****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

完全な成長を願われる神

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1. 完全な成長を願われる神

【聖書箇所】1章1~8節、12節

ベレーシート

  • ルターが「藁(わら)の書」と呼んだヤコブの手紙をこれから学んでいきます。なにゆえに、この手紙をルターが「藁の書」と呼んだのかと言えば、この手紙には十字架とか復活とか、血潮といったキリスト教の基礎的な事実が何一つ書かれていないからです。しかしこの手紙は、むしろそうした教理的なことを前提としながらも、むしろこの世においてキリスト者として生きる実際的な知恵について書かれているのです。
  • 人が神に立ち返り、イェシュアを信じて救われるのは瞬時にして起こり得ます。しかし成長は瞬時には起こり得ません。成長するには時間がかかります。神の国においては、だれであっても、信仰者としての幼子から出発することを余儀なくされているのです。つまりすでに信仰によって救われた者がいかに成長し、実際的な生き方を身に着けるか、その実際的な知恵について書かれたものだとすれば、この手紙は価値のあるすばらしい書だと言えます。
  • まずはこの手紙が、誰から誰に向かって書かれたものかを見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】ヤコブの手紙1章1節
神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。


1. この手紙の発信者と宛先

(1) 発信者ヤコブ

  • 新約聖書では「ヤコブ」という名前を持つ人が以下のように、何人かいます。

    ①ゼベダイの子ヤコブ、使徒ヨハネの兄(マタイ4:21)。大ヤコブとも称される。
    ②アルパヨの子ヤコブ(マタイ10:3)
    ③イェシュアの母ではないマリヤの子のヤコブ(マルコ15:40, 16:1)。小ヤコブとも称される。
    ④主の兄弟であり(マタイ13:55、27:56)、かつ使徒でもあったヤコブは、エルサレム教会の中心的な人物であり、エルサレム会議において議長も務めています(使徒15:13~21)。Ⅰコリント15章7節ではキリストがヤコブに現われたとあります。このヤコブこそ「ヤコブ書」を書いた著者です。


(2) 手紙の宛先―国外に散っている12の部族

  • 手紙の宛先は「国外に散っている12の部族」です。「国外に散っている12部族」とは、一義的には「離散しているメシアニック・ジュー」、つまり、イェシュアをメシアと信じるユダヤ人(メシアニック・ジュー)のことです。しかし彼らは新約時代における「キリストの教会」、あるいは「神の教会」の構成メンバーです。教会の構成メンバーとは、メシアニック・ジューとイェシュアを救い主と信じる異邦人クリスチャンから成っています。ですから、この手紙の内容は「教会」に対して書かれたものであると理解しても良いのです。ユダヤ人の視点からすれば、「教会」は異邦人クリスチャンの存在も含めた新たな意味における「神のイスラエル」(ガラテヤ6:16、黙示録7:4~8、21:12~21)、つまり、「国外に散っている12の部族」とも言えるのです。
  • 当時、イスラエルの民はすでに世界各地に離散していましたが、エルサレムから始まった教会に対する迫害によって、さらに拍車がかかりました。「離散者」のことをギリシア語で「ディアスポラ」(διασπορά)と言います。「ディアスポラ」は、「種を蒔く」という意味の「スペイロー」(σπείρω)の強調形で、「散らす」という意味の「ディアスペイロー」(διασπείρω)に由来します。離散することは、苦難の象徴です。しかし、離散した者たちがユダヤ人の会堂を拠点として、福音の種を蒔いていったことを考慮するならば、実に、福音の種は逆境を通して蒔かれていったとも言えるのです。

2. 成長したキリスト者を造る神の方法

  • どんな親でも、自分の子どもが成長していくのを見るのは嬉しいことです。成長記録を撮るためにいのちをかけている親もいます。運動会、学芸会(学習発表会)では、自分の子の活躍ぶりを撮ろうと、高価なビデオの機器がズラリと立ち並ぶ光景はなんとも異様な光景です。少子化時代を迎え、ますます子どもがアイドルとなっています。たとえそのような親がいなかったとしても、録画の機器がなかったとしても、成長することをだれよりも深く願っておられる方がいます。それは神です。たとえあなたが「自分はそれほど成長しなくてもいい」と思っても、あなたにいのちを与えられた神は、この世に生き続ける限り、ずっと成長し続けることを望んでおられるのです。霊的な大人として、成熟したキリスト者として。また、成長を望んでおられるだけでなく、成長させるためのあらゆる手段を施そうとしておられます。それゆえ、私たちはそのことを受け入れなければなりません。

(1) 成長した人の特徴のイメージとは

① 豊かな受容性を持っているー神に対しても、人に対しても、そして自分に対しても。
② バランスが取れているー知性、感性、意志において。
③ 満足感をもって生きているー置かれた状況が何であろうとも、平安と喜びと感謝を持って生きている。

(2) 成長をもたらす神の手段とは

  • こうした成長・成熟への有効な手段として神が私たちに与えているものは「試練」です。2~4節に次のように記されています。

【新改訳改訂第3版】ヤコブ書1章2~4節
2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。


  • ある人は、信仰を持てば苦しいことがなくなると期待しています。苦しみの中で神を求めて教会に通うようになり、やがて信仰を持つようになっても、苦しみがなくならないと、そのことで納得できないという人がいます。聖書の教える信仰とは、信仰の結果として苦しみがなくなるということではなく、たとえ苦しみの中にあっても喜び、感謝できるものを内に持つことができるようにさせる力なのです。確かに、神は私たちから困難を取り除いて下さる方でもありますが、いつもそうであるとは限りません。聖書は「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」とあります。信仰者といえども、「さまざまな試練」があるのです。健康面での試練、経済的な面での試練、人間関係での試練、能力的な面での試練など・・。人の目に明らかな試練もあれば、だれにも分かってもらえないような試練もあります。一般に、試練とは、苦しいこと、嫌なこと、思うようにいかないこと、途方に暮れること、不幸と思えること、悲しいこと、不条理なこと、思い煩う状況など・・です。しかしそこから学ぶべきことは多く、反対にうまくいっていることから学ぶことは意外と少ないのです。
  • 聖書は実に現実的です。というのは、キリスト者を成長させる試練は必ずあるのです。ですから、「さまざまな試練に会うとき」に、それにどのように対処すべきかも示されています。なんと聖書は試練を「この上もない喜びと思いなさい」と教えています。イェシュアも弟子たちに向かって、「あなたがたは世にあっては患難があります」と言われました。「試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思う」というのは、逆転の発想です。普通では喜べるはずがありません。理性や感情は反発します。苦しいことを喜べというのは不自然です。しかし聖書はそれがもたらす効用について語っています。

(3) 試練の効用とは

  • 試練の効用とは、信仰が試されることで、忍耐が生じるというものです。ある人はそれを数式で表しています。

信仰×試練=信仰―かす+忍耐=完全に成熟したキリスト者

  • 今日の生活は「コンビニライフ」と言われるように、いつでもどこでも簡単にものが手に入る時代です。ちょっとボタンを押せばお湯が出てくる。部屋がすぐに暖かくなる、といった仕組みの中で生きています。ですから、寒さ一つ取ってみても我慢することなく生活できます。我慢しなくてもすむような生活があらゆる形で手にできる状況になっています。しかし聖書は、忍耐することは私たちにとって非常に大切な宝であり、品性であり、力であることを教えています。「忍耐」とは、単にじっと耐え忍び我慢している消極的なことではなく、いろいろな事柄を偉大なもの、栄光に満ちたものに変える能力なのです。神がすべてのことを働かせて益としてくださるという信仰、神が必ず成し遂げて下さるという信仰の忍耐を「完全に働かせる」ところに、信仰生活のすばらしさがあります。
  • 忍耐によって、私たちの信仰や人格は成長し、筋金入りとなります。神との関係がより深められます。忍耐という宝は、試練を通らなければ決して得ることができない尊い品性なのだということを心に留めましょう。

信仰の試練⇒忍耐が生じる⇒忍耐を完全に働かせる⇒成長を遂げた完全な者となる

  • 「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となる」というフレーズは、三つの同義的表現によって、強調されていますが、そのために「忍耐を完全に働かせる」という言葉の中に、キリストの再臨による完成という意味が含まれていると考えられます。
  • パウロも似たことを述べています。

    【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙5章1~5節
    1 ・・信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
    2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
    3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
    4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
    5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

  • 上記に記されている連鎖に注目しましょう。

    「患難を喜ぶ」⇒「忍耐を生み出す」⇒「練られた品性を生み出す」⇒「希望を生み出す」

  • この連鎖は信仰による奇蹟です。というのは、患難(苦労)する人が必ずしもみな成長するとは限らないからです。むしろかえって人間が悪くなり、利己的になってしまう人もいるからです。このような人の問題は、神の愛の注ぎの中で患難に会うというのではなく、苦労を自らの力で克服しようとする中で、自分への誇りが強まったからです。ですから、「希望を生み出す」ようになるためには、聖霊の助けによって神の愛の注ぎを自覚する必要があるのです。そこに患難が二極化していく分岐点があります。
  • 神に用いられた偉大な人は、みな多くの試練を経験させられています。例えば、

    ①アブラハム
    偉大な信仰の父と言われるまで、少なくとも35年はかかっています。主に召された75歳から愛する子
    イサクをモリヤの地に連れて行った頃まで。


    ②ヤコブ
    兄エサウと父イサクをだまして長子としての祝福を受けた後、母リベカの兄ラバンのもとに行きますが、
    ラバンにだまされて14年間無償で働く。ラバンをだまして故郷へ帰ろうとしたとき、兄エサウが迎えに
    来るという知らせを聞いて恐れにとらえられる。さまざまな肉策を試みるが、不安は増すばかり。御使
    いとの戦いで彼は砕かれ、イスラエルとなる。


    ③モーセ
    彼の生涯は120歳。最初の40年間は肉による自己確立時代。次の40年間は自己崩壊。以後の40年間
    は神による自己確立。神によって自己確立するまで(つまり使命が与えられるまで)80年間を要した。

  • 「忍耐」-それは神のご計画を待つ心、神のご計画にゆだねる心、神に信頼する品性を養うために不可欠です。この品性を養うために、神は私たちに試練を通させられるのです。個人だけでなく、教会が成長するためにも神は試練を通させるのです。純度の高い金や銀を造るためには、火で精錬して不純物を取り除くのです。不純物を取り除いて、私たちをキリストの似姿にするために、試練によって精錬されるのです。だから、「喜ぶ」ことができるのです。12節には、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」とあります。

3. 神の知恵を求めよ

  • 神の目から見るならば、試練の中には「喜ばしい」ことしかありません。それ以外の何ものも含まれていないのです。ところがサタンはさまざまな偽りと欺きの思いを持ってきます。私たちの前に起こることはすべて神の御手の中にあるのです。それゆえ、神にあっては良いことしかないのです。ところがcれがなかなか見えてこないのです。そこで、ヤコブは以下のように、知恵を祈り求めることを促しています。

【新改訳改訂第3版】ヤコブの手紙1章5~8節
5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

  • 試練を喜びと受けとめることができるためには、上からの知恵を必要とします。キリスト教の歴史において、アウグスチヌスという偉大な神学者がいます。彼は「秩序」という本の中でこう述べています。「世の中の矛盾にのみ目を留めることは、刺繍の裏側を見ているようなものである。そこには乱雑な糸が折りなされていて、それが何を表わしているのか全く分からない。しかし、その表側を見るとき、そこにはじめて美しいデザインや模様が描かれていることが分かる。この表側を信仰によって見ることが上からの知恵である。」と。
  • こうした知恵を、「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と勧めています。この「願いなさい」という言葉は、現在命令形で「願い求め続けなさい」という意味です。イェシュアが「神の国とその義とを第一に(熱心に)求め続けなさい」と語った「ゼーテオー」(ζητέω)とは異なる動詞の「アイテオー」(αἰτέω)が使われていますが、意味としてはほとんど同じです。英語訳では、前者がseek、後者はaskと訳し、ヘブル語訳は「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)と「バーカシュ」(בָּקַשׁ)が当てられています。神に知恵を求め続けるなら、必ず与えられるのです。ただし少しも疑わずに求めるならば、です。

1996.10.20 改訂2017.11.16


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