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千年王国(メシア的王国)の祝福(その四)

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10. 千年王国(メシア王国)の祝福(その四)

「その日」、エルサレムは

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ベレーシート

  • これまで「千年王国」の祝福について学んでいますが、今回はその第四回目です。千年王国(メシア王国)の祝福とは、第一に、「普遍的平和」が天と地におけるすべての領域において、神の平和(シャーローム שָׁלוֹם)が回復するということでした。第二は、「全イスラエルの最終的帰還の実現」と「新しい契約」の成就について学びました。第三は、ダビデ契約の成就としての王なるメシアが全世界を統治するということでした。そして今回の第四は、エルサレムが全世界の中心となることについて学びます。
  • 今日のエルサレムは、エルサレムは地理的に考えるならば、自然の要害である以外は特別なものはなにもありません。しかし他のどの町にもない特徴がこの町にはあるのです。それは、神が住まわれる場所として神が選ばれたということです。詩篇132篇13節には、「主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。『これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。』」とあります。
  • 今日なぜ中東においてエルサレムが戦いの中心であり続けるのかと言えば、神がエルサレムを愛し、神の敵であるサタンがエルサレムを憎んでいるからです。エルサレムは神のご計画の中心的役割を担う場所として神に選ばれているからです。メシアが再臨されるとき、エルサレムはどんな祝福を受けるのでしょうか。今回はそこに焦点を当ててみたいと思います。

1. 「エルサレム」という名称に隠された秘密

  • 「エルサレム」という語彙を聖書(J-ばいぶる)で検索すると767回です。そのうち旧約聖書では627回、そして新約聖書では140回です。しかも驚くなかれ、「エルサレム」は多くの別称があります。最も多いのは「シオン」で168回です。他にも「ダビデの町」「神の都」「大王の都」「聖なる都」「シオンの山」「主の山」といった別名も含めるとその数はさらに多くなります。
  • エルサレムという言葉が登場するのはヨシュア記10章からですが、創世記14章18節に、アブラムを祝福したのは「シャレム」の王メルキゼデクでしたが、「シャレム」とはエルサレムの別名です。また、アブラハムが息子イサクをささげようとした山は「モリヤの山」とされていますが、それもエルサレムの別名です。そこにダビデは主の宮を建てるための用地を買い、ソロモンはそこに神殿を建てたのです。エルサレムと神殿は、後に、バビロンによって崩され、民は捕囚の憂き目に遭いますが、再び、ペルシャの王クロスによって帰還させられ、そこに第二神殿を建てます。しかしその神殿も、A.D.70年にローマ軍によって破壊され、ユダヤ人は全世界に離散してしまいます。その後、1948年にイスラエルが国家として再建して、今や多くのユダヤ人たちが帰還し、クリスチャンたちも全世界からエルサレムを訪れているのです。これはやがて実現する千年王国の視点から見れば、仮庵の祭りでエルサレムを訪れて神を礼拝するリハーサルをしているような光景と言えます。
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  • ところで、「エルサレム」という言葉は、ヘブル語で「イェルーシャーライム」(あるいは、イェルシャライム)と言いますが、この言葉は二つのことばから成っています。一つは「イェル」(יְר)、もう一つは「シャーレーム」(שָׁלֵם)です。
  • 「イェル」(יְר)は「ヨッド」(י)と「レーシュ」(ר)の組み合わせですが、「ヨッド」は神の力である手を表わし、「レーシュ」は「頭、思考、考え、ご計画」を表わします。つまり、この二つが「神のご計画(考え)」を意味し、この語彙がもう一つの文字を伴うことで、いろいろな意味を持つようになります。たとえば、

    ①「ヤーラド」(יָרַד)で「(高い所から)降りて来る、下る、低くされる」、
    ②「ヤーラー」(יָרָה)で「投げる、(矢を)射る、教える、指し示す、(隅石)を置く、土台を据える」、
    ③「ヤーラシュ」(יָרַשׁ)で「所有する、占領する」

  • 以上のような意味合いをもった「神のご計画(考え)」、あるいは存在(お方)を「イェル」(יְר)で表わしていると考えられます。
  • 後者の「シャーライム」は「平和」を意味する「シャーローム」の複数形です。複数形はで二倍の平和を表わし、「エルサレム」は町の中で長子的地位を有しているとも言えます。ヘブル語の「シャーローム」はあらゆる領域における神の祝福の総称です。つまり、平和、和解、繁栄、健康、知恵、心の安らぎ、勝利といった神の祝福を意味しています。
  • 従って「エルサレム」とは、神のご計画をもった方が高い所から降りて来て、神のあらゆる祝福(シャーローム)を据える場所として、神が占領する(支配する)ところという意味になります。このことがこの地上に実現するのは「千年王国」(メシア王国)においてであり、そのときまでは、真の平和はこの世に訪れることはないと言えるのです。それゆえ、人称なき存在である聖霊は「エルサレムの平和のために祈れ。」と命令しているのです(詩篇122篇6節)。この命令は、祝福の発信地としてのエルサレムにメシアの再臨を促しているのです。
  • 「エルサレム」は、まさに神の主権によって建てられる町(都)です。そのために用いられる人々の存在があったとしても、決して人間の力によって建てることのできない町なのです。それゆえ、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしいのです。」(詩篇127篇1節)と語られているのです。

2. 千年王国の「エルサレムの祝福」

  • アブラハムから始まって、ダビデ、そしてイェシュアの十字架の死と復活、そして昇天と再臨のすべての舞台は「エルサレム」です。エルサレムは千年王国における中心的な地となります。そのエルサレムが千年王国時代にどうなるのかを、いつものようにイザヤ書から、また、他の箇所からもいくつか取り上げてみたいと思います。

(1) イザヤ書2章2~4節 

2:2
終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
2:3
多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
2:4
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

  • イザヤ書2章2節にある、「【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち」とはどういうことでしょうか。同じようなことが詩篇48篇でも語られています。

     【新改訳改訂第3版】
    1 【主】は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。
    2 高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。

  • 「高嶺」「北の端なるシオンの山」とはどういうことでしょうか。キリストの再臨の時にはエルサレムの地形が激変します。なぜなら、大きな地震があるからです。「この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震」だとヨハネ黙示録16章18節に記されています。この地震によって、オリーブ山が南北に裂け、中央に、東西に延びる非常に大きな谷ができます。ゼカリヤ書14章4節にこう記されています。「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」と。
  • エルサレム周辺の地形は山地です。この地震の変動でエルサレムは南北に裂かれた北側に位置するようになり、他の山よりも高くなるということです。それが南の方から見ると、「北の端なるシオンの山」のように見えるということです。
  • そこに「すべての国々が流れて来る」というのです。最も高い山となるエルサレムの神殿めがけてすべての国々の人々が流れてくるというのは面白い表現です。普通、高い所から低い所に流れるものだからです。しかし、その高嶺のエルサレムに建てられる第四神殿の敷居の下から、水が東の方へと流れ出し、その行き着く所はすべてが生きるということが起こります。それまでは何も住まなかった死海にも多くの魚が生息するようになることをエゼキエルは47章9~12節で預言しています(水は西側の地中海にも流れ込みます)。

【新改訳改訂第3版】エゼキエル書49: 9~12

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9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

  • 興味深いことに、人は低い所から高い所へ引き上げられるように流れ、逆にすべてのものを生かすいのちの水は神殿のある高い所から低い所へと流れて行きます。特に、死海の水は癒されて、最良の漁場となります。
  • さて、イザヤ書2章3節の「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。」の「上る」ということばそのものが、エルサレムが世界の中心であることを示唆しています。回復されたエルサレムに敬意を払い、主を礼拝するためにやって来る諸国の民を、エルサレムは迎え入れます。そして、そこから、主の教えが流れ出るのです。イザヤ書2章3節にある下線の部分の「教えて」「出」「出る」はすべて「ヤーラー」(יָרָה)、再臨のキリストが「天から降りて来られる」ことも「ヤーラー」(יָרָה)で、まさにこの方によって、シオンから主のみおしえ(トーラー)が出るのです。そして、再臨によるメシアの統治によって、はじめて、剣が鋤に変わり、槍がかまに変わり、二度と戦いのことを習わなくなるのです。世界の平和はメシアの再臨によってのみ実現するのであり、人間的な方策や努力では平和をもたらすことは不可能なのです。それゆえ、初代教会の挨拶は「マラナ・タ(主よ。来てください)」でした。

(2)  詩篇48篇2、11節(新共同訳 12節)

  • キリストの再臨によって、エルサレムの地形は地震によって激変して最も高い山となること。そしてその主の山に世界から主を礼拝する者が上って来て、シオンから主の教えが流れ出るようになることについて学びましたが、もうひとつ学ぶべきことは、その時のエルサレムの特徴的な基調が喜びと楽しみであるということです。詩篇48篇2節をもう一度見てみましょう。

詩篇48篇2節「高嶺の麗しさは、全地の喜び。」

  • メシアの再臨によるエルサレムは、「全地の喜び」となることが預言されています。それはメシアの統治により、平和の祝福が訪れるからです。また、メシアのおられるエルサレムそれ自体が「麗しい」町、「麗しさの極み」とたたえられています(詩篇50:2)。礼拝(巡礼)に訪れた人々は、主の宮の中で、主の恵みを思い巡らしながら、メシアの愛に満ちた統治(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)のゆえに、「シオンの山は喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る。」(新共同訳詩篇48:12)のです。ここで使われている「喜び祝い」(共同訳)、「喜び」(新改訳)と訳されている原語は「サーマハ」(שָׂמַח)、そして「喜び躍る」(新共同訳)、「楽しむ」(新改訳)と訳された原語は「ギール」(גִּיל)で、この二つはしばしばセットで用いられることが多いのです。その例として、「メシアの王的支配を賛美する詩篇」からは以下のようになります。

(1) 詩篇96篇11節
「天は喜び(שָׂמַח)、地は、こおどりし(גִּיל)、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。」
(2) 詩篇97篇1節、8節
1「【主】は、王だ。地は、こおどりし(גִּיל)、多くの島々は喜べ(שָׂמַח)。」
8「シオンは聞いて喜び(שָׂמַח)、ユダの娘たちもこおどりしました(גִּיל)。【主】よ。あなたのさばきのために。」
(3) 詩篇149篇2節
「イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ(שָׂמַח)。
シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ(גִּיל)。」

  • この他にも、「喜ぶ」という動詞は複合的に使われることが多いようです。例えば、「喜び歌う」「喜び楽しむ」「喜び叫ぶ」「喜び躍る」「喜び祝う」「喜び迎える」「喜びの声をあげる」などがあり、それらを表わすヘブル語もそれぞれ多様です。
  • 重要なことは、ここにある喜びは、終末論的、存在論的、救済論的な喜びです。すでにイェシュアを信じて救われた者たちも喜びがありますが、しかしそれはまだ「種のような喜び」です。メシア王国においては、その喜びの種は芽吹いて、大きな爆発的な喜びの花を咲かせるのです。それは神に愛される喜び、名が天に書き記されている喜び、失われた者が見出された天的な喜びなのです。千年王国におけるエルサレムは、まさに、そのような意味において「全地の喜び」となるのです。

3. 「その日」、エルサレムは  ~ゼカリヤの預言から~

  • ここからは、メシアの再臨前の大患難の中にあるエルサレムについて、また再臨時のエルサレムと再臨後の千年王国のエルサレムについて、ゼカリヤが預言している以下の箇所を取り上げます。

(1) 王なるメシアの再臨前の大患難の中にあるエルサレム

12:3 その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。

エルサレムはそこを攻める者にとって、重い石を持ち上げようとして手を滑らし、手足に傷を負ってしまうような姿となることを述べています。


12:6 その日、わたしは、ユダの首長たちを、たきぎの中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えているたいまつのようにする。彼らは右も左も、回りのすべての国々の民を焼き尽くす。しかし、エルサレムは、エルサレムのもとの所にそのまま残る。

敵のいたるところが破壊されるにもかかわらず、エルサレムは主が守られて安泰です。


12:8 その日、【主】は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ【主】の使いのようになる。

「住民をかばわれる」のは、主が盾となってくださるからです。


12:9 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。

エルサレムを攻めて来る者たちの運命は、究極的な滅びを招きます。


12:10 わたしはダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
12:11 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。

ハルマゲドンの戦いの終わりに、神は聖霊をユダヤ人に注がれます。この聖霊は「恵みと哀願の霊」と呼ばれます。ユダヤ人が自分たちのメシアを拒絶したことがいかに重大な罪であったかを悟り、悲嘆に打ちひしがれます。その嘆きはメギドの戦いにおいて死んだヨシヤ王のように大きいとあります。ユダの王ヨシヤは善い王であり、国民から愛された王でした。そのために彼の死に対する嘆きは非常に大きかったのです。ヨシヤ王の死から、ユダは坂道を転げるようにして、亡国の憂き目(捕囚)へと向かって行ったのでした。


13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

12章10節において注がれた「恵みと哀願の霊」は、ユダヤ人を正しい認罪と悔い改めに導きました。そして罪からのきよめが徹底的に行われるのです。


(2) 王なるメシアの再臨とその後のエルサレム

14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。


ここから、主の再臨を告げるラッパが鳴り、主の足が地に着くときは、オリーブ山は二つに裂かれます。大きな音を立てて地が北と南に裂ける光景、そしてそこに立つ王なるメシアを想像してみてください。

14:8 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。

神殿から流れる聖なる生ける水は、死海を再び生かして、魚や海藻でいっぱいになります。この生ける水はエルサレムから地中海にも注がれるようになります。このことについては、エゼキエル書47章に詳しく記されています。主の教えがシオンから出るように、いのちの水も同じくそこから流れ出て、すべてのものが神の豊かな恩寵によって喜び楽しむということが起こるのです。


14:11 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。

エルサレムの歴史は必ずしも「平和」という名にふさわしいものではありませんでしたが、平和の君であるメシアの再臨によって、エルサレムは永遠に安住の地となるのです。


ベアハリート

14:9 【主】は地のすべての王となられる。その日には、【主】はただひとり、御名もただ一つとなる。

ここには「エルサレム」ということばはありませんが、主はエルサレムを中心として、全地のすべての王となり、主の御名は「ただ一つ」(「唯一の御名」、シェモー・エハード שְׁמוֹ אֶחָד)となります。これは、使徒パウロがエペソ人への手紙1章10節で述べていることが実現したことを意味しています。メシアによって、天と地が修復されてひとつになるのです。

「時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」(エペソ1:10)


2014.2.2


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