****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

嘲弄されるイェシュア


120. 嘲弄されるイェシュア

【聖書箇所】マタイの福音書27章27~31節

ベレーシート

●前回のテキストの最後(27:26)に、「そこでピラトは・・・イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」とありました。「引き渡した」という語彙「パラディドーミ」(παραδίδωμι)はイェシュアが十字架につけられるという受難を意味します。そこに向かって、弟子のイスカリオテ・ユダも、ユダヤの宗教指導者たちも、ローマの総督ピラトも、以下のようにそこに巻き込まれていきます。

①【新改訳2017】マタイの福音書 20章18~19節
18「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します
19 嘲(あざけ)り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
②【新改訳2017】マタイの福音書 26章2節
「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
③【新改訳2017】マタイの福音書 26章15~16節
15こう言った。「私(イスカリオテのユダ)に何をくれますか。この私が、彼をあなたがた(ユダヤの宗教指導者たち)に引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
16そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。
④【新改訳2017】マタイの福音書 27章2節
そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した
⑤【新改訳2017】マタイの福音書 27章18節
ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
⑥【新改訳2017】マタイの福音書27章26節
そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した


●地的現実では、イェシュアを十字架につけるために引き渡したのはイスカリオテのユダ、祭司長たちや律法学者たち、総督ピラトのように見えます。しかし天的現実では、イェシュアを十字架につけたのは神ご自身なのです。とすれば、イェシュアを嘲弄し、からかわせたのも神ご自身と言えます。イェシュアの十字架とその恥辱のすべては、神に敵対する闇の力と支配を明らかにすると同時に、そこに支配されていた最初の人アダムを終わらせるための神の「定め」(「ホーク」חֹק)です。つまり、最後のアダムであるイェシュアが「第二の人」となって、神のご計画とみこころ、みむねと目的を実現するための神の「定め」だということです。そのような視点から、今回の「嘲弄されるイェシュア」の姿を見て行きたいと思います。

●今日のテキストを見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書27章27~31節
27 それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
28 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
29 それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった
30 またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。
31 こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。


1. 人々から完全に拒絶されたイェシュア

●十字架につけるためにイェシュアが連れ出される前、ローマの兵士たちによってからかわれたことが記されています。ユダヤ人からも、異邦人からも、完全に拒絶されて十字架につけられて行くイェシュアの姿が描かれています。これは預言者たちを通して神が語って来たことが実現しようとしているのです。今回のテキストにある「からかう」という語彙は「エンパイゾー」(ἐμπαίζω)です。新約でこのことばが最初に使われている箇所を見るなら、欺かれた者がどういうことをするのかを知るなら、空恐ろしくなります。

【新改訳2017】マタイの福音書2章16節
ヘロデは、博士たちに欺かれた(ἐμπαίζω)ことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。

●欺かれた(だまされた)ことを知ったヘロデは「激しく怒った」だけでなく、「二歳以下の男の子をみな殺させた」のです。ヘロデでなくても、人は同様の反応を取るかもしれません。

【新改訳2017】創世記21章8~10節
8 その子(=イサク)は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子(=イシュマエル)が、イサクをからかっているのを見た。
10 それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」

●8節には、アブラハムがイサクの乳離れの日に盛大な宴会を催したとあります。人が乳離れすることはその家族にとってとても幸いなことであったことがわかります。ところが、乳離れの日(三歳になる日)に、女奴隷のハガルの産んだイシュマエルがイサクをからかっているところをサラは目撃します。ここでの「からかっている」と訳されたことばは、悪意をもった「からかい」です。つまり、ふざけて戯れているのではなく、いじめです。それを見た母サラは不穏な空気を読み取り、夫アブラハムにハガルと子のイシュマエルを家から追い出すよう要求します。アブラハムは非常に苦しみますが、神はサラの要求を受け入れるようにアブラハムに語ります。イシュマエルがアブラハムの家から追い出されたのは、ユダヤの宗教指導者たちの上に神のさばきがもたらされたことの「型」と言えます。つまり御子を「からかう」者に対するさばきの型です。

画像の説明

●「からかう」という語彙「エンパイゾー」(ἐμπαίζω)をヘブル語にすると、四つの類義語が見えてきます。
(1)「バーザー」(בָָּזָה)43回・・「軽蔑する、軽んじる、さげすむ」
(2)「リーツ」(ִלִיץ)28回・・「あざける、嘲弄する」
(3)「ラーアグ」(לָעַג)18回・・「あざける」
(4)「ハーラフ」(חָרַף)41回・・「そしる、あざける、恥ずかしめる」

●これらのことばがメシアと何らかの関連をもっている箇所を上げてみたいと思います。

(1) 「バーザー」(בָָּזָה)

①【新改訳2017】創世記 25章34節
ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮(あなど)った

●この箇所は「バーザー」(בָָּזָה)の初出箇所です。エサウは「長子の権利を侮(あなど)った」とあります。エサウが神から与えられていた長子の権利を「軽蔑した」ことは、神ご自身を「さげすんだ」ことと同義です。「長子の権利」とは祭司的務めを意味します。それは同時に大祭司となるメシア・イェシュアを予表しています。エサウの子孫である「ヘロデ」はイェシュアをどう扱ったでしょうか。ルカ23章11節には「ヘロデもまた、自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱(ぶじょく)したり、からかったりしてから、はでな衣を着せてピラトに送り返した。」とあります。

②【新改訳2017】イザヤ書53章3節
彼は蔑(さげす)まれ(נִבְזֶה)、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑(さげす)まれ(נִבְזֶה)、私たちも彼を尊ばなかった。

●彼とは神のしもべメシアのことです。「ニヴゼ」(נִבְזֶה)は「バーザー」(בָָּזָה)の受動態。ここでは「蔑(さげす)まれ」という言葉が二度も繰り返されます。イェシュアは当時のパリサイ人、サドカイ人、ローマ兵たちによって軽蔑の対象となりました。その公生涯において、特に十字架の死においては最高度の侮辱(ぶじょく)を受けました。身体的、精神的な面において、人が顔を背けるほどのありとあらゆる痛みを受け、傷を負いました。これらはすべて預言者イザヤによって預言されていたのです。

(2) 「リーツ」(לִיץ)

【新改訳2017】イザヤ書28章22節
だから今、あなたがた(=ユダの民)は嘲(あざけ)って(לִיץ)はならない。あなたがたを縛るかせが、きつく締まることのないように。私(=イザヤ)は万軍の【神】、主から、全世界に下る定められた全滅について聞いているのだ。

●イザヤ書28章には、エジプトに拠り頼もうとしているユダの民たちに対して神である主が語っています。それは18節、「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。」と。シオンに据えられる「一つの石」(「エヴェン」אֶבֶן)とはメシアのことです。この方を信じるなら「慌てふためくことはない」と約束されています。「だから、あなたがたは嘲(あざけ)ってはならない」と言っているのです。もし嘲(あざけ)るなら、さばきを免れないからです。

(1) 「バーザー」(בָָּזָה) , (3)「ラーアグ」(לָעַג), (4)「ハーラフ」(חָרַף)

【新改訳2017】詩篇22篇6~7節
6 しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり(חֶרְפָּה)の的 民の蔑(さげす)み(בָּזָה)の的です。
7 私を見る者はみな私を嘲(あざけ)ります(לָעַג)。口をとがらせ頭を振ります。

●詩篇22篇はメシア詩篇です。ここでの「私」はメシアなるお方の受難を預言しています。動詞の「ハーラフ」(חָרַף)の名詞「ヘルパー」(חֶרְפָּה)が使われていますが。それは「侮辱、恥、さげすみ、嘲り、非難、叱責」を意味します。詩篇22篇は大きく二つの部分に分かれ、前半が「神に見捨てられた私」であるとすれば、後半は「神に受け入れられた私」が描かれています。その変わり目の部分である21節後半に「あなたは、私に答えてくださいました」とあります。これは「死からよみがえる」という預言的完了形と考えることができます。そしてその後の部分が「それゆえ、私は・・・しましょう」という意志につながり、その結果「私の兄弟たち」、すなわち多くの会衆(教会)に御名が伝えられ、「イスラエルのすべてのすえ(子孫)」に対しても、そして地の果てにまでもその出来事の祝福が伝えられることとなります。ここには教会の誕生が示唆され、ヤコブ(全イスラエル)の主への立ち返り、そしてそれが実現したメシア王国(千年王国)にまで神の答えとしての祝福の射程が示されているのです。神に見捨てられた私が、受け入れられる私になることが神の定めなのです。御子イェシュアの受難は、彼を通して成し遂げられる神の最終目的と結びつけて理解される必要があります。


2. 嘲りの行為に見るイェシュアのメシアの確証

【新改訳2017】マタイの福音書27章28~29節
28 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
29 それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。

●イェシュアに対する嘲(あざけ)りの言動は、イェシュアこそ王なるメシアであることを預言的に確証するものとなっています。つまり嘲られるのでなければメシアではないと言えるのです。ですから、この嘲りの中にイェシュアがメシアであるということが隠されているのです。つまり嘲る者たちは、自分たちの言動のなかに、イェシュアこそメシアだということが表されていることに気づかずにそうしてしているのです。

(1)王の衣 
28節 「そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。」

around,画像の説明

●再臨のメシア・イェシュアは、王としての「血に染まった衣をまとい」来られます(黙示録19:13)。「緋色」とは「二度染めの赤」(イザヤ1:18「あなたがたの罪が緋のように赤くても」)で、「緋」は「シャー二ーム」(שָׁנִים)で「二度染め」という意味です。

【新改訳2017】エステル記8章15節
モルデカイは青色と白色の王服を着て、大きな金の冠をかぶり、白亜麻布と紫色のマントをまとって、王の前から出て来た。すると、スサの都は喜びの声にあふれた。

●ユダヤ人全滅を計画したハマンの奸計に勝利したユダヤ人のモルデカイが、大きな金の冠をかぶり、白亜麻布と紫色のマントをまとって、王の前から登場します。これはメシアの地上再臨の型です。ここでの「紫色のマント」の「紫色」が「アルガーマーン」(אַרְגָּּמָן)です。メシア詩篇の22篇6節に「わたしは虫けらです」という表現があります。「虫けら」(単数)と訳された「トーレーア」(תּוּלֵעָה)は、幕屋で用いる緋色の撚り糸の染料となる虫です。この虫を押しつぶして殺すことで緋色の色素を取り出すのです。イザヤ書1章18節では「たとえ、あなたがたの罪がのように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、(くれない)のように赤くても、羊の毛のようになる。」と同義的並行法を用いながら、憎むべき罪の色を二度染めの「緋色、深紅色」にたとえているのです。

●「虫」「うじ虫」「虫けら」と訳される「トーレーア」(תּוּלֵעָה)は、出エジプト記16章20節にあるように、モーセの言うことを聞かずに次の朝まで残していたマナに「虫」がわいて悪臭を放った文字通りの「うじ虫」を意味しますが、詩篇22篇6節では「弱く惨めな状態にある者、取るに足りない者」をたとえた表現です。詩篇22篇の「わたしは虫けらです」という表現は、イェシュアが侮辱(ぶじょく)され、恥辱(ちじょく)を経験されることを預言しています。しかし、それによっていつまでも色あせることのない緋色の染料となるのです。緋色の衣服は非常に高価なものであり、お金持ちや貴い人だけが着ることができました。モルデカイが「緋色のマント」(新改訳では「紫色のマント」と訳されています)をまとったように、メシアなるイェシュアも「血に染まった衣を着て」地上再臨されるのです。私たちの輝かしい真っ白な救いの衣は、イェシュアが「押しつぶされる」ようにして流された血潮によって与えられるものです。ローマの兵士たちがイェシュアをからかって知らずに着せた「緋色のマント」には、そのような意味が隠されていたのです。

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(2) 王の「冠」(στέφανος/עֲטָרָה)
29節「それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き

●ローマの兵士たちは王冠の代わりに「茨で編んだ冠」をイェシュアにかぶせました。当然、頭から血がしたたったはずです。イェシュアの語ることば、そして行いの一つひとつがすべて深い意味を持っていますが、イェシュアの周辺にいる人々の言動にも(本人が分からずとも)、神の深い秘密が隠されています。「茨の冠をかぶせること」もその一つです。「茨」であることに深い意味があるのです。

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●「茨」と訳されたギリシア語は名詞「アカンサ」(ἄκανθα)です。しかしこれは「とげのある雑草一般」を意味する語彙であって、とげのある雑草で冠を編むというのは不自然です。とげのある枝で冠を編むとすれば、草ではなく、木ということになります。茨で冠を作るにふさわしいイスラエルの木と言えば、「アータード」(אָטָד)です。これは地に陰をつくるほど大きくなる木で、枝に多くのとげを持っています。旧約聖書では創世記50章と士師記9章に出てきます。創世記の茨(「アータード」אָטָד)では、枝にとげを持つ木は身を避けることのできる木陰をもつ大樹であること(創50:10)。士師記の茨は王である者の陰に身を避けよという招きであり、その招きに応じるのでなければ、茨から火が出て、やがて焼き尽くされてしまうという意味をもっています(士9:14~15)。イェシュアの頭にかぶせられた茨の冠には、そうした預言的なメッセージが含まれているのです。

●イェシュアの頭に茨の冠がかぶせられている絵はなんとも痛々しいものです。しかしそうした主観的な思いを捨て去って、イェシュアご自身がこの私のために血を流すという神の必然があったことを、心から感謝しながら、キリストの花嫁とされたことを深く心に刻みたいと思います。

(3) 王の杖(葦) 
29節 「右手に葦の棒を持たせた。」

●王の権威のしるしである笏の代わりに、右手に葦の棒を持たせました。また葦の棒でイェシュアの頭をたたいたとあります(30節)。葦は弱く折れやすいものですから、それでたたかれても痛くはありません。むしろそれは嘲(あざけ)りの行為です。「葦」はヘブル語では「カーネー」(קָנֵה)です。神の視点からするならば、葦は神の不変の基準をあらわす象徴であり、神のことばそのものです。イザヤ書の神のしもべの歌には「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う」 (イザヤ42:3) とあります。「傷んだ葦を折ることもなく」とは弱った人々をいたわるという意味ではなく、堅く立つべき神のことばをしっかりと立て直すことを意味しています。また「くすぶる灯芯を消すこともなく」とはパラレリズムで、神のことばを鮮明に照り輝かせることを意味しています。この使命のために、神のしもべなるメシア・イェシュアは軋轢と辱めの中にあっても、その「さばき」(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)を、すなわち神の統治を確立するのです。しかもしもべはその目的のために「衰えず、くじけない」のです。やがてメシアなるイェシュアは「鉄の杖」(詩篇2:9)で国々を統治することになりますが、「葦の棒」の中にも神の定めとしての統治が隠されているのです。

●このように、ローマの兵士たちが知らずに行った嘲弄的行為―「王の衣(緋色のマント)」、「王の冠(茨の冠)」、「王の杖(葦の棒)」―の中に、天の御国におけるメシアの統治のメッセージが秘められているのです。

3. 嘲る者に対する神の嘲りと神の招き

●詩篇2篇は、主と、主に油注がれた者に敵対する者たちに対して、神が「嘲(あざけ)られる」(「ラーアグ」לָעַג)ことが記されています。最後に、この詩篇2篇を味わいたいと思います。この詩篇には神のマスタープランが要約されています。

【新改訳2017】詩篇2篇1~3節
1 なぜ国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は空しいことを企むのか。
2 なぜ地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。 【主】と主に油注がれた者に対して。
3 「さあ彼らのかせを打ち砕き 彼らの綱を解き捨てよう。」

●詩篇2篇の「主に油注がれた者」(メシア)に逆らう者たちはすべて複数形で、以下のように表されています。
①「国々」②「もろもろの国民」③「地の王たち」④「君主たち」です。彼らは「騒ぎたち」「空しいことを企み」「立ち構え」「相ともに集まる」のです。その目的は何かといえば、「彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を解き捨てる」ため、つまり、「と主に油注がれた者」、すなわち御父と御子のゆるぎないきずなを断ち切ろうとすることです。このような者たちに対して、「天の御座に着いておられる方」である(=御父)は「嘲(あざけ)られる」のです。

【新改訳2017】詩篇2篇4~6節
4 天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。
5 そのとき主は怒りをもって彼らに告げ 激しく怒って彼らを恐れおののかせる。
6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」

●「そのとき」とは「わたしがわたしの王を立てる」時、しかも聖なる山シオン、つまりエルサレムにおいて王を立てる時とは、王なるメシア・イェシュアが地上再臨される時です。そのときには、「彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を解き捨てよう」と相ともに集まった者たちに対して、最終的に激しい神の怒りが向けられるのです。

【新改訳2017】詩篇2篇7~9節
7 「私は【主】の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。
8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として。
9 あなたは鉄の杖で彼らを牧し陶器師が器を砕くように粉々にする。』」

●神のご計画のことを、7節では「【主】の定め」としています。ここではじめて「私」「あなた」「わたし」という人称が登場します。7~9節までの人称は少々複雑ですが、以下のようにして読むなら理解できるはずです。
7節の「私」=「ダビデ」、「あなた」=「御子イェシュア」、「わたし」=「御父」
7節の「わたしが今日、あなたを生んだ」とあります。御父が御子を生んだというのは、御子を被造物として造ったという意味ではなく、神の定めの日に死から復活させたことを「生んだ」と表現しています。それゆえ、次のように語られています。

【新改訳2017】詩篇2篇10~12節
10 それゆえ今 王たちよ悟れ。地をさばく者たちよ慎め。
11 恐れつつ 【主】に仕えよ。おののきつつ震え 子に口づけせよ。
12 主が怒りおまえたちが道で滅びないために。御怒りがすぐにも燃えようとしているからだ。
幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。

●地の王たち、地をさばく者、すなわちあらゆる国の支配者たちに対して、「子に口づけせよ」と呼びかけています。これは人称なき存在の声です。「子」は「バル」(בַּר)で「御子」のことです。「口づけせよ」とは「愛しなさい」ということではなく、「降伏せよ」ということです。御子に「身を避ける」とは、御子に「信頼する」ことを意味します。神のご計画の目的は、「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」(エペソ1:10)です。この計画はいかなるものによっても妨げられることがありません。万軍の主の熱心によって必ず成し遂げられるのです。ですから、10節の「それゆえ今(「ヴェアッター」וְעַתָּה)」なのです。主の警告と招きを軽く考え、それを嘲(あざけ)る者は取り返しのつかないことになるのです。人称なき存在(聖霊)が語っているように、「幸いなことよ すべて主に身を避ける人」との細き声に、聞き従う者となりましょう。

2021.12.26
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