****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

十二使徒派遣に見るイェシュアの宣教戦略(3)

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41. 十二使徒の派遣に見るイェシュアの宣教戦略(3)

【聖書箇所】マタイの福音書10章24~33節

ベレーシート 

  • マタイの福音書10章に記されているマタイの「第二の説教」は、「天の御国」のための宣教的戦略についてのメッセージがまとめられています。ここでの宣教的戦略(「ストラテジー」Strategy)とは、神のご計画のシナリオにおける大きな視点であり、それを実現するための信仰的な理念があります。例えば、イェシュアの宣教戦略とは、第一に「全イスラエルの回復」(神がイスラエルに対して約束されたことの実現)という大きな視点があり、第二はその働きに従事する者が「蛇のようにさとく、鳩のように素直であれ」という信仰的な理念が訴えられています。「蛇のようにさとく、鳩のように素直であれ」とはどういうことかを前回学びました。前者の「蛇のようにさとく」とは「神のご計画における究極的な神のさばきと救いを知ることの「賢さ」であり、「鳩のように素直であれ」とは神のご計画の完成に与えられる祝福の総称である【平和】の約束を信じる「素直さ」です。この信仰的な理念は、天の御国の福音を宣べ伝える者にとってきわめて重要な事柄なのです。
  • イェシュアのなされた奇蹟、教え(たとえ話も含めて)のすべては「天の御国」(神の国)に関することです。それは、メシア・イェシュアが王として支配されるという福音であり、旧約聖書に繰り返し預言されてきたことなのです。このことが最も重要なことで、聖書にはこれ以外のことは記されていないのです。例えばマタイの福音書8章で、イェシュアが弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」という箇所があります。ところが、「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった」のです。弟子たちは眠っているイェシュアを起こして、「主よ、助けてください、私たちは死んでしまいます」と言って助けを求めます。そのときにイェシュアは、「どう怖(こわ)がるのか、信仰の薄い者たち」と言って起き上がり、風と湖を叱りつけると、すっかり凪(なぎ)になったという話がありました。イェシュアがそこで言われた「信仰が薄い者」とはどういう意味でしょうか。
  • ここでイェシュアが言われた「信仰」とは、天の御国(神の国)に対する信仰です。この信仰が薄いとどうなるのかと言えば、目に見えるものを「怖(こわ)がる」のです。「怖(こわ)がる、臆病な」というギリシア語は形容詞の「デイロス」(δειλός)で、この箇所(マタイ8:26)と並行記事であるマルコ4章40節、および黙示録21章8節の三回しか使われていない語彙です。ヘブル語にすると「ハーレード」(חָרֵד)で、原義は「臆病な、怖(こわ)がる、震え、おののく」といった意味です。黙示録21章8節では「臆病な者」として使われており、そのような者は、「第二の死」に定められるとあります。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル書9:27)とありますが、「第二の死」に定められる者とは、「いのちの書に記されていない者」(黙示録20:15)たちであり、死後のさばきのために復活した後に「火と硫黄との燃える池の中に投げ込まれる」者たちです。ちなみに、イェシュアを信じる者はこの「第二の死」に関しては無関係です。イェシュアが言われる「信仰」とは、目に見えるものによって左右されない、つまり、「揺り動かされない御国に対する信仰」なのです。イェシュアの「向こう岸へ渡ろう」という言葉の中に、実はそのことが隠されていたのですが、弟子たちはそのことが理解できず、イェシュアから「信仰の薄い者たち」と言われてしまったのです。
  • なぜこの話をしたかと言えば、今回のメッセージ(10:24~33)と関係しているからです。というのは「怖(こわ)がる」(חָרֵד)という言葉が、今回のテキストではその類語である「恐れる」(ギリシア語では「フォベオマイ」φοβεομα、ヘブル語では「ヤーレー」יָרֵא)という言葉が四回も言及されているからです。「恐れる」という意味の「ヤーレー」(יָרֵא)は使用頻度において圧倒的ですが、「パーハド」(פָּחַד)という語彙を使っているヘブル語聖書もあります。いずれにしても、御国の福音を宣べ伝える者にとって「恐れる」ということが相容れないものであること、そのことがイェシュアの第三の宣教戦略なのです。

1. ヘブル的修辞法によるメッセージ

  • その話に入る前にヘブル的修辞法の話をしておきたいと思います。なぜなら、今回の選んだ箇所(24~33節)はすべてヘブル的修辞法で書かれているからです。そのことを知るだけでも、その箇所の解釈が絞られてきます。そのヘブル的修辞法とは「パラレリズム」です。旧約では詩文の場合に用いられることが多いのですが、マタイは散文でもそれを用いています。イェシュアがいろいろな場所で、いろいろな時に語られたことをマタイは一つの形にしたものと思われます。パラレリズムには以下の三つの種類(パターン)があります。今回はそのパターンを説明したあとでテキストを読んでみたいと思います。

(1) 同義的パラレリズム
・・ある文節と同じ意味の内容を別の語彙を使って言い表します。
①24~25節、②26~27節

①【新改訳2017】マタイの福音書 10章24~25節
24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。
25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。
家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、
ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。

②【新改訳2017】マタイの福音書10章26~27節
26 ですから彼らを恐れてはいけません。
おおわれているもので現されないものはなく、
隠されているもので知られずにすむものはないからです。
27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。   
あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。

(2) 反意的パラレリズム
・・ある文節とは反対の内容を次節で言い表します。
①28節、②32~33節

①【新改訳2017】マタイの福音書10章28節
28からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。
むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

②【新改訳2017】マタイの福音書10章32~33節
32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、
わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、
わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

(3) 総合的パラレリズム
・・ある文節と次の文節を統合させることで一つの意味を言い表しています。
29~31節

【新改訳2017】マタイの福音書10章29~31節
29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。
そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。


2. イェシュアの「恐れてはいけません」という言及

  • 今回のテキストには、「恐れてはいけません」(26, 28, 31節)というフレーズが三回も繰り返されています。2人称複数命令形です。ギリシア語では「メー・フォベーセーテ」(Μὴ φοβηθῆτε)、へブル語では「ロー・ティールウー」(לֹא תִירְאוּ)です。イェシュアの第三の宣教戦略はまさに人間が抱える根本的な課題としての「恐れ」に関するものです。そこでテキストの全体(26~33節)を読んでみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書10章26~33節
26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。
27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。
28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。
そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

  • このテキストから「恐れてはいけません」という三つのフレーズを観察すると、それぞれ微妙に強調点が異なっています。

(1) 26節の「恐れてはいけません」

  • まず26節は「ですから」(「ウーン」οὖν)という接続詞で始まっています。ということは、前の節を受けての「ですから」です。前の節とは24~25節の部分です。ここでは、それまで「あなたがた」と設定されていた使徒たちが、ここでは「弟子」とか「しもべ」とか「家の者たち」と表現されます。反対に「わたし」と表現されていたイェシュアが、「師」とか「主人」とか「家の主人」と表現されています。
  • 24節の「弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません」とはどういう意味でしょうか。また25節の「弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です」とはどういう意味なのでしょうか。ルカの福音書6章40 節の「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。」とありますが、同じことを意味していると思われます。この世であれば、「だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師以上になります」となるのではないでしょうか。でもそうであれば、その段階で、弟子は弟子でなくなってしまいます。御国の世界では、弟子は弟子であり、師であるイェシュアを乗り越えることはないのです。しかもそれで十分なのです。
  • 何が十分なのかと言えば、それは御国に対する信仰です。この信仰以外に他の信仰があるはずはありません。弟子が師であるイェシュアの信仰のようになればそれで十分なのです。イェシュアの御国に対する信仰を超えた弟子は考えられません。なぜなら、イェシュアこそ「信仰の創始者であり、完成者」(へブル12:2)だからです。そのイェシュアの信仰から目を離さないでいるなら、それで十分であり、それ以上のことは必要ないのです。御国が実現しても御国の民は主の弟子であり、しもべです。異なる点は、弟子と弟子の間に、しもべとしもべの間に優劣はなくなることです。なぜなら、「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ」(新改訳2017、エレミヤ31:34)とあるからです。
  • 25節も同義的パラレリズムですが、26節にある「彼ら」とはパリサイ人たちのことです。イェシュアは「家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされることか。」と言ったのです。「家の主人」という意味は実は「ベルゼブル」と同じ意味です。「ベルゼブル」とは「ヴァアル・ゼヴール」(בַעַל־זְבוּל)のことで、「ヴァアル(בַעַל)は「主人」、「ゼヴール」(זְבוּל)は「家」を意味します。それだけの意味ですが、パリサイ人はイェシュアのことを「悪霊どものかしら」(マタイ9:34)とも、「悪霊どものかしらベルゼブル」(同12:24)と呼んでいます。ということは、「ベルゼブル」とは「悪霊の支配者、悪霊たちの家長」を意味します。家の主人(家長)がそのように呼ばれるとしたら、その家の者たちを彼らはどのように呼ぶだろうか。きっと心痛めるような呼び方をされるに違いないと言っているのです。実際、「家の者たち」は何と呼ばれたでしょうか。答えは使徒の働き11章26節にあります。聖書を開いてみましょう。そこにある「キリスト者」(クリスチャン)というのは、実は「キリストの奴隷」「キリスト馬鹿」「キリストかぶれ」といった軽蔑した呼び名(蔑称)でした。
  • 師であり、主人であるイェシュアの弟子、およびしもべたちは運命共同体です。イェシュアに対する迫害や憎しみは弟子たち、しもべたちに及ぶことは至極当然なのです。だから、「ですから」(「ウーン」οὖν、「アル・ケーン」עַל־כֵּן)なのです。「ですから彼らを恐れてはいけません。」とイェシュアは言っているのです。「恐れてはいけません」、これが今回の本題です。ちなみに、ギリシア語原文は「あなたがたは彼らを恐れてはいけません」となっていますが、ヘブル語を見ると「彼らのゆえに(מִפְּנֵיהֶם)、あなたがたは恐れてはなりません」となっています。これはユダヤ的表現で彼らの顔(פְּנֵי)を恐れるなということです。
  • そのあとに、原文には「恐れてはならない」理由を表わす接続詞(「ガル」γάρ、「キー」כִּי)が置かれています。その理由とは「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないから」とあります。これは一体どういう意味でしょうか。おそらく「おおわれているもの」「隠されているもの」とは、二つの意味が考えられます。一つは敵に対するもので、「神の究極のさばき」です。もう一つは弟子に対するもので、「御国の信仰」だと考えられます。いずれもこのことが白日(はくじつ)の下(もと)にさらけ出される時が来るのです。マタイ10章のコンテキストでは(前回でもそうであったように)、終わりの日の時の「未曽有の苦難」が想定されています。ですから終わりの日は、御国の民の信仰が現わされ、知らされるときなのです。「未曽有の苦難」の時代では、獣と呼ばれる反キリストが立ち上がり、自分を神として拝むように強制します。従わなければ殉教あるのみです。それゆえ御国の信仰を持って福音を告げる者には大きな苦難が待ち受けています。しかし「恐れてはならない」のです。なぜなら、御国に対する信仰は、その時にこそ最高度に輝くからです。
  • 私たち(教会)に対してはどうでしょうか。イスラエルの民が遭遇するような「未曽有の苦難」はありません。しかし、信仰による苦難はいつの時代にもあります。使徒パウロは、教会に対しても、キリストの現われのときまで、「上にあるものを求め続けるべきこと」を勧めて、次のように述べています。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章1~4節
1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。
そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
4 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

  • イェシュアのいう「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです」という言葉を、パウロは同じことを別の表現で述べています。つまり、キリストが現われるとき(再臨されるとき)、キリストとともに神のうちに隠されているいのちが、栄光のうちに現れるということを。だから、「地にあるものではなく、上にあるものを思いなさい」と激励しているのです。「上にあるもの」とは、「天の御国」のことです。それを「求め続けなさい」(1節)、「思い続けなさい」(2節)と現在命令形で命じています。
  • 26節の「恐れてはなりません」との理由が語られた後で、イェショアは大胆に宣教するように命じられます。

【新改訳2017】マタイの福音書10章27節
27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。
あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。

  • 27節も同義的パラレリズムになっています。「暗やみであなたがたに言うこと」とは、イェシュアが弟子たちにひそかに教えられたことを意味します。それが「あなたがたが耳もとで聞いたこと」と表現されています。イェシュアの宣教を見ると、次第に群衆よりも弟子たちに多くの時間を割き、御国の奥義について教えています。そしてイェシュアはそれを「明るみで言いなさい」とは、多くの人々の前で大胆に言うこと意味します。それが「屋上で言い広めなさい」と表現されています。「言いなさい」も「言い広めなさい」も共に「アオリスト命令形」となっており、自ら、主体的な、自発的宣教が命じられています。
  • 使徒の働きを見ると、使徒たちが「大胆に」語り、そして「大胆に」祈ったことが記されています。「大胆に」という語彙が以下の箇所にあります。ぜひ、聖書でチェックしてみてください。
    ⇒ 使徒たち・・4章13節、29節、31節。 パウロ・・9章27節、28節。

(2) 28節の「恐れてはなりません。・・むしろ。恐れなさい・」

  • 28節では「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。」とあります。26節の「彼ら」が、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たち」と表現され、その者たちを「恐れてはならない」としています。そして、むしろ「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」と述べています。「ゲヘナ」とは神の究極のさばきによって不信仰な者が入れられる苦しみの場所(「火と硫黄との燃える池の中」)のことです。裁かれるべき方を恐れるならば、恐れなくてもよい「恐れ」がなくなるということを教えています。
  • 人を恐れると、わなに陥る」(箴言29章20節)というみじめな経験をした人にダビデを挙げることができます。ダビデはその経験を詩篇34篇に記しています。表題に「ダビデが、アビメレクの前で気違いを装い・・」とあるように、この詩篇の背景にはダビデの失敗が隠されています。「恐れ」は人間の深い内面にあって人の思考や行動を引き起こさせる源泉となっている感情です。私たちのすべての心の考え、すべての行動の多くはこの「恐れ」という感情によって支配されていることが多いのです。人を恐れるあまり、大芝居を演じたことを悔い改めたダビデが、身をもって、人々に神を恐れることを教えているのです。数々の恐れの失敗、それは私たちの信仰を育ててくれる神の御手の中にあることを知らなければなりません。

(3) 31節の「恐れてはなりません。」

【新改訳2017】マタイの福音書10章29~31節
29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。
そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

  • 31節にも二回目の接続詞「ですから」(οὖν、לָכֵן)があり、「あなたがたは恐れてはなりません」と続いています。ということは、「恐れてはならない」理由がその前の29節と30節に記されていることになります。ここは、同義的でも、反意的でもなく、総合的パラレリズムです。
  • 29節の「二羽の雀」は「1アサリオン」(1デナリの16分の1に相当する銅貨)で売られているということから、それは貧しい者のための最低のささげものとみなされます。一羽ではとても値もつかないほどの価値のない小さな存在を意味します。しかしその一羽の雀さえも父の許しなしには地に落ちることはないほどに、神は目を留めておられることを教えています。
  • 逆に、30節には数え切れないほどの例として「髪の毛」が取り上げられています。だれも髪の毛の数を数えることはできませんが、神はその髪の毛をみな数えられる方です。この二つのたとえは何を言おうとしているのでしょうか。わずかな数と多くの数を掌握しておられる神が、「あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」と言っています。つまり、ここでのイェシュアの「恐れてはいけません」と言われる真意は、「マイノリティー・コンプレックス」に対する励ましだと言えないでしょうか。マイノリティー・コンプレックスとは少数であることに対する恐れです。
  • ルカの福音書12章32節にも「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」(新改訳2017)とあります。小さいこと、少ないことを恐れる者に、イェシュアは天の御国は、将来、必ず実現することを語り、「たとえ多くの者たちが見向きしないことであっても、勇気をもって御国を求め続けることを堅く決心せよ」と励ましているのです。「寄らば大樹の陰」ということわざがあるように、だれでも大きいことや人の多いことは安心でき、良いことだと考えます。しかしイェシュアの言われるのはそれとは逆です。「あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです」と言っています。これは弟子たちのアイデンティティーを支えていくイェシュアの言葉です。
  • このことを正しく受け止めた人は、旧約ではヨシュアとカレブの二人だけでした。二人とも出エジプトを経験した第一世代の者です。彼らがやがて次世代の者たちを引き連れて約束の地に向かうとき、「雄々しくあれ、強くあれ。恐れてはならない。」と励ましました。新約のイェシュアも弟子たちに同じく御国のために、マイノリティー・コンプレックスに陥ることなく、価値ある存在として、恐れることなく、常に、雄々しくあり続けることを命じられていることを、私たちは忘れないようにしたいと思います。
  • 最後に、31節の「あなたがたは多くの雀よりも価値がある」という責任の重さを、最後の32~33節にあるように宣教する者の側ではなく、宣教される者の側からイェシュアは語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書10章32~33節
32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。 

  • ですから、自分に与えられた責任の重さに恐れることなく、自分の使命を果たしていく者となりたいと思います。


2018.10.28


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