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偉大な大祭司イエス

第9日「偉大な大祭司イエス」 

私たちにはもろもろの天を通られた偉大な大祭司がおられる

はじめに

〔テキスト4章14~16節〕

4:14
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

  • 特に太字で記された部分が重要です。この二つの部分に注目して神さまからのメッセージを受け取ってみたいと思います。実は、今朝のテキストの部分から先は、このヘブル人への手紙の本論という重要な部分に入っていきます。重要というのはこの手紙が一番言いたいこと、強調したいことです。今朝はその本論の序文的な部分を扱うことになります。
  • この手紙の重要な部分で強調されていることは私たちの主イエス・キリストが「大祭司」であるということです。これまでも「大祭司」ということばは、2章にも3章にも出てきていました。ところが、その大祭司なるイエスのことについて、より本格的に扱っていきます。
  • 「大祭司」ということばには、旧約の「祭司制度、いけにえ制度」といった背景があります。神を礼拝し、神に近づくためには、彼らーすなわち、祭司という仲介者なしにはできないようになっていました。大祭司はそうした制度のトップに立つ存在です。この大祭司は神に対しても、また人に対しても、完全なかかわりを持つことではじめてその働きが成立することができました。
  • 仲介者である大祭司の存在なしには、私たちが神の前に来ることも、立つことも、近づいて親しくなることも不可能なのです。もう一度、テキストの4章14節のみを見てみましょう。
    14節「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのです」と。

1. 信仰の告白を堅く保とう

  • 「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから」の・・

(1) 「もろもろの天を通られた」とは

  • 「もろもろの天とは」とはなんでしょう。また「そこを通られた」ということはどういうことでしょうか。大祭司にかかわる重要なことですが、少し考え見ましよう。
  • 聖歌の中に「諸天は神の尽きぬ栄え、世人に語れり」という歌があります。「諸天」ということばが使われています。「諸天は神の尽きぬ栄え」を啓示しているということです。

① 詩篇148篇には「主をほめたたえよ。天の天よ」とあります。「天の天」を「諸天の天」とも訳されます。つまり「もろもろの天」です。旧約の人々は私たちが目にする青い空、そこにも水があると考えていようです。

② 歴代誌第二2:6には、壮大な神の宮―神殿―建てようとしたソロモンが、ツロの王にその資材となる最良の木材を依頼したときに彼が語ったことばがあります。
「天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。また、主のために宮を建てるというこの私は、いったい何者でしょう。ただ主の前に香をたくためだけの者です。」と謙遜です。本来ならば、「天も、天の天も主をお入れできない」それほどのお方のために私どもが宮を建てることなどおこがましいのですが・・」という意味。

  • あるいは、霊の世界)におけるさまざまな支配(特にサタンと悪霊たちの)階層が考えられていたのかもしれません。そういえば、創世記の1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」というとき、「地」は単数であるのに、「天」は「ハッシャーマイム」という複数形です。
  • いずれにしても、「もろもろの天」が存在し、そこを通って、どこにいったのかがむしろ大切なことです。「もろもろの天を通られ」てイエスはいったいどこへいかれたのでしょうか。その答えは、御父のところです。ひとたび天から下られたイエスは十字架の死を通って、最も深い所(「よみ」というところ)へ下られました。しかしイエスは三日後、死からよみがえられて、偉大な大祭司として私たちをとりなすべく最もふさわしい場所、それは御父の右の座に行かれたのです。御座はこの宇宙で最も権威ある場所です。すべてのものを治める宇宙的センターです。そしてそこで大祭司なるイエスは私たちのためにとりなしておられるのです。

(2) We have a great High Priest

  • 「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられる」というこの事実を私たちは信じなければなりません。へブル人ではとりなしの存在としての「大祭司」ということばにこだわっていますが、使徒パウロの手紙はそうではありません。直接的に「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8章34節)と述べています。私たちはこの方によって、たとえ患難の中にあっても、迫害にあっても、危険に目にあっても、どんなことの中にあっても、「圧倒的な勝利者となるのです。」と宣言しています。そして、このキリストの愛から引き離すことはだれにもできないと語っています。
  • ここには「十字架の教え」を超えた「御座の教え」があります。御父の右の座に着かれた神の子イエス、偉大な大祭司なる方によって私たちは支えられているという確信的な教えです。十字架をとおって御座へ着かれた小羊なるイエス、その小羊は最も弱い存在ありながら、最強の力と権威をもった小羊なのです。その小羊が今や神の右の座において、天において統べ治めておられるのです。
  • 昔は「十字架系の賛美―あがないの賛美」が多かったのですが、近年、「御座系の賛美」が教会で歌われるようになりました。
  • この偉大な大祭司が「私たちのためにおられるのです。」これを英語ですと、We have a great High Priestというふうになります。We have 私たちは「持っている」「所有している」「私たちのものだ」という意味です。ある人はお金を持っている。地位や名誉を持っている。家を持っている、友達を持っている、能力や経験を持っているという人がいます。その人が何をもっているのかによって人からどう評価されるかが決まるわけです。しかし私たちは何を持っているでしょうか。あなたが有しているのは何ですか。使徒ペテロとヨハネが神殿に祈りに行った時に、生まれながら足の不自由な人から施しを求められました。そのときなんと言ったでしょう。「私には金銀はないが、私にあるものを上げよう」と言って差し出したのは、「イエスの御名」です。つまり、「イエスという方」でした。このイエスは「もろもろの天を通られて、私たちのために、最も権威ある御父の右の座に着かれた方です。その方が私たちのためにとりなしてくださるのです。」それが私たちの信仰です。それゆえ、今朝の第一の奨励―「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」―がものを言います。

(3) 信仰の告白を堅く保つ

  • 私たちは偉大な大祭司である神の子イエスをもっているという確信こそ、すべての持てる者の中で最もすばらしいものなのです。大祭司のおられる御座からすべての神の祝福が流れてきます。その源泉におられる方を私たちはもっているのです。
  • 「安眠」は信仰のバロメーターであることを話ししました。良い眠りが与えられるということは神の祝福です。私たちの心に心配ごとやかき乱されるような出来事に遭遇するとなかなか眠れないということがおこります。これから自分の人生はどうなっていくのかと思うと心配で、心配で眠れないということが起こるのです。「あなたは神のくださる安息を得ていますか。」と問いましたが、それはいつも私たちが自分に向かって問わなければなりません。神を信じることをせず、少しでも疑いを持つならば、それを心に入れることを赦すならば、必ず、恐れの霊に取りつかれ、安息を失います。安息は、「神の約束+信仰」によってもたらされるということを、今一度、心に留めたいと思います。
  • 聖書の教える信仰について、今朝は少しく触れておきたいと思いますが、「信じる」とは四つの意味があります。

    ① 相手の中に入り込むこと
    ② もたれかかること(まかせること)
    ③ 空身になること
    ④ あてにすること(ゆだねること)

① 相手の中に入り込む・・深いかかわりを持つこと

  • 「信じる」ということを英語では believe in □と表現します。たとえば、believe in Jesusといえば、イエスを信じるということですが、イエスの中に入り込むという意味です。ギリシア語原典でも「ピステューオー・エイス・イエスース」と言います。「エイス」が英語のinに当たります。相手の中に入り込む、相手と深くかかわることが「信じる」ということです。
  • 「人生は出会いで決まる」とよく言われます。確かにそうです。どんな人と出会うか、その出会いによって自分の人生が決定づけられてしまいます。挙式する方にどんな出会いでしたかと聞くと、さまざまです。怪我して入院していたその病院に勤める看護師との出会い、高速道路で車が動かなくなって修理に駆け付けた方との出会い、メールでのやり取りによる出会い、友達の紹介、・・出会いの契機は人さまざまです。
  • よき伴侶との出会い、よき友人、よき同労者、よき協力者との出会いは私たちの人生においての宝と言えるでしょう。ましてやイエス・キリストの出会いはどうでしょう。私たちはその出会いをすでに与えられていますが、その出会いが私たちをして永遠に決定づけてしまうほどに深くかかわっているでしょうか。「深くかかわる」そのような意味で、イエスの中に入り込んでいるでしょうか。よき伴侶も、よき友人も、浅いかかわりであるならそのような関係になることはありません。信じるということは、その信じる相手の中に深くかかわること、相手を知り、忍耐深くかかわっていくことではないでしょうか。
  • マタイの福音書11章28節を用いていうならば、「わたしのもとに来なさい」というイエスの招きに従うことです。

② もたれかかる

  • 信仰の第二の側面は、イエスにもたれかかることです。「静まりのセミナー」で最初に教えられることは、なんと座り方です。おもに椅子に座ることが多いのですが、その椅子の座り方から教わります。椅子に自分の身を支えてもらうようにもたれること、そのためには、自分の腰と椅子の背もたれの部分の接点がきちんと合わさることが肝心です。私たちは、普段はそのようなことをあまり意識しませんが、静まりのセミナーでは私たちが普段あまり意識していないところにまず注意を向けせます。
  • イエスと深くかかわろうとするならば、私たちを支えている腰の部分をイスとうまく合わせるように、腰とは身体の要と書くように、私たちが大切にしてきたことを、あるいはしているものを、相手(聖書の場合にはイエス) に任せて、意識的に持たれかかることです。
  • マタイの11章の表現でいうならば、イエスが「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言われたように、「くびき共にする」ということではないかと思います。

③ 空身になる

  • 信仰の第三の側面はもたれることと別の表現です。つまり、自分の持っている荷物をイエスに預けて、託して、空身になることです。この荷物は私が頑張って持たねば、預けることは無責任です、と言っているうちは信じるということが分かっていません。自分がこれまで頑張ってもっていた荷物を全部イエスに預けること、託すこと、それだけで、信じられないくらいずっと楽になります。イエスは言いました。「わたしのくびきは負いやすい」と。なぜなら、イエスが引っ張ってくれるからです。

④ 完全に当てにする (手放すこと、身をまかせること)

  • 信仰の最後の面、これがとても重要です。私たちは信仰というとなにか力いっぱいしがみつくことのように思っていますが、反対です。手放すことです。
  • 赤ちゃんは自分を抱いてくれる母親を完全に信頼しきっています。意識しないほどに。抱いているとき、赤ちゃんがいつ落とされるかわからないと思って母親の服かなにかをしっかりと握っていたとしたらどうでしょう。かわいくない子どもです。自分が落ちるなどと思ってもいません。ところが、大きくなるにつけて、抱かれてもいつ落とされるかわからないと思い、安心して抱かれることをしなくなります。
  • これが信仰生活の中でも起こってきます。自分はいつか神の腕から落ちてしまうのではないかと、心配で、神のみ腕に身をまかせないのです。たとえ、もし落ちるようなことがあっても、神の「永遠の御腕が下に」あるのです。これはモーセがイスラエルの民に語った訣別説教の中の言葉ですが、これを実際に経験したのは御子イエス様でした。十字架の死というさばきの中に落ちたイエスの下に、御父の永遠の御腕があったのです。それゆえ、御子は死から復活できたのです。
  • 以上、聖書が教える信仰の四つの側面についてお話しましたが、私たちには今や、もろもろの天を通られた偉大な大祭司がおられるのですから、その方に対する信仰を堅く保つて行こうではありませんか。この方への信仰を捨ててはいけません。自分を保つのに、この方ではあたかも足りないかのように、他のものをつかむようなことがないようにしたいものです。聖霊様も、偉大な大祭司であるイエス様一辺倒になるように、私たちを教え導いてくださいます。ですから、「もし、きょう御声を聞くならば、心をかたくなにしてはなりません。」

2. 大胆に恵みの御座に近づこう

  • 今朝のテキストの後半の部分を見ていきたいと思いますが、実は、15、16節は14節で「私たちには偉大な大祭司をもっているのだから、その方への信仰を堅くたもう」と呼びかけたあとで、その大祭司が私たちにとってどういう方かを別な面から説明して、その方の助けを受けるために、その方に大胆に近づきましょう。」という流れになっていて、前半と後半は全く別のことをいおうとしているのではなく、むしろ、私たちの信仰を堅くするのを補強するかたちになっています。

    4:15
    私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
    4:16
    ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

(1) 私たちの大祭司は、私たちの弱さを理解(同情)してくださる方

  • 赤星進というクリスチャンの精神科医がおります。この先生が青年の時にキリスト教に触れ、イエス・キリストを信じました。やがてどのような進路を進むべきか考えていました。医学の道で主に仕えるか、神学校に行って牧師として主に仕えるか、いずれの進むべきか悩んだ末に、自分の教会の牧師に相談しました。するとその牧師は、医学の道を通して主に仕えることを勧めたそうです。おそらくだれにでもできることではないからでしょう。そして赤星先生は東大の医学部を出て、当初は精神科医としてではなく、外科医として約1,000例もの手術をこなしたそうです。それから心と体のかかわりに関心を持つようになり、人格医学を提唱していたポール・トゥルニエというスイスの精神科医者の影響を受け、自らも精神科医となっていくわけですが、その先生が、また外科医で活躍していたころ、自分も病気で大手術をしなければならない羽目になりました。そのとき、彼の多くの患者たちが大喜びしたそうです。「これで私たちの痛みがよく分かってくれると・・」 「共感の喜び」とで言うべきでしょうか。
  • 確かに、私たちは痛みを経験してはじめて人の痛みを理解できます。貧しさを経験してはじめて人の貧しさを理解し、同情できます。しかし、私たちはひとりで、すべての点において経験できるわけではありません。したがって、すべての人を理解するということは不可能と言わなければなりません。ところで聖書には偉大な大祭司となったイエスは「私たちと同じように、すべての点で、試練(試み)に会われました」とあります。このことばが意味することは、人間のありとあらゆること経験するということではなく、信仰を揺るがすような試みのすべてを経験された」という意味ではないかと考えます。
  • 神から私たちを引き離そうとする敵の策略を、敵の誘惑をすべての点において経験されたという意味だと思います。罪は犯しませんでしたが、罪に陥れようとする誘惑、人間が受ける誘惑、その誘惑のすべてを経験したのです。40日40夜の「荒野の試み」はそのよい例です。
  • その誘惑の経験は、人間が受ける誘惑の力よりももっと強く経験されたのです。というのは、人間は誘惑に対していとも簡単に屈してしまうので、その戦いは罪を犯さなかったイエスとはその戦いにおいてくらべものにならないほどです。しかし、イエスは誘惑がいかに強いものであり、人間はいかにそれに弱いかをよく知っておられました。
  • 「私たちの弱さ」とは、誘惑に屈しやすいということです。その点においてイエスはよく理解しておられました。自分も同じように、私たちのレベル以上にそれを受けたからです。罪は犯しませんでしたが、その誘惑の力に人間が耐えられないことをよくご存じでした。その意味においての同情であり、理解です。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」、という言い回しは、むしろ、私たちの弱さを十分すぎるほどに同情できる方であり、理解してくださっている方なのだ」と言っています。しかしヘブル人の作者は、単に、イエスが私たちを理解し、同情して下さる方というだけで終わっています。むしろ、その先。つまり、誘惑に打ち勝っていく助けを備えておられる方であるということを喚起させようとしているのです。

(2) 試み(誘惑)に打ち勝っていく助けを受けるために、大胆に神近づこう

  • ですから、16節。「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と呼びかけているのです。「弱いからそのままでいい」ということは言っていません。弱いことは十分すぎる程、私たちの気づかないところまで、イエスはよくご存じです。私たちがこの世において生きる上で試みは常にあります。しかし同時に、御座におられる大祭司は、私たちが誘惑に陥ることなく、神の子どもとして生きる必要な助けを与えようとしておられる。だからこそ、「大胆に、恵みの御座に近づこう!」と奨励しているのです。そうするなら、「おりにかなった助け」「時期を得た助け」がある、それを受けるためには、私たちの方から近づいて行く、つまりその助けを信仰をもって大胆に求めていく必要があるということです。
  • 今朝の聖句の理解において、私たちはこの大祭司が私たちの弱さをよく理解してくださるというところに力点が置かれますとそれで終わってしまいます。むしろ、神の子どもとされた私たちが、幼子から大人へ、より成熟した者となれるように、研ぎ澄まされた霊的な感覚をもてるように、もろもろの天を通られた大祭司はそのためのあらゆる助けを備えておられる。ですから、その助けを受けるために、神により、〔恐れることなく〕〔はばかることなく〕〔遠慮することなく〕〔大胆に〕〔確信をもって〕〔熱心に〕神に近づこうと促しているのです。あなたはその促しの声に答える者のひとりでしょうか。


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