****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

十二使徒派遣に見るイェシュアの宣教戦略(2)

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40. 十二使徒の派遣に見るイェシュアの宣教戦略(2)

【聖書箇所】マタイの福音書10章16~23節

ベレーシート 

  • 前回に続いて、「十二使徒の派遣に見るイェシュアの宣教戦略」の第二回目です。タイトルを再度お読みください。そこには「イェシュアの宣教戦略」とあります。イェシュアの宣教の内容は常に一貫して「天の御国が近づいた」ことでした。イェシュアがなされたすべての奇蹟、イェシュアの語られたたとえ話もすべて「天の御国」に関するものです。このことはいくら強調しても強調しすぎることがありません。「天の御国」とは神であるメシア・イェシュアが王として支配される国(kingdom, βασιλεία, מַלְכוּת)のことで、その完成は「メシア王国」(千年王国)と呼ばれます。
  • その「天の御国が近づいた」ことを告げ知らせることが、イェシュア来臨の目的です。これは神が旧約の預言者たちを通して語って来たことで、イェシュアが遣わされたことで、その御国が「すでにここにある」こと、しかし同時に「いまだ実現していないが、やがて確実に実現する」ことを意味するのが、ここで「近づいた」と訳された言葉です。「近づいた」のヘブル動詞「カーラヴ」(קָרַב)は、この到来の二つの在り方を一語で言い表すだけでなく、二つに分かれているものを「近づけて一つにする」という意味をも持っています。つまり、神の民イスラエルはソロモン王以降に北イスラエルと南ユダの二つに分裂しました。今もなお北の10部族はアッシリヤによって世界各地に離散している状況ですが、御国が完全に形に到来する前には、北イスラエルと南ユダを「近づけて一つにする」という意味を「カーラヴ」という動詞は持っています。つまり、「カーラヴ」(קָרַב)は、全イスラエルを回復するという神のみわざを表わす、実に不思議な言葉なのです。全イスラエルを回復するということは、イェシュアが十二人の使徒たちを選んだというその「十二」という数の中にも啓示されていました。このような視点からイェシュアの宣教戦略を見ていく時、イェシュアがなぜ「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」(マタイ15:24)と言われたのか、また十二使徒たちを派遣するにあたっても、「異邦人の道に行ってはならない、また、サマリア人の町にはいってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:5~6)と言われたのか、その理由が理解できるのです。
  • このような話を聞いて、異邦人である私たち(教会)が疎外されていると感じてはなりません。イスラエルの優位性は神が定められたことなのです。その神のご計画とみこころを正しく知るならば、「イエラエル」と「教会」を正しく位置付けることができます。教会は神の奥義として、神のご計画では隠されてきました。TV番組で例えるならば、イスラエルは通常番組で、異邦人を含む教会はその通常番組に入って来た特別番組のようなものです。特別番組は必ず終了して元の通常番組に戻らなければなりません。そして通常番組もやがては終了するのです。客観的に見ると、私たちは聖書を通して、神のご計画というTV番組を見ているようなものです。もし通常番組を知らずに特別番組だけを見ているとしたらどうなるでしょう。おそらくそれが特別番組なのかを理解できず、通常番組のように思ってしまいます。ですから気をつけなければならないのです。特別番組はあくまでも通常番組の中に枠づけされているのです。
  • 少し前置きが長くなりましたが、今回の「十二使徒の派遣に見るイェシュアの宣教戦略」の第二回目も、そのような視点から解釈しなければなりません。テキストであるマタイの福音書10章16~23節を読んで、イェシュアの宣教戦略を表わしている最も大切な言葉とはどれでしょうか。テキストをお読みしますので、各自、考えてみてください。

【新改訳2017】マタイの福音書10章16~23節
16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。


1. 「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」とはどんな意味か

  • 16節の最初にある言葉は、「見よ」を意味するギリシア語の「イドゥー」(ἰδού)です。これをヘブル語にすると「ヒンネー」(הִנֵּה)となります。ヘブル語の「ヒンネー」(הִנֵּה)は、聞くものに注意を喚起させる重要な語彙です。旧約では「見よ。その日が来る。」といった表現で、終わりの日になされる神の出来事を啓示する言葉として用いられています。「いいですか」と訳されるとそれほど重みを感じませんが、ここに「ヒンネー」が使われていると知るだけでその重要性を知ることができます。口語訳と新共同訳はなぜかこの重要な言葉を訳していません。
  • 続く「わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。」は、一見重要そうに見えますが、後に来る言葉の状況設定(説明)となっています。16節の「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)で喚起されているのは、むしろあなたがたは「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」という言葉です。「蛇」と「鳩」という言葉のイメージから、派遣される者の真逆の性格を表わしているように思ってしまいます。しかし結論を先に言うならぱ、この「蛇」と「鳩」で言わんとしていることは、同じ意味合いをもって二重に強調されているのです。ですからこの言葉の意味を正しく知ることが、イェシュアの宣教戦略を知ることに繋がるのです。
  • 蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」という言葉の説明に入る前に、「わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。」という言葉をまず考えておきたいと思います。狼も羊も原文では共に複数形です。狼は羊の敵です。そもそも羊は羊飼いなしには生きていけない存在ですが、その羊を狼の中に送り出すのは危険きわまりないことです。「羊」はイェシュアを信じる者たちを意味し、「狼」は羊のいのちを奪おうとする勢力を意味しています。
  • ここで「あなたがた」とは直接的には十二使徒たちのことを考えてしまいます。一義的にはそうかもしれませんが、マタイがこの10章を「第二の説教」としているのは、単にイェシュアの行動をレポートしているわけではありません。第一の説教である「山上の説教」(5~7章)と同様、預言的な教えとしてまとめているのです。さらに「十二」という数が、全イスラエルの回復を指し示す象徴的な意味を持っているということも考えておかなければなりません。神のご計画の中で、イスラエルの民(ユダヤ人)が主のメッセージを携えて派遣されたのは、
    ①イェシュアの宣教の働きでの時。
    ②イェシュアの召天後の初代教会時代。
    ③教会が空中携挙した後の患難時代の時だと考えられます。
    特に患難時代においては「14万4千人」(12の倍数)と「二人の証人」がこの働きのために起こされます。聖書は患難時代のことを、「主の日」「御怒りの大いなる日」「ヤコブの苦しみの時」と言っていますが、そのようなときにも、御国の福音の宣教を担うイスラエルの民が起こされることが預言されているのです。その時はまさに「狼の中に羊を送り出す」ようなもので、殉教を覚悟しなければならないことを指し示しています。患難時代の後に来るメシア王国(千年王国)においては、「狼(「ゼエーヴ」זְאֵב)と小羊(「ケヴェス」כֶּבֶשׂ)が共に宿り(גּוּר)」という普遍的平和が実現します(イザヤ11:6)が、それは「人の子」であるイェシュアが再臨してからのことです(マタイ10:23)。
  • 以上のことを想定したうえで、イェシュアは預言的に「ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」と命じているのです。この命令は現在形です。ということは、この命令は人の子が再臨されるときまで、絶えず有効な命令だということになります。

(1) 「蛇のように賢くありなさい」 

  • 「賢く」(さとく)と訳されたギリシア語は「フロニモス」(φρόνιμος)で、新約聖書では14回使われています。マタイの福音書だけでも7回(7:24,10:16,24:45,25:2,4,8,9)です。その用法を調べると以下の通りです。
    ① 天の御国の教え(憲章)を聞いて、それを行う者はみな、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(7:24)。
    ② 終わりの日の説教の中で語られる「主人に任命されて、食事を与える忠実で賢いしもべ」(24:45)
    ③ 終わりの日の説教の中で語られる「ともしびを持って花婿を迎えに出る五人の賢い娘」(25:4,8,9)
  • これらの①②③に見られるたとえ話にある「賢い人」「賢いしもべ」「賢い娘たち」は、いずれも、終わりの日について「目を覚ましている人」について言及されています。とすれば、10章16節の「蛇のように賢く」ということも同様に、「終わりの日」のことを視野に入れた「賢さ、思慮深さ」ということになります。反対に、「終わりの日」について無関心な者は、「愚かな人」「悪いしもべ」「愚かな娘たち」という言い方をイェシュアはされているのです。
  • 「蛇」のギリシア語は「オフィス」(ὄφις)、ヘブル語の「蛇」は「ナーハーシュ」(נָחָשׁ)です。その初出箇所は創世記3章1節で、「さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。」とあります。これは新改訳2017の訳ですが、改定第三版までの新改訳は「狡猾であった」と訳されていました。それは「蛇」の持つイメージに基づく意訳で、正しくは「賢かった」が正しいと思われます。へブル語の「賢い」は「アールーム」(עָרוּם)で、同じく創世記3章1節が初出箇所です。イェシュアは「蛇」を「巧妙で、悪賢い」意味ではなく、「賢い、利口な」という意味で使っているのです。
  • 民数記21章ではイスラエルの民を正すために、「蛇」が用いられています(正しくは「燃える蛇」で「火のような痛みを与える毒をもった蛇」という意味)。食べ物(マナ)に対するイスラエルの民のつぶやきに対して、神は「燃える蛇」を送られました。蛇は民にかみつき、それによってイスラエルの多くの人々が死にました。それほどに神が怒られたのには理由があります。「マナ」はやがて神から与えられる「天からのマナ」の予型です。「天からのマナ」は神の口から出るすべての言葉とも言えますし、またその言葉を語るために来られた神の御子ご自身とも言えます。もしイスラエルの民が神の語られる言葉に対して、粗悪で飽き飽きしたものだとつぶやくならば、それは霊的ないのち取りになりかねません。尽きることのない霊的源泉、私たちの魂を満ち足らせる良いものとして感謝して受け取り、その豊かな味わいを味わうことがなければ、霊的飢饉を自ら招き、魂に痛みをもたらすというということを警告する出来事こそ、「燃える蛇」が用いられた所以でした。神の刑罰による痛みを経験したイスラエルの民は、自らの罪を認め、救いを求めて、モーセのところに来ました。そして、「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」と願いました。モーセが彼らのために祈ると、主は救済の手段をモーセに教えました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(8節)。これが神の救済方法でした。大切なことは、「蛇」が神の民を正しく導くための道具(裁きと救いの手段)として用いられていることです。とすれば、神(イェシュア)が意味する「蛇のように賢く」とは、神のご計画における究極的な神のさばきと救いを知ることの賢さを意味しているものと言えるのです。
  • ヨハネの福音書では民数記21章の出来事に基づいて、イェシュアは以下のように「蛇」と「人の子」を同格として述べています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章14~15節
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

(2) 「鳩のように素直でありなさい」

  • 一方の「素直で」と訳されたギリシア語は「アケライオス」(ἀκέραιος)で「混じりけのない、純真な」とも訳されます。新約聖書ではこの箇所とあと2回しか使われていませんが、ヘブル語は「完全な、全き、傷のない」意味の「タ―ミーム」(תָמִים)です。「素直さ」にたとえられる「鳩」(ギリシア語は「ペリステラ」(περιστερά)、ヘブル語は「ヨーナー」(יוֹנָה)は、新約聖書では10回で、すべて福音書です。マタイでは3回(3:16, 10:16, 21:12)です。特に重要なのは3章16節です。それは他のすべての福音書に並行記事があるからです(マルコ1:10、ルカ3:22、ヨハネ1:32)。その出来事とはイェシュアの洗礼の際に「御霊が鳩のように天から降った」ということです。イェシュアのいう「鳩のように素直で」というのも、鳩にたとえられた聖霊の働きを知る必要があります。
  • 「鳩」は聖霊の象徴です。「鳩」を意味するヘブル語は「ヨーナー」(יוֹנָה)ですが、この語彙の初出箇所は創世記8章にあります。そこではノアが「烏」の後に「鳩」を放ちます。鳩は、最初は留まるところがなくてノアの方舟のところに戻って来ますが、七日後にはオリーブの葉をくちばしにくわえて戻って来ます。鳩はこのように100パーセントの確率で帰ってくる帰還性のある鳥なのです。鳩はまったく知らない地からでも自分の生まれた土地に帰還できる驚くべき能力を持っていると言われます。
    画像の説明
  • 右の「たばこ」のデザインは、「全き人」(「タ―ミーム」תָמִים)であるノアが、洪水の出来事の後に箱舟から鳩を放ったとき、鳩がオリーブの葉を加えて帰ってきたことを表しています。聖書ではじめて鳩が登場した話です。Peace と書かれていますが、この煙草は第二次世界大戦が終わった後に発売されたもので、鳩が平和(ピース)のシンボルとして用いられていますが、ノアの時代の鳩のくわえたオリーブの葉は、新しい時代が来たことを告げ知らせる希望を象徴するものです。その希望は、天の御国における究極的な「平和」の実現を意味しています。すなわちメシア的王国における祝福の総称である「平和」(「シャーローム」שָׁלוֹם)を意味します。
  • このように考えて来るならば、イェシュアのいう「鳩のように素直であれ」とは、単に遣わされる者の性格的イメージではなく、「神のご計画の完成である【平和】をいつも信じている全き者」という、御国を待望する信仰的姿勢を意味するものとなります。このような信仰的姿勢は聖霊によってのみ与えられるものです。このことが「蛇のようにさとく」と結びつけられているのです。ヘブル的修辞法からすれば、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」とは、蛇と鳩の比喩を対比として理解するのではなく、同義的パラレリズム(意味を強調する修辞法)として理解すべきです。そうすることで、御国が実現するまでのイスラエルに起こってくる神のご計画と、そのプロセスにある苦難に打ち勝ち、勝利をもたらす信仰(マタイ10:17~23)が理解できるようになるのです。

(3) 要約

蛇のような「賢さ」= 神のご計画における究極的な神のさばきと救いを知ることの賢さ」、
鳩のような「素直さ」= 神のご計画の完成である祝福の総称である【平和】を信じる素直さ

  • 「賢さ」と「素直さ」の二つをどのようにして兼ね備えることができるでしょうか。それはイェシュアの語られた「天の御国」とはいかなるものであるかに耳を傾けることです。そして彼の声に聞き従うことです。そのためには、人々に気をつけなければならないことがマタイ10章17節以降に記されています。

2. 最後まで耐え忍ぶ人は救われます

【新改訳2017】マタイの福音書10章17~23節
17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでにあなたがたがイスラエルの町々巡り終えることは、決してありません。

  • この部分(マタイ10:17)以降は、マルコ福音書でもルカ福音書でも記していますが、注目すべきことは、いずれも『終わりの日の教え(説教)』の中で取り上げられているのです。ということは、マタイ10章17節以降で言われていることは、終わりの日に起こることだと言えますし、それはとりわけ患難時代に起こる未曽有の苦難の出来事を背景にして語られていると言えます。色付けされている部分は、内容が似ていることを表しています。⇒ここをクリック
  • 私たちは今のことしか頭にしかありませんが、イェシュアは全イスラエルが回復される計画のプロセスにおいて何が起こるかを知っていて、そのための注意を促しておられるのです。それによれば、以下の四つのことに集約できます。

(1)イェシュアを信じるイスラエル人が捕らえられ、引き渡され、迫害されることで、他のイスラエル人と異邦人に対する証しの機会となること。
(2)そのときに何をどう話そうかと心配しなくてもよいということ。なぜなら、話すことはそのとき与えられるから。
(3)わたしの名のためにあなたがたはすべての人に憎まれること。
(4)しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われるということ。

  • 特に、イスラエルの民が「わたしの名のためにすべての人に憎まれる」というのは、患難時代のことだけでなく、いつの時代にも起こり得ることです。しかしその苦しみの規模と深刻さに比べるなら、その比ではありません。患難時代は「未曽有の患難」なのです。しかしそうした厳しい事態に遭ったとしても、主にあるイスラエル人たちによって、「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来」(マタイ23:14)るのです。そして最後まで耐え忍ぶことができるのは、イェシュアが命じられた「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」という戦略的命令に従う者たちなのではないでしょうか。
  • 「最後まで耐え忍ぶ人は救われる」という意味は、七年間の患難時代の後半の三年半(すなわち1260日)の大患難の終わりまで耐え忍ぶ人は千年王国(メシア王国)に達することができるということです。たとえ途中で殉教したとしても千年王国が始まるときにはよみがえらされるのです。教会に属する私たち異邦人も、同じくイェシュアのいう「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」という主の戦略的命令を共有しながら、御国が来ることを待ち望む者でありたいと思います。


2018.10.14


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