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常識的判断が働くとき

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民数記の目次

11. 常識的判断が働くとき

【聖書箇所】13章1節~33節

はじめに

  • 民数記13章と14章は、真の信仰とはなにかを逆説的に教える教材としてしばしば取り上げられる箇所です。「いまだ見ぬ地」に行く準備として、その地についてあらかじめどういうところかというかを知って置くことについては、常識的に考えればあまりにも当然なことです。ところが人間の常識は神の世界を歩もうとする者にとっては、必ずしも当てにならないということを民数記13章は私たちに教えようとしています。

1. カナンの地の偵察

  • 1、2節を見ると「主はモーセに告げて仰せられた。『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。・・』」とありますから、主がカナンの地を偵察させたかのように記されています。ところが、40年後にモーセが第二世代の者たちに語った申命記によれば、この主のことばの背景について詳しく語っています。それによれば、カナンの地の偵察は民の方から願い出たことであったことがわかります。

【新改訳改訂第3版】申命記
1:21
「見よ。あなたの神、【主】は、この地をあなたの手に渡されている(完了形)。上れ。占領せよ(自分のものとせよ、相続せよ)。あなたの父祖の神、【主】があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」
1:22
すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言った。

  • これによれば、主がこの地をあなたの手に渡されている。だから、上って行ってそこを「占領せよ」と言われているにもかかわらず、民たちが(しかも、こぞって)、その前にその地を探り、その報告を待ち帰らせましょう」と民が提案したことがわかります。モーセ自身もこの提案は常識的な考えと思ったようです。それを主に申し上げた時には、主はそのことを許可されました。おそらく、主は民たちを「試した」のだと言えます。
  • これと似たような話がサムエル記の中に出てきます。当時、軍事国家であったペリシテの侵入を恐れて、その危機感から、イスラエルの長老たちがみな集まり、サムエル前に「他の国と同じように私たち王を与えてください」と懇願しました。サムエルはこの要求は気に入りませんでしたが、主は「民の声を聞き入れよ」と言われました。民のこの要求は人間的に考えるなら常識的に思いますが、神にとっては自分が退けられたということを知っていたのです。神は長い時間をかけて、民が要求していることがどういうことかを思い知らせようとします。つまり、民の要求が、結果的に、自分たちの国を滅ぼす道を造るようになることを体験的に教えたのです。
  • 一見、常識的な発言や好意の中に、神を退ける心、不信仰の思いが隠されているのです。神がカナンの地をすでに与えた(完了形)と約束されているにもかかわらずです。真の信仰とは、神がすでに私たちに与えてくださっているものを素直に受け取り、それを「占領する」ことです。「占領する」と訳されたことばは「ヤーラシュ」יָרַשׁ、つまり、自分のものとする、所有する、受け継ぐ、相続することを意味します。その心があるかどうかを主は試すために、民数記13章が記されています。

2. 「探る、偵察する」、「調べる」という語彙について

  • カナンの地を「探る」ということばが、この13章の中に何と7回も出てきます(2, 16, 17, 21, 25, 32, 32)。「探る」と訳されたヘブル語は「トゥール」(תּוּר)です。サーチ(search)、エクスプロアー(explore)と英訳されます。未知の土地を実地踏査することです。具体的には、民は強いか弱いか、多いか少ないか、その土地は良いか悪いか、肥えているか痩せているか、町は宿営か城壁か、すべて目に見えるものばかりの調査でした。そうした目に見えるものを調査する動詞が「トゥール」(תּוּר)です。という動詞です。その証拠に、「調べる」ということばも「見る」という動詞「ラーアー」(רָאָה)が使われています(13:18, 20)。
  • ちなみに、「探す」という意味を持つもう一つのヘブル語あります。それはヨシュア記2章2, 3節に使われています。ヨシュアはカナンの最初の占領すべきエリコの町を偵察させるために、ふたりの者をスパイとして遣わします。その地を「探る」ためです。民数記の「探る」は「トゥール」でしたが、ここでは「ハーファル」(חָפַר)という別の動詞が使われています。目に見える偵察ではなく、目に見えない情報を得ることが目的でした。ですから、二人の斥候は遊女ラハブの家に泊って情報を得ようしたのです。「ハーファル」(חָפַר)の本義は、井戸を「掘る」という意味ですが、そこから派生して「隠れているものを掘り出す、掘り起こす」という意味もあります。まさに、二人の斥候が得た情報は、すでにエリコの町の住民がイスラエルの神がなされたをことを知って「心がしなえて、戦う勇気がなくなっている」ということでした。戦いにおいて敵を知るという意味では、きわめて重要な内部情報でした。聖書は同じ「探る」という動詞を民数記13章では「トゥール」(תּוּר)、ヨシュア記2章では「ハーファル」(חָפַר)というように使い分けているのです。

3. 「偵察」の報告による二つの結論

  • カナンの地に遣わされた12人が40日間にわたって調査した結果の報告によれば、二つのことが明らかとなりました。第一の情報は、神の与えた地が「乳と蜜の流れる地」であること、つまりその土地はきわめて肥沃であるということでした。その証拠として、彼らはふたりの者が棒で担がなければならないほどのぶどうの房(一房)を持ち帰りました。第二の情報は、その地に住む民は力強く非常に大きいこと、しかも、町々は城壁で囲まれているということでした。
  • この二つの情報を下に、二つの異なる結論が出ました。
    ひとつは(ユダ族のカレブの判断)、「ぜひとも上って行き、そこを占領しよう。それができるから」というもの。もうひとつの結論は、「私たちはあの民のところに、攻め上れない」というものでした。
  • きわめて常識的な判断から、カナンの地を偵察した結果がふたつに割れたのです。しかも(2対10)です。多数決によれば、「神がすでに与えてくださっている地を自分たちのものにはとてもできない」という結論に傾きました。これでは何のために神が彼らをエジプトの地から連れ出されたのか、皆目、わからなくなってしまうことになります。常識的によかれと思ってしたことが、大変な事態(結論)を招いてしまったことになります。

4. 新約における霊的教訓

  • 新約の時代にいる私たちにとって、この民数記13章の出来事はどな教訓を与えているのでしょうか。
  • 使徒ペテロはその第一の手紙3章9節において、「私たちは祝福を受け継ぐために、召されたのです」と記しています。。その「祝福」とは、神がキリストにおいて与えられた「天にあるすべての霊的祝福」のことです。この祝福こそ、私たちの歩みを確固として支えるところのものです。ですから、「天にあるすべての霊的祝福」を掘り起こす必要があります。これは私たちが「座す」こと、つまり、瞑想を通してはじめて自分のものとすることができます。
  • アンドリュー・マーレーという人は、「瞑想することを怠る時、教会は必ず衰退する。」と言いました。瞑想の目的は、私たちがすでに神がキリストを通して獲得してくださった「天のすべての霊的祝福」にあずかるために、聖書のみことばの中からそれを掘り起こすことです。それは常に地道な営みであり、きわめて集中力のいることなのです。ですから、生活をシンプルにし、規則正しく、日々、神との交わりを深めていく必要があります。特に、みことばの奉仕に召された者は、使徒パウロが愛弟子のテモテに勧告したように「熟練した者」、すなわち「真理のみことばをまっすぐ解き明かす、恥じることのない働き人」として、自分を自発的に神にささげるよう務め励まなければならないのです。そのことを肝に命じながら、歩みたいと祈ります。

2012.1.31


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