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大祭司が至聖所に入る日、その方法と目的

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

13. 大祭司が至聖所に入る日、その方法と目的

ベレーシート

  • レビ記16章は1節に「アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが【主】の前に近づいてそのために死んで後、【主】はモーセに告げられた。」とあるように、10章から続いています。そして、モーセの律法の中でもきわめて重要なこと、すなわち「贖罪の日」の規定について記されています。「贖罪の日」(「ヨーム・ハッキップリーム」יוֹם הַכִּפֻּרִים)という名称は、23章の「主の例祭」の記述の中で初めて登場します(23:27, 28)。

1. 「かってな時に」至聖所に入ってはならない

【新改訳改訂第3版】レビ記16章2節
2 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。

  • 「かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って・・はならない」とあります。ということは、そこに行くための「定められた時」があることを示唆しています。「垂れ幕の内側の聖所」とは「至聖所」のことです(2節以外にも、16, 17, 20, 23, 27節にある「聖所」はすべて「至聖所」のことです)。また、「箱」とは「契約の箱」のことです。ここでは至聖所に入る時の規定が示されようとしています。至聖所に入ることのできるのは大祭司だけであり、しかも年に一回限りです。
  • 「かってな時に」を口語訳は「時をわかたず」としています。原文は「ヴェホル・エーット」(בְכָל־עֵת)で「いかなるときも」(バルバロ訳)ですが、これでは決して入ってはならないと理解されるため、新共同訳では「決められた時以外に」、フランシスコ会訳は「定めの時以外に」と意訳しています。いずれにしても、その理由は「死ぬことのないため」です。時の区別です。
  • 16章には「死ぬことのないため」というフレーズが13節にもあります。そこでは「至聖所に火皿(香炉)を持って入り、香から出る雲(=煙)が至聖所の『贖いのふた』をおおうようにする」とあります。おそらくそこは神が臨在される場所ですから、神の顔を見ると死ぬということがあったと考えられます。もう一箇所、4節にアロンが聖所に入る場合は聖なる装束を着なければならないことが記されています。それは「死ぬことのないため」です。直接的な表現はありませんが、出エジプト記28章43節には次のように記されています。

【新改訳改訂第3版】出エジプト記 28章43節
アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って、死ぬことのないためである

  • それゆえに、祭司たちが聖所に入って主の務めを果たすためには、主の命令を厳格に守らなければならなかったことが分かります。もし主の命令をないがしろにした場合には、必ず「死ぬ」のです(創世記2:17)。「時・場所・もの」の聖別を通して、神が「聖なる方」であることがより明確にされています。それゆえ神の前に近づく者は、神が「区別される」神であることをよくよく知らなければなりません。
  • 大祭司が至聖所に入ることのできる日は、レビ記16章34節に記されているように、「年に一度」限りです。なにゆえに「年に一度」だけなのでしょうか。それはイスラエルの民の罪の贖いの有効期間が一年だからです。それゆえ、毎年、それが行なわれるように「主の例祭」の中に位置づけられているのです。しかしこの「年に一度」という規定は、やがて大祭司となられるイェシュアによって「ただ一度」、ご自身の血による永遠の贖いが成し遂げられることの「」であったのです。

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙9章25~26節
25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。


【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙10章10~14節
10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。


2. 贖罪の日にアロンがなすべきこと

  • 贖罪の日には、大祭司アロンは次のようにして聖所に入らなければなりませんでした。

(1) 自分自身と家族の贖いのために

  • 大祭司は自分自身の罪の贖いのために、「罪のためのいけにえ」として若い雄牛(「パル」פַּר)と「全焼のいけにえ」として雄羊(「アイル」אַיִל)を携える必要がありました。「罪のためのいけにえ」は自分の家族のための贖いをも含んでいました。

【新改訳改訂第3版】レビ記16章11~14節
11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。
12 【主】の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
13 その香を【主】の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。
14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。


●11~14節にはいくつかの手順が記されています。
① 罪のためのいけにえとなる「雄牛」をほふる。

②「主の前の祭壇」、すなわち「香壇」にある「火皿」(香炉)と両手いっぱいの香を取って、垂れ幕の内側にそれを持って入り、至聖所を香の煙で満たすようにする。それは罪ある人間がそこに顕現される神を直接見て死なないためです。大祭司アロンが至聖所に入るのはここが最初です。

③ほふった雄牛の血の一部を、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかける。それは主が顕現される場所をきよめるためです。大祭司アロンが至聖所に入るのはここで二度目です。

(2) 普通の祭司の衣服を身に着ける

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【新改訳改訂第3版】レビ記 16章4節
聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。


●一年のうちで最も聖なることをする「贖いの日」には、大祭司は大祭司の装束ではなく、普通の祭司の装束を身に着けなければなりませんでした。

(3) 民のための贖いのために

  • 二頭のやぎ(雄やぎを意味する「サーイール」שָׂעִיר)を「会見の天幕の入口」(=聖所)の前に立たせるのは、民の罪のための贖いをするためです。16章7~10節にあるように、くじを引いて、一頭を「主のため」に、もう一頭を「アザゼルのため」としました。「主のため」のやぎは「罪のためのいけにえ」としてほふられ、神の民のすべての罪と聖所全体の贖いをします。一方の「アザゼルのため」のやぎはイスラエルの民のすべての咎、そむき、罪を背負って、生きたまま荒野に放たれることで贖いをしました。

【新改訳改訂第3版】レビ 16章10節
アザゼルのためのくじが当たったやぎは、【主】の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

画像の説明

【新改訳改訂第3版】レビ記16章21~23節
21 アロンは生きているやぎ(=雄やぎ「サーイール」שָׂעִיר)の頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
22 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地(גְּזֵרָה)へ行く。彼はそのやぎを荒野(מִדְבָּר)に放つ。


2016.5.28


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