****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

大迫害がもたらした拡散の恵み

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11. 大迫害がもたらした拡散の恵み

【聖書箇所】 8章1節~40節

ベレーシート

  • 「殉教者の血は種である」と言われるように、この神の摂理の法則は、多くの実をもたらしました。ステパノの死がどれほどの恵みをもたらしたかを考える時、まさにイエスが言われた「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」ということばが真実であることを受けとめざるを得ません。
  • ステパノの殉教によってエルサレムではその日に大迫害が起こりました。12人の使徒以外の者はすべて各地に散らされてしまったか、あるいはサウロによって捕えられて、牢に入れられました。散らされた人々は福音を宣べ伝えながら、巡り歩いて行ったことが記されています。その中にピリポという有能な弟子がいたのです。彼は8章の中心人物となっています。
  • 使徒の働き8章は三つの部分から成っていますが、ヘブル的・ユダヤ的視点から見てみたいと思います。
    (1) サマリヤでの福音宣教の意味
    (2) エルサレムの中心性
    (3) エチオピアの宦官が救われたことの意味

1. サマリヤでの福音宣教が意味すること(4~8節)

  • 初代教会の世話役に選ばれた七人の者の一人であるピリポはサマリヤの町において福音を宣べ伝え、しるしと不思議なわざとによって多くの者をイエスの救いへと導きました。そもそも、ピリポがサマリヤに行ったことが重要です。当時は、ユダヤ人とサマリヤ人とは歴史的因縁をもった犬猿の仲であり、両者が交わることは通常ありませんでした。
  • イエスがある時、サマリヤを通り、ひとりの女性と出会うことによって、その町の多くの者たちがイエスを信じましたことがありましたが、その時には12使徒のピリポはそこにいましたが、世話役のピリポ(後に「伝道者ピリポ」と呼ばれたようです)はおりませんでした。ですから、おそらくピリポは迫害後にはじめてサマリヤを訪れたに違いありません。しかしイエス・キリストの福音には人種的・民族的バリアを越えさせる力があることをピリポの働きを通してあかしされました。

2. エルサレムの中心性(9~24節)

  • サマリヤの町はピリポによって福音が伝えられまで、多くの人々が魔術によって騙されていました。その魔術によって多く人々から関心を持たれていたシモンという人物は、自分以上に驚くような奇蹟をするのを見て、自分自身もイエスを信じて、洗礼を受けました。サマリヤの人々が福音を受け入れて信じたという報告を受けたエルサレムの使徒たちは、ペテロとヨハネをそこへ遣わしました。
  • ここで一つの突っ込みです。「なぜ彼らはエルサレムからサマリヤへ行く必要があったのか」ということです。ピリポが授けた洗礼が有効なものではなかったからでしょうか。いいえ。確かに、彼らがサマリヤに行ったとき、彼らは何か欠落しているように思い、「聖霊を受けるように祈りました。」ーこればどういうことでしょう。イエスが主であることを信じるためには聖霊の働きが必要です。にもかかわらず、何かが足りなかったのです。ペテロとヨハネが人々の上に手を置くと、「彼らは聖霊を受けた」(8:17)とあります。しかもそれは目に見える形で現われたことを18節が示しています。それはおそらく「異言を語った」のを見たと考えられます。魔術師であったシモンは、自分が手を置いた者がだれでも聖霊が受けられるように、その権威をお金で買おうとしたとき、使徒シモン・ペテロから厳しいさばきのことばを聞かされます。面白いことに、使徒のシモン・ペテロの前に、小さくなっているかつての魔術師シモンがいます。おそらくここで魔術師シモンは正しく悔い改めたに違いありません。
  • 9~24節に記されている出来事で重要なことは、エルサレムからわざわざ使徒ペテロとヨハネが遣わされたということです。このことが意味することは、エルサレムの中心性ということです。福音はエルサレムから宣べ伝えられ、その語られる内容もすべて使徒的権威の下から流れているという事実です。教会の母体は常にエルサレムにあり、エルサレムは神のご計画の中心的位置に属しているからです。神のご計画はエルサレムから始まり、エルサレムに終結します。このことを示す出来事が使徒ペテロとヨハネの派遣です。使徒パウロもやがて異邦人伝道に携わりますが、パウロはその働きの報告をエルサレムの教会(使徒たちに)しています。エルサレムは教会の中心だからです。それは今日においてもなんら変わりません。むしろ、エルサレムの中心性は、ユダヤ人のみならず、その枝に接木された異邦人においてもますます顕著になりつつあります。

3. エチオピアの宦官が救われたことの意味

  • 26節~40節のピリポによるエチオピアの宦官の救いの話は、個人伝道のテキストとしてしばしば用いられます。しかしこの出来事をヘブル的・ユダヤ的視点が見るならば、驚くべきことが啓示されています。ピリポがエチオピアの宦官に出会ったことは決して偶然ではなく、歴とした神の必然的ご計画であったことが分かります。それは、ピリポが主の御使いによって「ガザに下る道に出よ」と語られたからです。
  • その神の計画を説明する前に、宦官が読んでいた聖書の箇所がイザヤ書53章で、そこに登場する「主のしもべ」はだれのことかと質問されたときに、ピリポが即座にそのしもべとは「イエス」であることを教えていることです。つまり、ここでの「しもべ」が神の御子イエス・キリストであるいう解釈は、エルサレムの教会、つまり使徒たちの見解だったということです。使徒的権威の下でピリポが答えているということです。初代教会においては、すべての弟子たちが「使徒たちの教えを堅く守」っていたのです。それほどに使徒たちに与えられた権威は大きかった言えます。教会の内部に様々な問題が生じたときにも、使徒たちは「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。」と述べ、教会の問題に対処するために、聖霊と知恵とに満ちた評判の良い人七人を選ぶようにし、自分たちは「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにする」という提案は、単なる働きの分担を導入したということだけでなく、教会における使徒性とその権威を確立させていく務めを優先させ、そこに専心するためと考えられます。
    伝道者ピリポはその権威の下で、使徒たちの旧約聖書の解釈をエチオピアの宦官にしたことが重要な点です。
  • もうひとつ、ここの箇所における重要な点は、「宦官」が救われているということです。なぜ「宦官」がここで登場しているのか。そこには深い真理が啓示されています。
  • 申命記21章を見ると次のように記されています。

    【新改訳改訂第3版】申命記 23章1~4節
    1 こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、【主】の集会に加わってはならない。
    2 不倫の子は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、【主】の集会に加わることはできない。
    3 アモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、【主】の集会に、入ることはできない。
    4 これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。

ここには主の集会(例祭)に加わってはならない者たちのリストがあります。1節の規定は「宦官」に当てはまります。使徒の働き8章に登場する宦官はおそらく、かつてエチオピアに離散したユダヤ人のひとりと思われます。その国で出世して女王のカンダケに仕えるために、不本意に「宦官」とならざるを得なかった者です。主の集会には加えられなくとも、神に対する信仰は熱心で、かつ巻物としての聖書を個人で持っている人ですから、裕福な人であり、信頼を得ていた人と言えます。

ピリポのイザヤ書の解き明かしによって彼はイエスを信じてバプテスマを受けました。つまりこの出来事は新しい時代が到来したことを物語っているのです。イザヤ書56章3~4節にこうあります。

新改訳改訂第3版 イザヤ書56章
3 【主】に連なる外国人は言ってはならない。「【主】はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
4 まことに【主】はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

新しいメシアの時代には、宦官も主の集会に加えられることが約束されているのです。その新しいメシアの時代が到来していることを現わす象徴的な出来事こそ宦官のバプテスマだったのです。伝道者ピリポはその神の計画を担わされた人物として用いられたのです。

  • やがてエチオピアという国はキリスト教国となって行きますが、その最初のキリスト者がここに登場した宦官であったのかも知れません。

2013.3.7


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