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力の限り、あなたの心を見張れ

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

11. 力の限り、あなたの心を見張れ

【聖書箇所】4章20〜27節

ベレーシート

  • 4章は、1節の「子どもらよ」のフレーズで始まる部分と、10節と20節にある「わが子よ」のフレーズで始まる部分とで、三つの部分から成っています。日本語訳ですと、これらのフレーズが文の頭にあるように思わせます。しかし原文では以下のようになっています。
    (1) 1節「シムウー・バーニーム」(שִׁמְעוּ בָנִים)
    (2) 10節「シェマ・ベニー」(שְׁמַע בְּנִי)
    (3) 20節「ベニー」(בְּנִי)
  • このように見てみると分かるように、20節だけが「わが子よ」と語りかけているのに対して、1節と10節は共に「聞け」「聞き従いなさい」という命令形の後に「わが子よ」という呼びかけが来ているのです。これは神がイスラエルに対して語った「シェマ・イスラエル」(申命記6:4)と同じです。このパタ―ンが「父と子」の間にも見られるのです。父が子に対してこのような呼びかけができるためには、父が神との正しいかかわりをもっているということが前提条件です。神の祝福は神と正しい関係にある父親を通してその子どもたちへ注がれるからです。そうした祝福の流れを築くことは容易なことではありません。実は、難事業なのです。
  • 敬虔な父親が与える良い影響は、アブラハムとイサクとの関係において見ることができますし、またダビデとソロモンとの関係にも見ることができます。そのソロモンが父ダビデから王位を継承される前に次のように教えられていました。
    「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。今、心に留めなさい。・・」(Ⅰ歴代誌28:9~10)と。そして事実、王位を継承したソロモンが神に求めたことは、神の王国を治めるための善悪を判断する心でした。しかし彼の父ダビデの影響もソロモンの治世の後半から次第に崩れ始めて行きました。
  • 主にある家庭教育の実践と信仰の継承の使命を果たすことは、主にある者たちの大事業であると同時に、難事業でもあるということです。そこで、箴言の4章20~23節で、父が子に対して「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。」と語ったそのことばを考えてみたいと思います。なにゆえに自分の心を見守る必要があるのでしょうか。

1. ヘブル語の「心」という語彙の意味

【新改訳改訂第3版】箴言4章20~23節
20 わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
21 それをあなたの目から離さず、あなたののうちに保て。
22 見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。
23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

  • 旧約において「心」と訳されているヘブル語は二つあります。ひとつは「レーヴ」(לֵב)で97回。もうひとつは「レーヴァーヴ」(לֵבָב)で252回です。「レーヴァーヴ」は箴言では2回(4:21/6:25)と少なく、「レーヴ」がほとんどで、旧約601回中97回が箴言で使われています。これは詩篇の102回に次ぐ使用頻度数です。つまり、箴言では「心」という語は重要だということです。ちなみに、「心」は第1章と第29章を除くすべての章で必ず登場しているのです。ですから、箴言を読むためには、この「心」についての正しい理解が必要です。
  • ヘブル語の「レーヴ」(לֵב)は、日本語の意味する「心」とは異なります。日本語の「心」は感情的な思い、情緒的なニュアンスが強い語彙です。信仰の捉え方を「頭で考えるのではなく、心で感じろ」という人がいますが、ヘブル語の「心」はむしろ頭で考える「知性的な面」(理性的、論理的)のニュアンスが強いのが特徴です。「気持ち」とか「気合」といったニュアンスは「レーヴ」にはなく、むしろ「思考」「考え」をつかさどる部分が「レーヴ」なのです。また「レーヴ」は、英語の「ハート」(heart)ではなく、「マインド」(mind)に相当します。
  • この「レーヴ」の初出箇所は創世記の6章5節です。

    【新改訳改訂第3版】創世紀6章5節
    【主】は、地上に人の悪が増大し、そのに計ることがみな、
    いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。


    ●ここでの「心」は、人の「思い計る部分」として記されています。いつも悪いこと、すなわち、神のみこころに逆らうことを考えている心です。そしてその「心」が「行動」を支配しているのです。なにゆえに、「心を見守る」必要があるのかと言えば、思考によってあらゆる行動が生まれてくるからです。もし、この心の中で否定的な考え方をすれば、否定的な生き方をすることになるのです。しかし、神のみことばによって思考を一新するならば、神のみこころを知り、それにふさわしく生きることができるようになるのです。


2. 「心を見守る」必要があるのはなぜか

  • 旧約の「心」の意味を知っているパウロは、手紙の中でも「心」という言葉をもそうした意味合いで使っていると考えられます。例えば、ローマ人への手紙12章2節にはこうあります。

【新改訳改訂3版】ローマ12章2節
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

  • 「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ということを神の概念で考えなければなりません。そのために必要なのは「心の一新によって自分を変える」ことですが、それはどういうことなのでしょうか。
  • 「心の一新」とは、「思考を一新する」ということです。パウロは「人間的な標準で(=肉によって)人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:16)と書いています。「人間的な標準」というのは人間の概念のことです。人間的な概念で物事を知ろうとしないということは、神の概念で物事を考えることを意味します。神の世界のことをこの世の言葉の概念で知ろうとすれば、真意から外れた理解となってしまいます。自分の生まれながらの思いや考え、あるいはこの世の知恵は、神の思いや考えとは異なるという事実を受け入れることが不可欠なのです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書55章8~9節
8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──
9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い


【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント2章6~8節
6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

  • イザヤ書では、神ご自身がはっきりと「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり」と宣言していますが、ここで使われている「思い」はいずれも動詞「ハーシャヴ」(חָשַׁב)の名詞形「マハシャーヴァー」(מַחֲשָׁבָה)です。これは「心」(「レーヴ」לֵב)の中にある「思い・思考・はかりごと」なのです。つまり、「心」と「思い」は同義です。神の思いは「神の知恵」ですが、人の思いは「この世の知恵」とも言えます。それは水と油のように交わることができないのです。それゆえ、神の世界に人の思いが入らないように見守る必要があるのです。
  • パウロも「隠された奥義としての神の知恵」と「この世の知恵」があること。そして「この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵」は「神の知恵」を悟ることができないという現実を述べています。それを悟るためには神の御霊の助けが必要です。御霊の助けによって、神のみこころを知り、そこからすべてのことを考えるようにすること。これがパウロの言う「心を一新する」という意味です。そのことによって、さらに神の奥義としてのご計画を知り、神のみこころ、神の御旨、神の目的を知ることができるのです。その一つのツールとしてヘブル語があります。ヘブル語は神の概念を正確に表わす神の言語です。それが1948年のイスラエル建国と同時に復興されたことは神の奇蹟です。でなければ、私たちは今も神の言語であるヘブル語を学ぶことができなかったからです。
  • パウロが語った「心の一新によって自分を変える」とはどういうことかをまとめてみたいと思います。

(1) 「この世と調子を合わせてはいけません」

●直訳は「この世の鋳型にはめこまれてはいけません」です。神を認めない、神のみこころを知ろうとしないこの世の考え方、思考の型にはめこまれてはならないということです。これは箴言4章23節の「心を見張り」という意味だと言えます。

(2) 「むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」

●これは、神の隠された奥義を尋ね求めることを意味します。それはイェシュアのいう「天の御国の奥義」を知ること、つまり、尊いたった一つの真珠を見つけることでもあります。

(3) 「心の一新によって自分を変える」
●これは、自分の「思い」「思考」を意図的に、自覚的に、主体的に神の概念に刷新しようとすることです。メシアニック・ジューの人たち(イェシュアをメシアと信じたユダヤ人のこと)は、心の一新によって「自分を変える」という部分を「ヒットハッレフー」(הִתְחַלְּפוּ)と訳しています。これは動詞「ハーラフ」(חָלַף)の2人称男性複数命令形の強意形ヒットパエル態です。旧約聖書では「ハーラフ」がヒットパエル態で使われている例はありません。しかし、ここではあえてヒットパエル態を用いて訳しています。つまり、自ら、自覚的に、主体的に、自発的に「ハーラフ」することなのです。「ハーラフ」とは「過ぎ去る」「再び芽生える」という意味ですが、そこから「変える」「刷新する」「着物を着替える」「定めを変える」という意味にもなります。この結果、「新しい力を得る」(イザヤ40:31)という意味にもなるのです。これがキリストにあって「新しく造られた人」の生き方です。

●とはいえ、キリストの再臨(携挙)によって朽ちないからだとされるまでは限界があります。しかし、御国の到来(千年王国)においては、すべてが完全に刷新されて生きることができるのです。それゆえ「新しい力を得」て疲れることがないのです。そのような終末的希望が約束されているのですから、そこに向かってふさわしく、「心を一新して自分を変え」て生きるようにと勧められているのです。この勧めは、良い意味での「聖霊によるマインド・コントロール(思考の支配)」なのです。


最後に

  • 箴言4章20~23節を引用して、「父のことばを心のうちに保ち、力の限り、見張って、心を見守る」ことは、パウロの言う「心の一新によって自分を変える」ことと同義であること。そして、そうすることの祝福にも目を留め、それを自分のものとしたいと思います。

【新改訳改訂第3版】箴言4章20~23節
20 わが子よ。私のことばをよく聞け。
私の言うことに耳を傾けよ。
21 それをあなたの目から離さず、
あなたののうちに保て。
22 見いだす者には、
それ(=心)はいのちとなり、その全身を健やかにする。
23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれ(=心)からわく


2015.11.11


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