****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

地の安息とヨベルの年(続)

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

26. 地の安息とヨベルの年 (続)

ベレーシート

  • レビ記25章23節以降は、土地に対する「買い戻しの権利」(「買い戻される権利」)について記されています。その権利があるということは、土地が主のものであり、主が賦与されたものであるということに基づいています。なんらかの事情で神から与えられた土地を手放さなければならなかったとしても、土地の場合には「買い戻す」ことができるのです。しかも「ヨベルの年」には、すべてがリセットされて、それぞれ自分の所有地に帰る(戻る)ことができるというものです。
  • 土地以外のものとして「家」の場合、城壁のある町の中にある家は満一年までに買い戻さなければ、その権利は喪失すること。それ以外の家の場合は、いつでも買い戻す権利があり、ヨベルの年には戻ってきます。他の条項として、「レビ人の土地」には買い戻しの権利があり、ヨベルの年にはレビ人の町々の家は本来のレビ人に戻ってきます。
  • その他、身売りした兄弟がいる場合、買い戻す権利とともに、買い戻す権利のある者の資格(一族の近親者)についても記されています。重要なことは、ヨベルの年の恵みが前提となっていることです。きわめて珍しい権利ですが、その根底には「彼らは、わたしがエジプトから連れ出したわたしのしもべ(奴隷)だからである。わたしはあなたがたの神、主である」というかかわりがあります。ヨベルの年の規定は、主が土地と人の真の支配者(所有者)であることを、約束の地で具体的に教えるものであるということです。実際、そうしたことがイスラエルの歴史の中でなされたという記録は旧約聖書の中に見ることができません。その意味では、真の「ヨベルの年」はいまだ据え置かれているということです。
  • 以下のことは、レビ記25章を瞑想していて気づかされたことです。

1. 「エデンの園の回復」とは「主の安息の回復」であること

  • 神の救済の歴史の目的は「エデンの園の回復」「エデンの園の祝福を取り戻す」ことだと言えますが、それを別の言葉で言い表すなら、「主の安息の回復」だと言えます。
  • 神がイスラエルの民をエジプトから救い出した後、50日目にシナイ山で彼らに「トーラー」を賦与します。その「トーラー」の中に、「安息日」についての規定が記されています。十戒の中の第四戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出20:8)とあります。「聖なる日」とするとは、他の日と区別することを意味します。なぜなら「七日目は、あなたの神、主の安息である」からです。この戒めは創世記2章1~3節の神が宣言されたことに依拠しています。

【新改訳改訂第3版】創世記2章1~3節
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
†2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
†3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。


●†印は改訂された部分です。

●神の天と地の創造の目的は、創世記2章1~3節に要約されています。ということは、主の安息の規定の中に、神の永遠のご計画とみこころ、御旨と目的が隠されているということです。したがって、この部分を正しく理解することが不可欠です。

●「完成した」(「カーラー」כָּלָה)と「休んだ」(「シャーヴァット」שָׁבַת)、いずれも神を主体とした動詞ですが、この両者はきわめて密接な関係にあります。ちなみに、「カーラー」は名詞になると「花嫁」という意味を持ちます。また「破滅」という意味も合わせ持っています。動詞の「カーラー」(כָּלָה)は、ヘブル語特有の両義性(反意)をもった語彙なのです。

●主は「第七日目」を特別に「祝福し」「聖別され」ました。なぜなら、神がすべての創造を「休まれた」からです。この「休まれた」ということが第七日目を特別に祝福し、聖別した理由です。創造の目的は神が「休まれる・安息する」ということです。それが「主の安息日の制定」の根拠となっています。

●神にとっては「安息」のすべてがすでに完了しているのですが、同時に、これらは預言的完了形とも理解することができます。つまり、まだ実現していないことが将来において必ず実現するという含みもあるということです。ヘブル語の完了形は時系列において物事が完了した状態を事柄の完了形を意味すると同時に、神のご計画(ヴィジョン)においてやがて完全に実現された状態をも意味します。ですから、神の世界は私たちの感覚とは全く異なっているのだということを知る必要があります。

●「休まれた」というその内実として、2章15節には「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」とあります。8節の「置く」はある場所に設置するというヘブル語の「シーット」(שִׁית)ですが、15節の「置く」は「休む、安息する」を意味する「ヌーアッハ」(נוּחַ)という動詞が使われています。

●ダビデが「主は私を・・いこいの水のほとりに伴われます」と歌ったその「憩い」は、「ヌーアッハ」(נוּחַ)の名詞「メヌーハー」(מְנוּחָה)が使われています。また、イェシュアの有名な招きのことばである「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。・・わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28~29)の「休ませてあげる」も「ヌーアッハ」で、「安らぎ」は類義語の「休息する・憩わせる」を意味する「ラーガ」(רָגַע)の名詞「マルゴーア」(מַרְגּוֹעַ)が使われています。「ラーガ」には「一瞬のうちに・またたくまに」というニュアンスがあることも重要です。なぜなら、ここにはイェシュアが再臨された時のことが語られているからです。主の「休ませてあげよう」という約束があり、その主とくびきを共にし、主に学んでいくなら、やがて主の再臨の時に「またたくまに・一瞬にして、安らぎが来る(与えられる)」のです。安息と再臨は切っても切れない関係にあります。約束の保証があっても、その完全な実現は将来なのです。私たちが今現在経験できるのは、その完全な安息の味見程度です。ですから、「主よ。来てください。」と祈るのです。そのために御霊もとりなしてくださるのです。

●エデンの園の回復とは「人が主にあって安息する場の回復」と同義です。エデンの園の回復は主の安息の実現(完成)と同義なのです。つまり「主の安息」は神の創造の究極的目的であると言えるのです。聖書の歴史はその「主の安息」という究極的な目的に向かっていきます。「安息日の制定」、「主の安息年」、そして「ヨベルの年」もそのことを示す「型」だということです。


2. イェシュアの働きと「安息日」の関係

  • イェシュアの来臨の目的が主の安息を実現することだとすれば、そのことを教えるために主が安息日になされた働きを思い起こす必要があります。なぜなら、イェシュアは安息日を汚したという理由で殺されたからです。
  • イェシュアはエルサレムのベテスダと呼ばれる池で、38年もの間、病気にかかっていた人を癒されました。ところが、その日が安息日であったために、それを見たユダヤの宗教指導者たちは大変怒り、イェシュアを迫害するようになりました。十戒には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出20:8)とありますが、ユダヤの指導者たちが安息日について多くの細則を作ったため、それによって安息日にはほとんどの行動が禁じられるようになりました。ですから、指導者たちは病気が癒された人に対して「きょうは安息日だ、床を取り上げてはいけない。」と言いました。当然、安息日に「床を取り上げて歩け」と言ったイェシュアも律法違反ということになります。それに対してイェシュアは、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」と言われたのです。その言葉を聞いた指導者たちはますますイェシュアを殺そうとするようになりました(ヨハネ5:18)。また、イェシュアが安息日の規則を破っていただけでなく、自分を神と等しくして、神を自分の父と呼んでいることにも腹を立てたのです。しかし、イェシュアは「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」と述べて、ますます自分が神のひとり子であることと、その使命を強調されたのです。このことがやがてイェシュアが殺される要因となりました。
  • ここで注目したいことは、イェシュアが「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」と言ったことです。これはどういう意味でしょうか。「安息日の制定」は神の民のものであって、神はすでに永遠の「安息」をご自身のご計画の中で堅く据えておられます。そのために、神ご自身にとっては、七日のうちの一日を「安息日」とする必要は全くありません。むしろ、私たち人間が「安息日を覚えて、聖とする」必要があるのです。というのは、永遠の完全な「主の安息」がすでに備えられているからです。そのことを信じ、それが必ず実現する時が来ることを信じて生きるためです。
  • ちなみに、ヨハネの福音書9章にも、イェシュアが泥を作って生まれつき盲人であった人をいやした記事が記されています。ところが、その日が安息日であったため、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言い、ほかの者は「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」と言い合って、彼らの間に分裂が起こったとあります。
  • 安息日の真意は「御国の福音」と深く関係しており、神のご計画の究極的な目的とも関係しています。つまり、安息日は終末論と密接な関係にあります。イェシュアの時代の聖書解釈が真のメシアであるイェシュアを死に追いやったように、神のご計画についての聖書解釈が、今日のキリスト教会の間に分裂を引き起こす可能性は十分に考えられるのです。




2016.6.29


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