを聞き(マタイ17:5)、信じて生きることなのです。
  • 最後に、聖書にある祈りをもって終わりたいと思います。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙 13章21節
(神が) あらゆる良いものをもって、あなたがたを(私たちを)整え、みこころを行わせてくださいますように。 また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。 栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


※「整える」=「カタルティゾー」(καταρτίζω)=網を繕うこと、修繕する、備える、完全にする、完成する、 あるべき本来の姿にすること。ヘブル語は「カーシェール」(כָּשֵׁר)


2017.1.14


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