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幸いなのは、義に飢え渇いている人々

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10. 幸いなのは、義に飢え渇いている人々

ベレーシート

  • 「幸いな人」の第四は「義に飢え渇く者たち」(5:6)です。原文を見てみましょう。

画像の説明

●「義」と訳された「ディカイオスネー」(δικαιοσύνη)の一義的意味は、神と人のあるべき関係を意味する「関係概念」です。神との麗しい親しいかかわりを経験した者はさらにそれを味わいたいと飢え渇くのです。そのすばらしさを味わい、満たされた者は、さらなる経験を求めさせるのです。関係性のみならず、関係性の内実を求めさせるのです。結婚という関係を結ぶことと結婚のすばらしさを経験することは別の事柄です。結婚のすばらしさを知るためには、結婚しているという事実が前提となっています。神の義に飢え渇く者は、神の前に義とされた者であることが重要です。つまり、旧約的には言うならば、神との契約を結んだ民、新約的に言うならば、キリストを信じることによって救いにあずかった者であるという前提が不可欠です。

●「飢え渇く」とは、文字通り「飢える」と「渇く」に区別されます。前者はからだを支えるための食べ物への欲求であり、後者の「渇く」は飲み物への欲求を意味まします。そのいずれも満たすことができるのはイェシュアのみです。イェシュアは「給食の奇蹟」を通して、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ6:54)と語られました。ここで「食べる」「飲む」は「信じる」ことを意味していますが、多くの弟子たちがこのことばにつまずき、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言ってイェシュアから離れました。

●しかし神ご自身と神のすばらしい祝福に満たされたいという願う者たちは、神を信じてひたすら神を求めようとします。なぜなら、「飢え」と「渇き」は繰り返し立ち戻ってくる欲求であるゆえに、ひたすら求め続け、また働き続けなければなりません。しかし、やがて来るメシア王国においては、完全に「満たされる」ことになるのです。そのことを表しているのがギリシア語の「コルタゾー」(χορτάζω)の未来形受動態です。ヘブル語では「サーヴァ」(שָׂבַע)の未完了受動態が意味していることです。

●「満ち足りる」ことが約束されているがゆえに、「飢える者たち」(ギリシア語では「ペイナオー」πεινάωの:現在分詞複数形、ヘブル語では「ラーエーヴ」(רָעֵב)の分詞複数形)と「渇く者たち」(ギリシア語では「ディップサオー」διψάωの現在分詞複数形、ヘブル語では「ツァーメー」צָמֵאの現在分詞複数形)は幸いなのです。


1. 「飢え渇き」という表現は神を熱心に求めるへブル的慣用句

  • 「飢え」も「渇き」もきわめて強い欲求を表す語彙です。「飢える」というヘブル語動詞の初出箇所は創世記41章55節で、「エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。」とあります。その叫びは生存の危機を訴える深刻な叫びでした。この飢饉によって、ヨセフのエジプトでの支配は強固なものとなったのです。
  • 「渇く」というへブル動詞の「ツァーメー」(צָמֵא)の初出箇所は出エジプト記17章3節です。神の民がレフィディムで宿営したとき、そこには民の飲み水がありませんでした。そこで民はモーセと争い、石で彼を打ち殺そうとしたのです。それゆえモーセはその所を「試す」という意味の「マサ」(「マッサー」מַסָּה)、あるいは「争い」を意味する「メリバ」(「メリーヴアー」מְרִיבָה)と呼びました。いずれにしても、「渇き」は争いをもたらすほどの生存の危機をもたらします。
  • 「飢え渇き」は生存の危機を招くゆえに、人々とはその「飢え渇き」を与えてくれるものを往々にして神にしてしまうのです。しかし、マタイは食べ物や水ではなく、「義」のためにとしています。公生涯に入られる前に、イェシュアはサタンの最初の誘惑に対して「人はパンによって生きるのではなく、神の口から出る一つ一一つのことばによる。」という申命記8章3節のみことばを引用して、サタンの誘惑を退けました。天の御国において重要なことは、食べ物や水ではなく、神のことばです。使徒パウロも「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(ローマ14:17)と記しているように、「神のことば」は「義と平和と聖霊による喜び」をもたらします。それが御国ではなくてはならないものなのです。教会における「聖餐」は、まさにそのことが促されているのです。
  • 詩篇の中には、生ける神を求めて渇いている者がいます。

【新改訳改訂第3版】詩篇42篇2節
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

【新改訳改訂第3版】詩篇63篇1節
神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。
水のない、砂漠の衰え果てた地で、
私のたましいは、あなたに渇き、
私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

  • 「神を求めて渇く」とは、具体的には神の御子が語る「みことば」でなければなりません。何故なら、御子の語ることばこそ、「飢え渇き」をいやすだけでなく、私たちのたましいを満たすことができるからです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書 55章1節
ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。
金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物を買い、
代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書4章13~14節
13 イエスは答えて言われた。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

【新改訳改訂第3版】 ヨハネの福音書7章37節
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。


2. 御子イェシュアの食べ物と飲み物

  • イェシュアは弟子たちに対して、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:32)と言われましたが、弟子たちはその意味を理解することができませんでした。そしてその意味をイェシュア自身が語られました。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書4章34節
イエスは彼らに言われた。
わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」


●そのように言われたイェシュア自身が十字架の上で次のように言っていることはとても意義あることではないでしょうか。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書19章28節
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。


2017.2.17


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