****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

律法の終りとなられたキリスト

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4. 律法の終りとなられたキリスト

【聖書箇所】10章1~13節

ベレーシート

  • 1節の「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」と述べるパウロは、すでに、9章3節で「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストが引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と述べていました。こうした表現によって、同胞のユダヤ人がキリストの福音に目が開かれることを、パウロがいかに願い、神に祈っていたかをうかがい知ることができます。

1. 正しい知識に基づく福音理解

  • 「神学無き信仰は盲目にして、信仰無き神学は空虚である。」と言ったのは、牧師にして聖書学者の渡辺善太師です。言い方を換えるならば、「神学なき熱心さは危うく、熱心さなき神学も虚しい。」とも言えます。使徒パウロは自分の同胞たちが神に対して熱心であることをあかししながら、その熱心は知識に基づくものでないことを述べています。正しい知識と熱心さはともに重要なのです。その見本がパウロです。
  • 的外れな熱心さとは、ユダヤ人たちが神の義を知らずにいること。そして自分自身の義を立てようと、神の律法を613の戒めにまとめて、それを熱心に守り行なおうとしていたことです。「613の戒め」は、まことに「無意味な戒め」であり、それを完全に守ることは到底不可能なことでした。神の義とは「キリストが律法を終わらせた」ことを知り、信じることです。これがローマの書の主題です。「神の義」とは、人間の力や頑張りで義を実現できないことを悟り、ただキリストを信じることによってのみ義が実現できることを信じることにあります。神の義とは神の救いと同義です。

2.「キリストが律法を終わらせた」とはどういう意味か

  • 4節の訳を見てみましょう。

    【新改訳改訂3】
    キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
    【口語訳】
    キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
    【新共同訳】
    キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。


    ●新改訳、口語訳が「終わり(終り)」と訳し、新共同訳が「目標」と訳したギリシア語は「テロス」(τέλος)です。この語は「終わり、終了、終結、終点」という意味だけでなく、「成就、完成、仕上げ、窮極の目標」という意味を含んだ言葉です。したがって、「キリストは律法の成就者」とも訳せます。イェシュアは「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)と言われました。ですから、キリストによってすべての律法が成就されるのです。律法を完成し、成就するキリストを信じること、それによって人は神から義と認められるのです。戒めを守ろうとする行いによってではないのです。

    ●ちなみに、ギリシア語の「テロス」(τέλος)をヘブル語にすると、「タフリート」(תַּכְלִית)となります。この語は動詞「カーラー」(כָּלָה)の名詞形ですが、その意味するところは「終わる」「完成する」という意味と同時に「滅び失せる」という意味をも持ち合わせています。そしてそこから派生することばに「花嫁」を意味する「カッラー」(כַּלָּה)があります。つまり、神のご計画の最終において、主の花嫁となるか、それとも滅び失せるか、二つに一つの道しかないことを預言的に暗示しています。

    ●神の戒めを熱心に守ろうとしていたユダヤ人たちにとっては、この教え(神の義)は自分たちが立っている拠り所を根底から崩されるものであったがゆえに、イェシュアの教えを受け入れることはできなかったのです。人が最も大切にしていること、それにいのちを賭けていることを根底から否定されることは、自分の存在を完全に否定されることを意味するのです。ですから、パウロの福音を教える働きをなんとか阻止しようとしたのです。

  • 「キリストは律法の終り」、また「律法の目標」であることばを今一度、理解する必要があります。この二つの表現はその意味することにおいて微妙に異なっています。
  • 前者の「律法の終り」とは、何を終らせたのかと言えば、それは律法の要求を完全に満たしたという意味です。つまり、キリストこそ完全に神に受け入れられた者であるという意味であり、同時に、律法によって示された罪の責めをキリスト自ら引き受けることによって完全な罪の赦しを得させたという意味でもあります。つまり、贖罪的な意味における「律法の終り」なのです。
  • 後者の「律法の目標」とは、キリストがそうであられたように、御霊の助けによって、私たちも同様に神の律法を全うするという目標が可能になったということです。私たちの肉的な力によってではなく、神の賜物である御霊の力にそのことが保証とされているのです。今は、その御霊の力を体験できるのは「手付金」程度ですが、やがて将来(キリストの地上再臨時)には、この御霊の完全なる助けによって私たちが「御子の姿に変えられる」ので、律法のめざすことが可能となるのです。預言者エレミヤが語った「新しい契約」の内容はまさにそのことです。神の律法が人の心に書き記されることで、御子がそうであったように、神のみおしえを知り、行うことができるという約束です。このことを私たちが信じるとき、神はことのほか喜ばれるのです。これを神の義と言っているのです。
  • とすれば、神の教えである律法は廃棄されるどころか、永遠になくてはなりません。今日、教会において聖餐式がなされていますが、その意味することは、私たちは永遠に神のことばによって生きる者であることを告白しているのです。ということは、毎週の礼拝で語られる神のみことばが常に御霊によって、そのみことばにあるいのちの啓示が豊かに開示される必要があるのです。聖餐の式がマンネリ化することと、みことばのいのちが希薄化することは密接な関係にあるのです。

3. みことばはあなたの身近にある

  • パウロが旧約聖書を引用する場合、原文そのものではなく、かなり自由に、あるいは他の箇所のみことばと合わせて使っている場合があります。ですから、私たちは彼が使う旧約のテキストの真意を確認する必要がしばしばあるのです。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙10章6~8節
6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。


●ここには申命記30章12~13節が引用されています。申命記30章は、イスラエルに対する神のご計画における最終的な「祝福とのろい」が語られています。イスラエルに対する神の壮大な、しかも永遠のご計画が申命記30章1~10節に記されています。その前提に立って11~14節のことばが語られているのですが、重要かつ信ずべき神のことばは、すでにあなたのご身近に、口に、心にあることで、あなたがすでに聞いていることばであり、あなたが口にしていることばであり、心にまかれている神のみことば(約束)なのだということです(14節)。

【新改訳改訂第3版】申命記30章11~14節
11 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
12 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。
13 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。
14 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。


●14節の「これを行うことができる」の「これ」とは、「主の御声に聞き従うこと、主のすべての命令」のことです。それを「行うようになる」(未完了)という約束です。それはやがてイェシュアが律法を終わらせた後に注がれる聖霊によって実現することなのです。その約束を信じることが、パウロの言う「信仰のことば」なのです。


  • 神が語られるみことばは、天にあるのでも、海のかなたにあるものでもなく、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあるということが述べられています。パウロが宣べ伝えている神の福音は、すでに神がこれまでに語られたことば(預言者たちを通して語られたことばも含みます)の中にあるのです。それらはすべて神の御子イェシュアによって保証されているのです。ですから、「彼に信頼する者は、失望されられることがない。」(11節)のです。このイェシュアは神によって死者の中からよみがえり、今も生きておられます。ということは神の永遠の約束はこのイェシュアによって保証されているのです。主であるイェシュアはすべての人の主であり、ユダヤ人と異邦人との区別はありません。ですから、主を呼び求める者は、だれでも救われるのです。これが信仰のことばであり、この信仰のことばを信じることが「神の義」なのです。

2017.7.18


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