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幸いなのは、嘆き悲しんでいる人々

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8. 幸いなのは、嘆き悲しんでいる人々

ベレーシート

  • 「幸いな人」の第二は「悲しむ者」(5:4)です。正確には「悲しむ人々」「嘆き悲しむ人々」です。原文を見てみましょう。

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  • ヘブル語版で見てみましょう。

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●「悲しむ者」と訳された原語は「ペンソー」(πενθέω)という冠詞付現在分詞複数です。ヘブル語は「アーヴァル」(אָבַל)です。その者たちは将来において「慰められる」という約束です。「慰められる」は、動詞「パラカレオー」(παρακαλέω)の3人称複数未来形受動態で、ヘブル語の基本形は「ナーハム」(נָחַם)です。

●ここで注意すべきことは、「悲しむ」という意味です。私たち人間が普通に経験するような意味ではなく、神の視点における「悲しみ」という意味であり、神の「深い嘆き悲しみ」なのです。その神と同じ心をもって嘆き悲しむ者は、やがて神の「慰め」にあずかるという約束が語られています。ですから、イェシュアが語っている「悲しむ者は幸い」とは、単なる人生訓話ではないということです。


1. 人間の罪に対する神の悲しみ

  • 神が悲しむとはどういうことかを考えなければなりません。そのためには、ギリシア語をヘブル語にしてみなければなりません。ここで使われているギリシア語の「ペンソー」(πενθέω)に相当するヘブル語は「アーヴァル」(אָבַל)です。普通の悲しみではなく、慟哭するような深い悲しみを意味する語彙です。旧約では39回使われていますが、最初に使われている箇所(脚注)は創世記37章34節です。

【新改訳改訂第3版】創世記37章34節
ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。


●ヤコブに愛されていたヨセフが、兄弟たちの悪しき計らいによってエジプトに売られました。ヨセフが動物に食い殺されて死んだと偽りを聞かされたヤコブは慟哭し、泣き悲しみます。息子や娘たちはそんな父を欺き、なんとか慰めようとしますが、ヤコブは彼らの慰めを拒んだとあります。そう簡単にヨセフの死を受け入れられなかったヤコブの悲しみが強調されています。

●もう一箇所、この動詞が使われている箇所を見てみたいと思います。それはネヘミヤ記1章4節です。
「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って」です。「数日の間、喪に服し」というところに「アーヴァル」(אָבַל)が使われています。新共同訳は「幾日も嘆き」と訳しています。ここでは、ネヘミヤがエルサレムの現状を聞き、城壁が崩されたままであることを聞いて、泣き、幾日も嘆き悲しんだことが記されています。これは彼自身の嘆きというよりも、神の心と同化した嘆きと言えます。

●最も愛する者を喪失したヤコブの慟哭と悲しみ、神の都エルサレムの崩された城壁によっていつでも敵の侵入を許している現状への嘆きは、人間の妬みという深刻な罪と、神を第一にするよりも人間の都合を優先してしまう罪によって、神の御名が恥ずかしめられていることへの悲しみです。これがマタイ5章4節に記されている「悲しむ者」の意味するところです。決して、ここで言われている「悲しみ」は、私たちの自己憐憫ではないということです。


2. 罪に悲しむ者は、必ず、慰められる

  • 神に対する人間の罪からもたらされる「悲しみ」は、やがて将来、神によって必ず「慰められる」と約束されています。この慰めは人間的な、その場しのぎの、安易な慰めや励ましではなく、神から来る「慰め」です。
  • 「慰められる」と訳されたギリシア語は「パラカレオー」(παρακαλέω)の未来形受動態です。傍らという意味の「パラ」(παρα)と、呼ぶを意味する「カレオー」(καλέω)の合成語です。これが受動態になると「傍らに呼ばれる」となり、そのような存在を「助け主」と呼びます。つまり、御霊なる方です。やがて地上にメシアが再臨されるとき、御霊の助けによって、神の家が回復されます。「神の家」(主の家)とは「エデンの園」のことです。それは主の御名の力と輝きが全地において放たれるからです(詩篇8:1, 9)。
  • 「パラカレオー」(παρακαλέω)に相当するヘブル語も調べておきたいと思います。そのヘブル語は「ナーハム」(נָחַם)です。この語彙の使用頻度数は100回、そして初出箇所は創世記5章29節です。

【新改訳改訂第3版】創世記5章29節
彼はその子をノアと名づけて言った。「【主】がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」


●ノアの名前が「慰めを与えてくれる」存在となるというその背景には、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのを主がご覧になったからです。ここに神の心の痛みが記されています。この神の痛みを担い、洪水によるさばきを通して、再び、この地上を回復する存在として神の「慰め」をノアに見ているのです。これはやがて再びメシアがこの地上に再臨することで実現する神の「慰め」の「型」なのです。

●この「型」は神の歴史において、バビロン捕囚からの帰還という出来事にも現わされていました。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書40章1~2節
1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」

ちなみに、慰めを意味する「ナーハム」(נָחַם)はイザヤ書の特愛用語です。神のご計画において最終的にもたらされる「慰め」は、以下のように、新天新地においてです。

【新改訳改訂3】 黙示録21章4節
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ(「ペンソス」πένθος)、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」




脚注
ヘブル語の修辞法には「最初の言及の法則」(the law of first mention)というものがあります。聖書では、「初穂」や「初子」「長子」は神のもの(所有)であり、それは神にささげるべきものとする考え方があります。つまり、ある言葉の意味を知りたければ、その語彙が聖書で一番初めにどのように使われているかを調べることです。なぜなら、そこに本質的なことが啓示されていることが多いからです。これを「最初の言及の法則」と言います。まずはその初出箇所をヘブル語のコンコルダンスを使って調べ、その上で他の箇所も調べてみることが重要です。


2017.1.13


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