****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

幼子イェシュアを抱いた老シメオン

4. 幼子イェシュアを抱いた老シメオン

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ベレーシート

  • 先に、イェシュアの生誕の地である「ベツレヘム」のマトリックス的瞑想を試みましたが、ここでも、「シメオン」(ギリシア名では「シモン」)という人名のマトリックス的瞑想を試みたいと思います。
  • イェシュアの両親が神の律法に従ってエルサレムを訪れたとき、そこに老人のシメオンが突如として登場します。ルカの説明によれば、シメオンが御霊に感じて(うながされて)宮に入ると、そこに幼子イェシュアを連れた両親が入って来たのです。シメオンは両親の方 へ向かっていき、その幼子を両腕に抱いて神をほめたたえたのです。ヨセフとマリヤは老シメオンの言動に驚かされましたが、シメオンが幼子について語った預言的な歌の内容にも驚かされたようです。
  • ここできわめて素朴な疑問が二つあります。

(1) イェシュアを抱いたのが、なぜ「シメオン」という名前であったのか
(2) シメオンがなぜその幼子が「主のキリスト(主が遣わされたメシア)」だと分かったのか

  • 以上の二つの点はとても不思議なことです。しかしこれまで私は、このような点に注目することはありませんでした。ところが今年、キム・ウヒョン監督との出会いと、彼の著作のひとつ『主の道を辿って』の翻訳校正の手伝いを通して、自分のこれまでの聖書の読み方に大きな影響を与えられました。ユダヤ的・ヘブル的視点から聖書を読むという一つの面として、聖書に登場する人物の名前や地名にも最大の関心を払うべきだということを教えられたのです。聖書が神の霊によって記されたとするならば、決して偶然ということはありえません。どんな小さなことの中にも、原著者である神の意図(秘密)が隠されているはずです。ただそれを私たちが疑問に感じることがなければ、隠された秘密を知ることはありません。あるいは、たとえ疑問と感じても、それをどのようにして解き明かしたらよいのかが分からないのです。
  • 神のことばを瞑想する上で、疑問を持つことはとても重要なことです。疑問を持つことによって、はじめてその隠された意味を探ろうとするからです。そして神にその知恵を求めて祈りはじめます。神に祈ることで、天の父が「神を知るための知恵と啓示の御霊」を与えてくれます。そのようにして聖書の中に隠されていたものが少しずつ明らかにされてくるのです。特に、人物や場所の名前については注意深くなければなりません。なぜならそこに神の秘密が隠されていることが多いからです。それは今回の「アドヴェント瞑想3」で何度も扱っている「ネーム・セオロジー(Name Theology)」の領域におけるテーマとなりうるからです。

1. ヤコブの子シメオン

(1) シェケムの悲劇

  • イェシュアを抱いたのが、なぜ「シメオン」という名前の人物であったのか。その必然性の秘密の扉を開けるためには、旧約にあるいくつかの事柄を検証しなければなりません。その最初の事柄は、「シメオン」という名前がヤコブの息子の名前であったということです。ヤコブ(イスラエル)には12人の息子がいますが、「シメオン」は彼の二番目の息子です。母レアが「主が私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった」と言ってつけられた名前が「シメオン」でした。「聞く」という動詞である「シャーマ」שָׁמַעがその語源となっています。
  • ヤコブは臨終の前に自分の息子たち一人ひとりのために祝福しました。その祝福の中に「シメオン」と三番目の息子である「レビ」とがセットで預言されています。以下に見られるように、それは祝福というより、むしろ呪いの預言が語られているのです。

【新改訳改訂第3版】創世記49章5~7節
5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。
6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。
7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。
私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう

  • このような預言が語られたのにはそれなりの理由がありました。それは彼らが犯した罪のゆえです。彼らは妹のディナがシェケムの地でハモルの息子のシェケムに陵辱されたその報復として、その地に住む若者たちを騙して割礼を受けさせ、その痛みが癒えないうちに殺害してしまったからです。そのあまりに苛酷なやり方にヤコブは激しいショックを受けました。ヤコブの預言の背景にはこのような背景があったのです(創世記34章参照)。

(2) ペオル、コズビ事件

  • 「シメオン」と「レビ」は、父ヤコブから「私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」という預言を受けましたが、民数記25章ではこの二人の運命が分かれる事件が起こります。イスラエルの民は異邦人モアブの娘たちと姦淫を行ない、神の怒りを引き起こし多くの者たちが神罰で死にました。特に、シメオン族のかしらであるジムリとミデヤン人のかしらの娘コズビはこれらの事件の象徴でした。シメオン族のかしらたる者が率先してこの罪を犯したと考えられるからです。この二人はレビ族の子孫である祭司エルアザルの子ピネハスによって殺されます。ピネハスが神の熱心によってためらうことなく、この二人を殺したことによって神罰がやみますが、神はこの事件によって、レビの子孫に「永遠にわたる祭司職」を与えられました(民数記25章参照)。
  • ヤコブの「私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」という預言のうち、レビの呪いは解けましたが、シメオンはミデアンの偶像を礼拝したことで、より深い呪いへと入って行きました。そして12部族の中ではその数が減少していきます。出エジプトの時に軍務につくことのできる男子は、シメオン部族の場合5万9300人でした(民1:23)。その数の多さは12部族のうち第3番目でした。ところが第2回目の人口調査では、2万2200人と最下位となっています(民26:14)。やがて約束の地ではシメオン族はユダ族の中に吸収され、その存在はいよいよ希薄になっていきます。神の目線から見るならば、それはイスラエルの民がやがて異邦人の中に吸収されていく予表ともなっているのです。その意味では「シメオン」がイスラエルの民の呪いを代表しているのです。

(3) ベニヤミンの身代わりとして幽閉されたシメオン

  • 少し時代を戻します。ヤコブの時代に飢饉が起こり、食糧を求めて息子たちがエジプトに行き、そこでヨセフと再会するのですが、そこにヨセフの弟であるベニヤミンが来ていなかったために、ヨセフはベニヤミンを連れてくることを条件にシメオンを人質として牢獄に監禁します。そこで一つの疑問が起こります。なぜシメオンだったのか。他にも人質となるべく兄弟たちがいたにもかかわらず、なぜ、シメオンだったのかということです。その必然性に対する疑問です。その疑問に対する答えは、「ベニヤミン」を連れてくるまでシメオンが捕えられ、幽閉された状態にされているという事実の中にあります。「シメオン」の幽閉には、神の深い秘密(啓示)が隠されているのです。
  • 「ベニヤミン」という名前は「右の手」という意味です。母のラケルは「ベン・オニ」という「私の苦しみの子」という意味の名前を付けました。これはやがて苦難を受けるメシアを啓示しています。ところが、ラケルの死後、ヤコブがその子を「ベニヤミン」と改名します(創世記35:18)。その意味は「右の手」という意味です。「右の手」という意味の「右」というヘブル語には「南」という意味もあります(ヘブル人の方角のとらえ方は私たちとは異なっていることが分かります)。他の息子たちはすべてヤコブの母(リベカ)の故郷である「パダン・アラム」で生まれました。そこは北に位置しますが、ベニヤミンが生まれた地はずっと南に位置する「エフラテ・ベツレヘム」であったために、「南」「右」を意味する「ベニヤミン」と改名されたということが考えられますが、それ以上の重要な意味がこの名前には啓示されていると考えられます。それは「ベニヤミン」が「死から復活されて神の右の座に着かれたメシア」を啓示しているということです。
  • つまり、「ベニヤミン」を連れてくるまで「シメオン」が牢獄に幽閉されているということです。ここでの「シメオン」はイスラエルの象徴的存在です。つまり、「復活されたメシアと出会うまで、イスラエルは霊的な目と耳が閉ざされた状態にある」ことを啓示しています。しかし幼子イェシュアを抱いた老シメオンは、霊的な目と耳が閉ざされたままのイスラエル(シメオン)が、終わりの日には解き放たれて、御霊によって回復するということの象徴的な存在として登場しているのです。これこそ、「ネーム・セオロジー」の見どころの一つです。そのようなつながりを、次の「モーセの歌」から検証してみたいと思います。

2. 「モーセの歌」に見るシメオンの啓示

(1) 神の御救い(贖い)と「聞く」(シャーマ)とのかかわり

  • 申命記の32章と33章は「モーセの歌」と言われています。モーセの決別説教であり、イスラエルの各部族に対する祝福のことばが述べられている章です。ところが、33章の各部族に対する祝福の中に、「シメオン」部族の名前がありません。モーセから次の指導者ヨシュアに交替する時代には、ヤコブが預言したように、すでに「シメオン」の部族は散らされてしまったのです。神である主はすでに「シメオン」を完全に締め出されてしまわれたのでしょうか。見捨てられたのでしょうか。否です。実は、申命記32章は「シメオン」に対して語られた預言的な歌なのです。33章にはその名がなくても、イスラエルの代表としての「シメオン」に警告された預言が32章の内容なのです。その最初の節と終わりの節は、この歌の全体の枠となっています。

【新改訳改訂第3版】 申命記32章1節、43節

1 天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。

43 諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。

  • 1節には天と地に対して「聞け」「耳を傾けよ」と呼びかける主の声があります。しかも、43節には、イスラエルのみならず、諸国の民に対しても「御民」であるイスラエルのために喜び歌えと呼びかけています。なぜなら、イスラエルが悔い改めて、主の声に耳を傾け、聞くことによって、神の民とその地のための贖いがなされるためです。ここには神の救いの偉大な計画が啓示されています。イスラエルと諸国(異邦人)のかかわりです。これこそがエルサレムで登場したシメオンの存在の意味です。彼は「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」人であり、彼が幼子のうちに見たものは「万民の前に備えられた光」、すなわち「異邦人を照らす光」です。そしてそれは同時に「御民イスラエルの光栄」なのです。実は、「モーセの歌」はイスラエルの離散と救い(回復)の預言的なシナリオなのです。そのシナリオによれば、イスラエルの耳は開かれなくてはならないのです。「シメオン」の隠された神の使命は「聞く」ことです。神のことばに耳が開かれることです。その使命を担った「シメオン」が旧約において呪われているのは、イスラエルの本来の使命的位置づけを代表しているからであり、そこに神の隠された戦略があるからなのです。
  • 「モーセの歌」(32章)の内容を見るなら、そこには神が選ばれたイスラエルに対する数限りない恵みが綴られています。特に、10節から14節に記されている「恩寵用語」(動詞)の数々ー主は彼を「見つけ」「いだき」「世話をし」「(ひとみのように)守り」「導き」「食べさせ」「飲ませ」「養い」・・ーには圧倒されます。にもかかわらず、神の民はその神の声に聞き従わず、「捨て」「軽んじた」のです。
  • 創世記42章に話を戻しますが、カナンの地が飢饉に襲われた時、ヤコブの息子たちはエジプトに食糧を買いに出かけました。このときはすでにヨセフはエジプトの権力者となっており、ヨセフの兄弟たちは顔を地につけて、かつてヨセフが夢で見たように、ヨセフを伏し拝みました。ヨセフは自分の兄弟たちであることが分かりましたが、兄弟たちは自分が伏し拝んでいる者がヨセフだとは知りませんでした。彼らはヨセフによってスパイの容疑をかけられ、その結果三日間監禁所に入れられます。兄弟たちはその監禁所の中で次のように言ったのです。

【新改訳改訂第3版】創世記42章
21 彼らは互いに言った。「
ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」
22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

23 彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。
24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。・・・

  • ここでの兄弟たちの悔い改めは、「聞き入れなかった」ということばに集約されます。その意味において、冒頭にある「天よ。耳を傾けよ。」「地よ。聞け。」ということばの重さが迫ってきます。このあとに、「シメオン」が兄弟たちの身代わりとして監禁されることになります。したがって「シメオン」の存在は、他の兄弟の代表だということが言えます。つまり「聞き入れなかった」代償としての監禁(目と耳が閉ざされる状態)です。それゆえ、新約時代におけるエルサレムでの老シメオンの登場は決して偶然のことではなく、神の深いご計画の中にあったことが分かるのです。

(2) 「モーセの歌」のキーワードは、「岩」

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  • 「モーセの歌」には、実に「五つの岩」が出てきます。「岩」は「モーセの歌」のキーワードです。ここでの「岩」(ハッツールהַצּוּר)とは神ご自身を表しています(申命記32:4)。神はどこまでも真実なお方であり、ゆるぐことのない不動の岩、とこしえに変わることのない不変の岩です。しかも私たちとともにおられる「救いの岩」(15節)です。
  • ところが、イスラエルは自分の救いの岩を軽んじ、自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまったのです(申命記32:15, 18)。「モーセの歌」には、最も確かな保障を与えてくれる岩を見捨てたことのさばきが記されているのです。旧約時代にイスラエルの民が異邦の地に散らされたのは、それはひとえに「岩」である神のことばに「聞き従わなかった」からでした。

3. シモンが「ペテロ」と呼ばれた意味

  • さて、神の民が本来のあるべきところに立ち帰るためには、神のことばに「耳を傾け」「聞く」必要があるのです。イェシュアの弟子の筆頭となる「シモン」が、イェシュアによって「ペテロ」と呼ばれることになる必然性の根拠がまさにそこにあるのです。

(1) シモンの告白の上に立つ「教会」

  • イェシュアが公生涯に入られて神の国の教え(御国のことば)を、たとえ話を用いて語られましたが、そのときいつも繰り返されることばがありました。そのことばとは「聞く耳のある者は聞きなさい」でした(マルコ4:9、23)。公生涯を二分することになる出来事がピリポ・カイザリヤで起こります。そこでイェシュアは弟子たちに対して、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」という重要な問いかけをしました。その問いにすばらしい答えをしたのがシモンでした。彼は「あなたは生ける神の子キリストです」と答えます。その答えに対してイェシュアは次のように言われました。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 16章17~19節
17「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロですわたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

  • 「バルヨナ・シモン」とは「ヨハネの子シモン」という意味です(ヨハネ1:42/21:15~17)。私たちが「ペテロ」と呼んでいる人物の正式の名前は「ヨハネの子シモン」です。イェシュアもそのように呼んでいたのですが、ピリポ・カイザリヤでの告白後には「あなたはペテロです」と呼ばれています。ここには、かつてイスラエルの民(その代表としてシメオン)が聞く耳をもたず捨てた「岩」(申命記32章)を再び回復するために、イェシュアは意図的にシモン(シメオン)を「ペテロ」(岩)と呼んだのです。

(2) イェシュアの生涯に登場する「シメオン(シモン)」たち

  • 「イスラエルの回復」ということばは、老シメオンが待ち望んでいた「イスラエルの慰め」(ルカ2:25)ということばと同義です。興味深いことに、イェシュアが誕生されたとき、一番先にその幼子を抱いて祝福したのは、なんと突如として現われた、しかも聖霊に満たされた、聖霊に導かれた老シメオンでした。イェシュアの公生涯を二分するその頂点できわめて重要な告白をした弟子(使徒)は、シモン・ペテロでした。そしてイスラエルの贖いのためにどうしても通らなければならなかったイェシュアの十字架を代わって負うために登場したのも、クレネ人シモンなのです。イエスの生涯にぴったりと寄り添っている「シモン(シメオン)」の存在。そこには決して偶然とは言えない、驚くべき神の救いのご計画における必然性が横たわっているのです。

    「イェシュアの十字架を背負ったクレネ人シモン」については、こちらを参照

  • 「クレネ人シモンは、やがて異邦人のアンテオケ教会の指導者のひとりとなったようです。そこでは「ニゲルとよばれるシメオン」と記されています(使徒13:1)。

4. 「皮なめしのシモンの家」で啓示された異邦人伝道

  • 今回、「シメオン(シモン)」という名前が啓示していることをマトリックス的に思い巡らしてきましたが、最後に取り上げるのは、ヨッパの地でペテロが泊まっていた「皮なめしのシモン」という人の家の屋上で、ペテロが見た幻について取り上げます。この幻は実に使徒の働きの2章にわたって詳細に記されています。それだけ重要な神の啓示であったことがわかります。
  • 使徒ペテロはサウロによる迫害によって散らされたユダヤ人たちのいる所を巡回しました(使徒9:32)が、彼は地中海に臨む港町の「ヨッパ」という所にも行った記事が使徒の働きの9章36~43節にあります。ひとりの女の弟子タビタが病気になって死に、ペテロは彼女のいるヨッパに行って彼女を生き返らせました。その後しばらくの間、彼はヨッパの「皮なめしのシモンという人の家」に滞在している時にとても重要な幻を見たのです。

【新改訳改訂第3版】 使徒の働き10章9節~16節
9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。

13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。

  • ペテロの見た幻の中で、彼は主とやりとりをしています。それは律法の中で「きよくない物」「汚れた物」とされている食べ物を主が「ほふって食べよ」と言っているのに対して、ペテロは「それはできません。」と答えています。「神がきよめた物をきよくないと言ってはならない」とする主のことばで終わっています。さて、ここで使徒ペテロがこの主のことばをしっかりと受けとめることができるように、神は特別な導きをしていたのでした。使徒ペテロがいま見た幻はいったいどういうことだろうと思い惑っているちょうどそのときに、ペテロは御霊が「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。ためらわずに(何の差別もつけずに)、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」と言うのを聞きました。そこへ絶妙のタイミングで、カイザリヤにいるローマの百人隊長に遣わされた者が訪ねてきたのです。
  • 「きよくない物」「汚れた物」を食べるということは、ここではユダヤ人であるペテロが異邦人とかかわることを意味していました。最初、ペテロはそれを頑なに拒みましたが、主の声に従ったのです。まさにここに回復された「シメオン」の姿があります。民数記では異邦人と交わったためにさばかれたシメオン族のかしらがおりましたが、ここでは逆に主はシモン・ペテロに異邦人とかかわるように導かれています。
  • 場所がヨッパの「皮なめしのシモン」の家で幻が示されたのにも必然性があるように思います。当時、「皮なめし」という仕事は動物の死体を扱うこと、悪臭を発することなど、皆から嫌われている仕事でした。いわば汚れた職だったのです。不思議なことに、ペテロは自分でも知らずのうちに、汚れたものを扱う「皮なめしの家」に入っているのです。羊や牛の皮を扱うシモンと、使徒シモン(ペテロ)との出会いは、神の御手が動かされた絶妙な御業を感じさせます。そして、偏見にとらわれることなく、神の言われることを果たしてペテロが聞くか否かが問われているのです。
  • 皮なめしのシモンの家に滞在したシモン・ペテロがここで異邦人伝道の幻を見、また彼を迎えにきた者たちに連れられて異邦人の家に行くことも、ユダヤ人のペテロにとっては簡単なことではありませんでした。幻の啓示によってペテロの目と耳が「開かれる」必要があったのです。また神の啓示を受けとめる絶妙なタイミングによる導きが備えられました。このように、福音の異邦人への扉が開かれるところに、まさに「シメオン(シモン)」がいたことは決して偶然なことではなく、神の必然だったのです。

最後に

  • もう一度、ルカが記しているエルサレムの「老シメオン」に注目したいと思います。突如として登場したかに見えた彼でしたが、聖書の中ですでに神は緻密なご計画を「シメオン」に対して持っておられた事が分かります。決して突然の登場ではなく、神が意図されたシナリオに沿って、老シメオンは必然性をもって登場し、イスラエルを回復するメシア(イスラエルを慰めるメシア)を幼子イェシュアの中に「見た」のです。そしてこの幼子の苦難と栄光について語ったのです(ルカ2:34~35)。
  • 「シメオン」という名前の中に啓示された神の救いの計画の戦略をマトリックス的に思い巡らして来ました。イェシュアの誕生にまつわる事柄において、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11:33)と使徒パウロが叫んだ「驚き」に共感できることは、なんと幸いなことでしょう。

2012.12.18


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