****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

大きな魚の腹の中で悔い改めたヨナ

文字サイズ:

5. 大きな魚の腹の中で悔い改めたヨナ

ベレーシート

  • 「大きな魚」の腹の中にヨナは三日三晩いました。「三日三晩」は長いのか、それとも短いのか、分かりません。主を知るための「三日三晩」は短すぎるでしょう。しかし生きるか死ぬかの危機的な状況においては「三日三晩」は限界の境界線かもしれません。
  • ヨナは「大きな魚の腹の中から」、神である主に向かって祈ったのです。今回はその祈りを瞑想してみたいと思います。まずは、海の真ん中の深みに投げ込まれたヨナの状況をまとめてみましょう。

【新改訳改訂第3版】ヨナ書2章3b, 5~6節
3 潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。
5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。
6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。

  • これらが大きな魚の腹の中で起こっているのです。「ピノキオ」に出て来る大きな魚はこのヨナ書から取られていると言われますが、まさにヨナにはどうすることもできない絶望的な状況です。その中でヨナはどんな祈りをしたのでしょうか。

1. ヨナの願い、ヨナの叫び

【新改訳改訂第3版】ヨナ書2章2節
私が苦しみの中から【主】にお願いすると、主は答えてくださいました。
私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。


願った」(「カーラー」קָרָא) ⇒「答えた」(「アーナー」עָנָה)
叫んだ」(「シャーヴァ」שָׁוַע) ⇒「聞いた」(「シャーマ」שָׁמַע)

  • 2章2節は同義的パラレリズムになっています。これはこの2章の結論と言えます。果たして、ヨナの願い、ヨナの叫びとは、具体的にどのような内容だったのでしょうか。それが4節(新共同訳は5節になっています)のかぎ括弧の中にあります。但し、新改訳と新共同訳とは内容が微妙に異なっています。

【新改訳改訂第3版】
2:4 私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。
しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです』と。

【新共同訳】
2:5 わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。
生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと

【口語訳】
2:4 わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、
どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか

  • ヨナは2章の祈りの中で主に願い、主に叫んだのですから、それにふさわしい訳としては、新改訳の「しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。」という訳が適訳のように思われます。とはいえ、新共同訳の「わたしは思った・・・・。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。」という訳も、ヨナの心情としてなかったのかといえば、うそになると思います。このアンビバレントな心情が真実なところだと思われます。「しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」というヨナの願いは主に答えられ、主に聞かれたのです。
  • ところで、ヨナはなぜ「聖なる宮を仰ぎ見たい」と表現したのでしょうか。「聖なる宮」というフレーズは旧約に9回ありますが(新改訳)、これは「ダビデの霊性」をうかがわせるものです。「聖なる宮」とは、神ご自身であり、神の家、神の臨在、主の住まれるところ、主のすべての御名があるところという意味で、そこを仰ぎ求めることはダビデの霊性につながることを意味します。

【新改訳改訂第3版】詩篇27篇4節
私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。
【主】の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。


【新改訳改訂第3版】詩篇65篇4節
幸いなことよ。
あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。
私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。


2. 主を「思い出した」ヨナ

  • ヨナが危機的な状況に置かれたときを、新改訳は「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき」と訳し、新共同訳は「息途絶えようとするとき」と訳しています。まさに危機的、絶望的な状況の中で、ヨナは主を「思い出した」(新改訳)と言っていることが重要です(2:7)。なぜなら、人が自分の罪ゆえに引き起こされた不安と苦しみに襲われたとき、それまでの主とのかかわり(経験によって記憶された主の御名のすばらしさ)がものを言うからです。そのことが、先ほどのヨナの願いと叫びの根底にあったことで、ヨナの祈りが「聖なる宮」に届くことができたのだと思います。
  • ヨナの祈りには、「立ち返る」とか「悔い改める」という語彙は使われていません。しかしそのような語彙がなかったとしても、ヨナのうちにある「聖なる宮を仰ぎ見たい」という希求こそ、ヨナの悔い改めとみなすことができるように思います。
  • 主にある者でも失敗や過ちを犯します。神に対して罪を犯しますが、「しかしもう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たい」と言って主に立ち返るとき、主が、魚に命じてヨナを陸地に吐き出させたように、私たちを滅びの穴から引き上げてくださることを信じたいと思います。この時点ではまだヨナは異邦人が救われるということを受け入れてはいません。主の御顔を避けるということがなくなったとしても、神のみこころを知ってそれを受け入れることへの取り扱いはまだ残されているのです。

2015.5.16


a:6444 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional