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幸いなのは、柔和な人々

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9. 幸いなのは、柔和な人々

ベレーシート

  • 「幸いな人」の第三は「柔和な者たち」(5:5)です。原文を見てみましょう。

    画像の説明

●「柔和な者たち」と訳された原語は「プラウース」(πραΰς)の冠詞付現在分詞複数形です。その者たちは将来において地を「相続する」という約束です。「相続する」は、動詞「クレーロノメオー」(κληρονομέω)の3人称複数未来形受動態です。

●「柔和な者」と訳されたギリシア語の形容詞「プラウース」(πραΰς)は、新約聖書では4回しか使われていません(マタイ5:5, 11:29, 21:5、Ⅰペテロ3:4)。名詞の「プラウーテース」(πραΰτης)は11回(うちパウロ書簡が11回、ヤコブ2回、Ⅰペテロ1回)。その同義である名詞の「プラウーパシア」(πραϋπαθία)は1回使われています(Ⅰテモテ6:11)。

●ここで重要なのは、原語の形容詞「プラウース」(πραΰς)がマタイの福音書で3回使われているということです。他の福音書には使われていません。しかもすべてイェシュアが語っていることばの中で使われているのです。

(1)マタイ5章5節・・背景となっているのは詩篇37篇11節の言及。
【新改訳改訂第3版】マタイ 5章5 節
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

【新改訳改訂第3版】詩篇37篇11節
しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。

●「貧しい人」の原語は形容詞「アーナーヴ」(עָנָו)の複数形「アナーヴィーム」(עֲנָוִים))。口語訳は「柔和な者」と訳しています。また、「受け継ごう」は動詞「ヤーラシュ」(יָרַשׁ)の未完了受動態「イールシュー」(יִירְשׁוּ)です。


(2)マタイ11章29節・・背景となっているのはシラ書6章24~31節。脚注

【新改訳改訂第3版】マタイ 11章29節
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

【旧約聖書続編】シラの書(集会の書、ベン・シラの書) 6章24~28節
24 足に知恵の足枷をかけ、首に知恵の首輪をはめよ。
25 肩を低くし、知恵を担え。その束縛にいらだつな。
26 心を尽くして知恵に近づき、力を尽くして知恵の道を歩み続けよ。
27 足跡を追って、知恵を探せ。そうすれば、知恵が見つかるであろう。しっかりつかんだら、それを手放すな。
28 ついには、知恵を見いだし、知恵は、お前にとって、喜びに変わるだろう。

●ここでは「知恵」の足枷をかけ、「知恵」の首輪をはめるなら、「知恵」を見いだし、それは、お前にとって、喜びに変わるだろうとあります。この部分はマタイのイェシュアの招き(11:29)と似ています。


(3)マタイ21章5節・・背景となっているのはゼカリヤ書9章9節です。

【新改訳改訂第3版】マタイ21章15節
ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。

【新改訳改訂第3版】ゼカリヤ書 9章9節
シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

●上記の箇所は、柔和でろばに乗って平和の王が来られるという預言です。この預言がイェシュアの初臨によって成就しています。ゼカリヤ書9章9節の「柔和」の原語は形容詞「アニー」(עָנִי)、単数形です。


1. ヘブル語が意味する「柔和な者」

  • マタイ5章3節の「貧しい者」、そして5章5節の「柔和な者」は、ギリシア語では二つの異なった語彙が使われていますが、これをヘブル語に戻すと悩む、苦しむを意味する「アーナー」(עָנָה)という一つの動詞に集約されます。そこから形容詞の「アーニー」(עָנִי)と名詞の「アーナーヴ」(עָנָו)が派生しています。形容詞「アーニー」の複数形の連語形は「アニッイェー」(עֲנִיֵּי)。名詞「アーナーヴ」の複数形は「アナーヴィーム(עֲנָוִים)となり、それに冠詞がつけば「ハーアナーヴィーム」(הָעֲנָוִים)、つまり「柔和な者たち」となります。
  • 興味深いことに、「貧しい者」「へりくだる者」の語源である動詞の「アーナー」(עָנָה)には、「苦しむ、悩む」という意味だけでなく、「答える」という意味と「声を上げる、歌う」という意味もあるのです。つまり「貧しい者」に対して、神はその者の声を聞いて答えてくださるということ、そしてその経験をした者が喜びの声を上げるという意味が、一つの動詞の中に込められているということです。このようなニュアンスを一語の中に盛り込んでいる言語はヘブル語しかないのではないかと思います。ヘブル語には、一つの語彙の中に正反対の意味を持つもの(例えば「嫉妬」と「熱心、熱情」を意味する「キヌアー」קִנְאָה)もあれば、一つのストーリーを形成するニュアンスを秘めた語彙(例えば「アーナー」עָנָה)もあるということです。
  • いずれにしても、「へりくだった」「柔和な」「貧しい」という形容詞、「謙遜」「柔和」「貧しさ」の訳語が、ヘブル語においては同じ語彙群だということです。ただ、5章3節の「貧しい者」の場合は人間の最も中核的な部分である「霊」(「ルーアッハ」רוּחַ)の貧しさ(極貧状態)が強調されているのに対して、5章5節の「柔和な者」は「性格、品性、霊性」の面が強調されています。そのような者こそ、やがてメシア王国においては「地を相続する」のです。なぜなら、御国は「主の祈り」の中にあるごとく、「地に来る」からです。その地を受け継ぐ者、相続する者こそ、「柔和な者たち」なのです。

2. 「柔和な者」のイメージ

  • 「柔和な」「謙遜な」と訳される語彙が聖書の中で最初に使われている箇所は、形容詞の場合は出エジプト記22章25節、名詞の場合は民数記12章3節です。

(1) 【新改訳改訂第3版】出エジプト記22章25節
わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者(עָנִי)に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。

●「貧しい者」に対する配慮が命じられています。つまり、利息を取ってはならないということです。これは驚くべき福祉理念です。普通ならば、貸した金に対しては利息がつくのは当然です。ところが、「貧しい者」に対しては貸し手の当然な権利を主張せずに、その権利を放棄して、無利子で貸すことを主は命じています。


(2)【新改訳改訂第3版】民数記12章3節
さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜(עָנָו)であった。

【口語訳】
モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。
【バルバロ訳】
モーゼは実に柔和な人だった。この世に住んでいるだれよりも穏やかな人だった。

●バルバロ訳はこのことばのニュアンスを伝えるために、「柔和な」と「穏やか」という二つの訳語を用いています。本来一つの原語に対して一つの訳語ですが、二つの訳語を使わなければならないほどにこの「アーナーブ」(עָנָו)の意味は繊細だということです。

●神のしもべであったモーセは指導者であるがゆえに、民から多くの無理難題や不平不満をもろに突きつけられる立場にありました。しかしその彼の心の苦しみを理解できる者はいなかったようです。なぜなら、モーセはそれを人の前であらわにしなかったからです。常に、彼は神の前では心を開きましたが、人の前で自分の思いを出すことはありませんでした。民数記の12章を見ても、姉のミリヤムの非難に対しても沈黙を保っています。このような態度をとれる人が「アーナーヴ」(עָנָו)な人、あるいは「プラウース」(πραύς)な人なのです。

●モーセの他に「アーナーヴ」(עָנָו)な人を捜すとすれば、旧約では「イサク」がその人です。彼は神に祝福されたことでペリシテ人から妬まれて井戸を塞がれます。しかしイサクは次の井戸を掘ります。そこも塞がれるとまた次の井戸を堀りました。イサクのその柔和さに驚いたペリシテ人の王が、神を恐れて平和条約を結んだほどでした。ダビデもサウル王の妬みによる追撃を何度も受けながらも、それに対しては一切、反撃することなく、神の御手にゆだねました。

●新約でも使徒パウロをはじめとして、人々からの多くの不当な非難や迫害に会いながらも、それに対して「じっと我慢できる人」こそ「柔和な人」だということが言えるのです。そして何よりもキリストこそその人です。なぜなら、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(Ⅰペテロ2:23~24)それは、私たちを救うためであり、私たちが罪から離れて義のために(神との正しいかかわりを持って)生きるためです。

●まさに「柔和さ」は、聖霊による結実です。そこにはひたすら神によって支えられているという信仰的な確信が横たわっているのです。



脚注

【Web引用箇所】
http://www.pauline.or.jp/bible/eachbook/sirach.php

●一般的に「ベン・シラの知恵」「集会の書」と呼ばれる知恵文学です。カトリック教会では「聖典」として認められていますが、新共同訳においては、旧約聖書続編に属する書です。ヘブライ語で書かれた原文は長いこと失われていましたが、近年になってその3分の2が発見されました。「シラ書」がこの世に現われたのは、紀元前2世紀です。

●エジプトのセレウコス王朝の時、さまざまな民族、文化、宗教的な諸問題を抱えており、それらに調和を与えるためにギリシャ化(ヘレニズム化)の政策が取り入れられました。この政策は神について、人間についてなど伝統的なユダヤ教と相反するものであったので、イスラエルの民にとって一つの強制、抑圧でした。この政策に対してイスラエルの中には二つの流れがありました。一つは進歩的な姿勢でこれに対処するもので、それには「知恵の書」(同じく旧約聖書続編に属す)があります。もう一つは伝統的な立場で受け止めるもので、それはこの「シラ書」です。

「シラ書」は、新しく起こっている事柄を伝統的な考え方から捉え、その伝統的な教えを守っていこうとするものです。

●シラの子イエス(ヨシュア)と呼ばれる著者が、イスラエルの伝統的な教え、律法を尊重し守っていく大切さを51章にも及ぶ長さで、詩や格言の形式を用いて書き、イスラエルの民にユダヤ教の本質的な教えを呼びかけていったのでした。

●シラ書の中心思想は「知恵」そのものであり、いろいろな形でそれを描写しています。それは、イスラエルの民の教育、知識を深め、諭すためでした。知恵の概念、知恵の奥義、知恵と人間、律法、知恵のもたらす恵み、知恵のはじめと完成、来世での報いなどが見事に書かれています。


当然、イェシュアもこの書を読んでいたことと思われます。イェシュアは「知恵」そのものであり、この方が弟子たちに対して「くびきを負ってわたしから学びなさい。」と諭し、招いたのです(マタイ11:29)。


2017.1.24


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